02
魔王がそう唱えた瞬間。
彼の右目から、ドクン、と黒い血が流れ始めた。
それと同時に、僕の視界がぐにゃりと歪む。重力が消失し、足元の雪原が崩れ落ち、魔王の右目から放たれる漆黒の渦が僕を飲み込む。
視界が完全に黒く塗り潰される。
重力も、温度も、時間すらも存在しない、絶対的な無の空間。
僕は、魔王の右目から放たれた漆黒の渦——血契夢境『ALICE』の深淵へと、真っ逆さまに落ちていった。
抗う術はない。手足は鉛のように重く、声帯は凍りついたように動かない。
意識だけが、薄皮一枚でこの世界に繋ぎ止められているような、ひどく不安定で絶望的な感覚。
(あ、あ……ここで、死ぬのか……?)
マーシャを逃がすことには成功した。でも、僕はここで終わる。
平凡な騎士になって、大切な人を守る。そんな僕のささやかな夢は、あまりにも理不尽で圧倒的な『魔』の力によって、あっさりと握り潰されようとしていた。
冷たい闇が、僕の魂を徐々に侵食し始める。
思考が溶け、自分という存在が消えかかった、その時だった。
『——まだだよ。君の物語は、ここで終わるべきじゃない』
暗闇の底で、声が響いた。
それは魔王の不快なノイズではない。どこまでも優しく、温かく、そして……ひどく悲しげな響きを持った大人の男の声。
「え……?」
僕は弾かれたように、声のした方向へと意識を向けた。
真っ暗だったはずの空間に、一筋の『光』が差し込んでいる。
その光は徐々に人の形を成していき、やがて僕の目の前に、一人の男が静かに降り立った。
金糸のように美しい髪。身に纏うのは、見たこともないほどに純白で、神聖なオーラを放つ甲冑。
その姿は、まるで神話に語られる『英雄』そのものだった。
「貴方は……?」
男は僕の問いには答えず、ただ穏やかな、黄金色の瞳で僕を見つめ返した。
その顔を見て、僕は息を呑んだ。
信じられない。いや、そんなはずはない。でも、目の前にいるこの男の顔立ちは……。
今日、村を熱狂の渦に巻き込んだあの『勇者ラングルド』と、瓜二つだったのだ。
だが、纏っている空気が決定的に違う。
ラングルドが完璧に計算された「偶像としての聖人」だとすれば、この男から溢れ出ているのは、不器用なまでに純粋な「他者を慈しむ愛」そのものだった。
『よく頑張ったね。怖い思いをさせて、本当にすまなかった』
男は、僕の頭にそっと手を置いた。
その掌から伝わる温もりが、僕の魂を侵食していた魔王の闇を、嘘のように浄化していく。
「貴方は、一体誰なんですか……? どうして、僕の心の中に……」
『僕の名前は、もう思い出せない。ただの、過去の亡霊さ』
男は自嘲気味に微笑んだ。
『でも、君の中に眠る“光”が、僕をここに呼び覚ました。……千年の時を超えて、僕の弟である君が僕の意志を継いでくれる器だというのなら。僕は、この残された最後の力を、君のために使おう』
男の身体から放たれる黄金の光が、さらに激しく、眩く輝き始めた。
空間が震え、魔王のALICEの暗闇が、その光に耐えきれずに悲鳴を上げているのが分かる。
『弟よ』
男は、僕の目を見て、静かに、けれど絶対的な力強さを持って告げた。
『——あとは僕に任せて。少しの間だけ、君の身体を借りるよ』
「あっ……!」
男の姿が光の粒子となり、僕の胸の奥……魂の核へと吸い込まれていく。
それと同時に、僕の意識は温かい光に包まれ、深い眠りへと落ちていった。
(…………………)
現実世界。
魔王は、自らの血契夢境『ALICE』に飲み込まれ、完全に意識を失ったエミールの肉体を見下ろし、醜悪な笑みを浮かべていた。
『さて。この原石の精神を完全に破壊し、僕の従順な人形に作り変えるとしようか。マーシャ・アドミニストレーターには逃げられたが、まあいい。彼女の絶望する顔は、また後でゆっくりと——』
魔王が漆黒の魔剣を振り上げ、エミールの心臓に呪いの楔を打ち込もうとした、その刹那だった。
ピキッ……!!
魔王の足元で、空間に巨大な亀裂が走った。
『……何?』
亀裂は一つではない。二つ、三つと増殖し、絶対不可侵であるはずのALICEの領域そのものが、内側からの異常な圧力によってミシミシと軋みを上げ始めたのだ。
『な、なんだこれは!? 僕のALICEが……内側から破られようとしているだと!?』
魔王の顔から、余裕が完全に消え失せる。
その次の瞬間。
魔王のALICEという概念そのものが、内側から爆発するように粉々に砕け散った。
現実の雪原へと強制的に引き戻された魔王は、信じられないものを見るような目で、前方を凝視した。
そこに立っていたのは、先ほどまで気絶していたはずの少年、エミール・ハーヴェスト。
だが、その様子は明らかにおかしい。
俯いたままのエミールの身体から、魔王の瘴気とは真逆の……触れるものすべてを浄化し、悪を焼き尽くすような『黄金の光』が、猛烈な勢いで立ち昇っていたのだ。
エミールが、ゆっくりと顔を上げる。
その瞳は、少年のものではない。千年の時を経て蘇った、魔を滅する『真の英雄』の黄金の瞳。
『お、前は……。馬鹿な、その光は……! その瞳は!!』
魔王は、本能的な恐怖に顔を歪め、一歩後退った。
「——退け。魔の眷属よ」
エミールの口から紡がれたのは、彼自身の声でありながら、彼のものではない、絶対的な王の威厳を持った重い声だった。
「この子供の魂は、お前のような邪悪が触れていいものではない」
『ふざけるなァッ!!』
魔王は恐怖を振り払うように咆哮し、巨大な黒鴉の刃をエミールに向けて振り下ろした。
空間を削り取るような、魔王の全力の一撃。
しかし、エミール(英雄)は、腰の大剣を抜くことすらしなかった。
ただ、右手を静かに前にかざしただけ。
——カァンッ!!!
甲高い金属音が雪原に響き渡る。
魔王の絶対的な一撃は、エミールの掌から放たれた薄い黄金の障壁に触れた瞬間、見えない壁に弾かれたように完全に停止した。
『なっ……!?』
「言ったはずだ。退け、と」
エミールが右手を軽く払う。
ただそれだけの動作。しかし、そこから放たれた黄金の魔力波は、魔王の巨体を軽々と吹き飛ばした。
『グァッ……アアアッ!?』
数十メートル後方まで吹き飛ばされ、雪原を派手に転がる魔王。
その漆黒の衣服は焼け焦げ、彼が纏っていた絶対的な瘴気が、黄金の光に触れた部分からシュゥゥゥッと音を立てて浄化(消滅)していく。
『ク、ソッ……! 1000年に一度の……英雄の魂が、まさかこんな子供の中に眠っていたというのか……!』
魔王は血を吐きながら立ち上がり、憎悪と恐怖が入り混じった目でエミールを睨みつけた。
『覚えておけ、英雄の器よ! 今日は退いてやるが、お前の命は必ずこの俺が——』
魔王は捨て台詞を吐きながら、空間を歪めて転移のポータルを開く。
だが、その背中は明らかに『逃亡』を急いでいた。
空間の歪みに魔王の姿が消え、雪原に再び静寂が戻る。
それを見届けたエミールの身体から、黄金の光がスゥッと引いていく。
「……よく、頑張ったね。あとは、ゆっくり休むといい」
最後にそんな優しい言葉を口の中で呟くと、エミールの瞳は完全に閉じられ、糸が切れたように雪の上へと倒れ込んだ。
(…………………)
どれくらいの時間が経っただろうか。
猛吹雪が止み、雲の隙間から冷たい月明かりが雪原を照らし出した頃。
サクッ、サクッ……。
誰もいないはずの雪道に、静かな足音が響いた。
足音の主は、純白の外套を纏った一人の男。
今日、この村を訪れた伝説の勇者——ラングルド・ハーヴェストであった。
「……おや?」
ラングルドは、倒れているエミールの前で立ち止まり、不思議そうに首を傾げた。
その黄金の瞳が、エミールの身体と、周囲の雪原を覆う異様な魔力の残滓を冷徹に分析する。
「ここは……。なるほど、信じられないほどの濃密な『魔』の気配。そして、それを圧倒するほどに神聖な『光』の残滓……」
ラングルドは、面白そうに口角を吊り上げた。
「こんな辺境の村に、魔王の幻影……いや、下手すれば本体が来ていたのか? そして、それを退けたのが、このただの子供だとでも言うのかい?」
ラングルドはしゃがみ込み、エミールの顔を覗き込む。
「エミール・ハーヴェスト……だったかな。村の歓迎の輪に入らず、僕を冷めた目で見ていた、少し変わった少年」
彼はエミールの寝顔を見つめながら、どこか狂気を孕んだ笑みを浮かべた。
「面白い。本当に面白いよ、君は。もしかしたら君は……僕の『新しい世界』の計画において、最高のイレギュラー(駒)になるかもしれないね」
ラングルドは、エミールを軽々と抱き上げると、村の方へと歩き出した。
その背中は、世界を救う勇者のものではなく、チェス盤の上で踊る駒を品定めする、冷酷な盤上支配者のそれであった。
(…………………)
「——起きたかい? 少年」
優しい声がした。
まるで春の陽だまりのように、全てを包み込むような、温かい大人の男の声。
その声に導かれるように、僕はゆっくりと重い目蓋を開けた。
白い天井が見えた。ふかふかのベッドに寝かされているらしい。
ここは……?
全身の感覚を確かめる。痛みはない。四肢も揃っている。
僕は、助かったのか? あの絶望的な状況から?
いや、そんなことはどうでも良い。
あの後、魔王はどうなった? マーシャは無事なのか?
そして、何より……僕の心の中で語りかけてきた、あの『ラングルドに似た男』は、一体誰だったんだ?
思考が追いつかず、混乱する僕の視界に、一人の男の姿が映った。
「貴方は……?」
僕は掠れた声で尋ねた。
その金糸の髪と、聖なるオーラ……。
心の中で見たあの男と全く同じ姿。だが、纏っている空気が決定的に違う。
男は立ち上がり、胸に手を当てて優雅に一礼した。
「僕の名前は、ラングルド・ハーヴェスト。この世界では『勇者』と呼ばれている者だよ」
今日、村を熱狂の渦に巻き込んだ張本人。伝説の勇者が、何故ここに。
「勇者様……! あの、魔王から助けていただき、本当にありがとうございます。僕が気を失っている間に、貴方が魔王を退けてくれたのですね」
僕はベッドの上で慌てて頭を下げようとした。
あの絶望的な状況を打破できたのは、この勇者様が駆けつけてくれたからに違いない、とそう思い込んだのだ。
しかし、勇者ラングルドは不思議そうに首を傾げた。
「魔王……?」
彼は、ぽつりと呟き、そして信じられないことを口にした。
「魔王なんて、どこにもいないだろ。君が見たのは、ただの幻影か悪い夢だよ。だって、本物の魔王は数年前に僕が殺したよ。あの魔王は、もうこの世には存在しないんだから」
「……え?」
窓の外では、夜が明けようとしていた。
僕の平穏な日常は、とっくに音を立てて崩れ去っていた。
そして、僕の中に眠る『正体不明の力』と、目の前で微笑む『狂った勇者』との、過酷で長すぎる因果の螺旋が、ここから幕を開けたのだ。
これから色々盛り上がっていくので、面白かったら、ぜひブクマと評価してみてね。




