過去の話
庭園のベンチに腰を下ろしたまま、俺は小さく息を吐いた。
柔らかな朝の陽光が木々の葉を透かし、地面に淡い光と影の模様を描いている。
風が優しく吹くたび、色とりどりの花びらがゆっくりと舞い上がり、ラルフ様の青い髪をそっと揺らした。
彼女は膝の上に小さな青い花を置いたまま、静かに俺を見つめていた。
打ち明ける…か。
「ラルフ様……少し長い話になります。僕の過去……この世界に来る前の話です。全部、最初から話します」
そう言った瞬間、俺の頭の中に、あの頃の記憶が一気に蘇ってきた。
温かく、しかし少し懐かしい痛みを伴って。
「……俺は日本という国で生まれました」
◇
家はごく普通の家に生まれた。
小さなアパートの二階、狭いけれどいつも掃除の行き届いたリビング。
父親は市役所に勤める公務員で、毎朝同じ時間に起き、ネクタイを締めて、夕方6時には必ず帰ってきた。
「ただいま」と言いながら、僕の頭を大きな手でくしゃくしゃと撫でるのが日課だった。
母親は専業主婦で、何かあればいつも飛んでやってきてくれた。
料理上手で、台所からいつもいい匂いが漂っていた。
少し風邪を引くだけでめちゃくちゃ心配してくれて、熱が下がると「よかったね」と俺の好物を作ってくれたのを今でも覚えていた。
特別裕福でもなく、特別貧しくもなく、ただ平凡で、温かい家庭だった。
兄弟はいなくて、一人っ子だったから、両親の期待と愛情は全部僕に向けられていた。
父親はよく言った。
「何をしてもいいが、勉強だけはしっかりしろ。勉強だけはお前を裏切らないからな」
そう言われて、勉強だけは頑張った。
そのおかげもあり、基本的に学校の中では常に一番で、どこにでもいる真面目でつまらない優等生だった。
小学生の頃は委員会の会長を務め、中学では生徒会長を務め、高校は県内でも有名な進学校に入ることができた。
部活はやらなかったが、その代わりに塾に通い、家に帰っても勉強をしまくっていた。
そんな性格ゆえに正直、友達は少なかった。
「頭いいよね」と一目置かれることはあっても、人との距離感がよく分からず、いつも微妙な距離感のまま終わった。
もちろん、異性の友達なんていなかった。
それでも、勉強を頑張っている姿を見るたびに褒めてくれた。
父親は夕食の席で新聞を広げながら「お前はすごい」と言ってくれて、母親はいつまで経っても俺を子供扱いするように頭を撫でてくれた。
…あの頃の僕は、まだ「頑張れば報われる」と信じていた。
何事でも…努力は報われるなんて。
それから大学は法学部に進学し、1発で司法試験に合格して、弁護士事務所で数年務めてから、20代後半には自分の事務所を持つことができた。
立ち上げた当初は知名度を広めるのが難しく、転がり込んでくるのはいつも小さな民事事件ばかりだった。
それでも数名のアシスタントと共に、どんな小さな事件でも真剣に取り組んでいた。
しかし、真剣に取り組んでもなかなか勝訴することができず、1勝目を飾るのには少しの時間がかかった。
だからこそ最初に勝訴した時はそれはもう嬉しかった。
あの瞬間がめちゃくちゃ心地よくて、弁護士は自分の天職とさえ思っていた。
それからは評判が広まり、費用を格安で請け負っていたこともあり、次第に大きな事件を手がけるようになった。
製薬会社の薬害、工場の労災、環境破壊などなど…そんな裁判も担当することになった。
更に勝てば勝つほど依頼が殺到し、報酬は雪だるま式に増えていった。
三十歳になる頃には、都心の高層マンションに住み、車を何台も持ち、名前は新聞やテレビに載るようになった。
「無敗の若手弁護士」と呼ばれるたびに誇らしい気持ちになった。
でも……勝ち続けることは決していいことばかりじゃなかった。
敗訴した側からは「悪魔」と呼ばれたり、週刊誌にはあらぬことを書かれ、勝てなかったら罵られ。
そんなことで人間不信になり、友達は減り、恋人も長続きしなかった。
夜、マンションの広いリビングで一人でワインを飲むとき、ふと胸がざわついた。
「これでいいのか?」という小さな声が、いつも耳の奥で響いていた。
そして、最後の殺人事件。
今でも覚えている法廷はいつもより緊張に満ちていた。
傍聴席は今回の事件の被害者家族で埋まり、彼らの目には希望と怒りが混じっていた。
俺は証拠をすべて暴き、彼が犯人ではないことを証明した。
そして、無罪を勝ち取った。
刑事事件での無罪を勝ち取ることがどれだけ難しいか…俺は知っていた。
そして、判決の瞬間、傍聴席から大きな拍手が沸き起こった。
俺は満足だった。
これでまた一つ、正義を勝ち取った……と、心の底から思った。
でもその夜——
雨が降っていた。
帰宅途中の暗い路地は、街灯の光がぼんやりと濡れたアスファルトを照らしていた。
後ろから足音が近づいた瞬間、俺は振り向いた。
被害者の弟が、ナイフを握っていた。
「俺はみたんだ…犯人はあいつだ!」と叫びながら、何度も刺された。
胸、腹、首……熱い血が噴き出し、冷たい地面に倒れた。
痛みと寒さが体を包み、息がどんどん浅くなっていく。
最後に思ったのは、ただ一つ——
『最後の最後に俺は報われなかった。因果応報はこの世界になかったんだ』
それだけだった。
◇
庭園の風が、再び花びらを優しく舞わせる。
ラルフ様は驚いた顔でこちらをみていた。
そりゃ、転生の話なんてそんな簡単に受け入れられるわけもないよな。
それから、静かに口を開いた。
「……リグゼ様……ありがとうございます。全部、聞かせてくれて。確かに…努力は必ず報われる…とは私も思っていません。努力も正義も大義も時には簡単に裏切ります。けど、だからこそ私は信じるべきだと思います。裏切られても…信じぬくことが本当の正義だと信じています」
彼女の青い瞳には、優しい光が宿っていた。




