ミリアの思惑
ミリア様の言葉が、私室の重い空気に溶け込んだ瞬間、部屋の温度が一気に下がったように感じた。
赤いシャンデリアの影が彼女の顔を妖しく照らし、扇子を優雅に開いたまま、彼女はゆっくりと俺とヴァルドを見つめていた。
その瞳は、常時発動している魔眼の赤い光を宿したまま、一切の動揺を見せない。
「さて、このまま私を殺す?殺すなら殺しなさい。でも、そうすればベルドの魔術師ザルガスが即座に動くわ。私をここで殺せば、彼は……ヴァルド団長の妹さんに手を出すでしょうね」
ヴァルドの体が、わずかに硬直した。
俺は内心で息を飲んだ。
ザルガス——ベルド王国の宮廷魔術師。
「…ザルガス…」
ヴァルドの声が、低く押し殺したように響いた。
「…どういう関係なんですか?」
「妹の…旦那だ」
ミリアはくすりと笑い、扇子で口元を隠したまま、ゆっくりと首を傾げた。
「十年前の魔力実験の頃から、ザルガスはヴァルド団長の妹さんに目をつけていたの。そして表向きは『ベルドとの友好の証』として…関係を深めた。本当の目的は、もちろんこの王国を内側から蝕むため。それに手を貸したのが私。あなたが私に手を出せば、妹さんは……今夜中にザルガスの手で魔力を根こそぎ抜き取られることになるでしょう。あのルビルの妹と同じように…ね」
ヴァルドの拳が、剣の柄を強く握りしめた。
指の関節が白くなり、英雄と呼ばれる男の顔に、初めて本物の怒りと動揺が浮かんだ。
ミリアはそれを楽しむように、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「さて、どうしましょうか?私を殺す? それとも……取引をしましょう?」
彼女は机の上に、先ほど俺たちが発見した実験記録の束を軽く置いた。
「私がザルガスに一言助言すれば、王国は少なくとも当面、安泰になるわ。でも、その代わり……」
ミリアの赤い瞳が、俺ではなく、ヴァルドの背後にいるはずのラルフ様の存在を意識するように細められた。
「ラルフを、王位継承の候補から完全に外すこと。まぁ、所詮は三女ですし、私も魔眼であることを明かせば、あなたはただの『飾り』になる。長女のエルザか、次女の私か……どちらかが王位を継ぐ。そうなればもうエルザに負ける要素もない。それが条件よ。ザルガスも、ヴァルドの妹さんに指一本触れさせない。約束するわ」
部屋に重い沈黙が落ちた。
ヴァルドの息が荒くなった。
「そんな条件……飲めるわけがない。あなたがこの王国を売るつもりなら、私は騎士団長として……」
ミリアは扇子をパチンと閉じ、冷たい笑みを浮かべた。
「そう…残念ね。じゃあ、妹さんを見捨てる?」
ヴァルドの顔が、苦渋に歪んだ。
「…ヴァルドさん…今は妹さんのことを」
彼女はベルド側と対等に交渉できる立場にいる。
ザルガスという切り札を握り、ヴァルドの家族まで絡めてきた。
これはもう、国内の権力争いなどという次元を超えている。
ミリアはゆっくりと後ろを向き、窓辺に寄った。
「時間はたっぷりあるわ。明日までに返事をちょうだい。ラルフを王位から遠ざける……それとも、ヴァルドの妹を犠牲にするか。選ぶのはあなたたちよ」
彼女は振り返り、最後に一言だけ残した。
「あと……リグゼ。あなたも、ラルフを守りたいのでしょう?なら、賢い選択をすることね」と、ミリアは優雅に部屋を出て行った。
扉が閉まった後、ヴァルドは壁に手をつき、初めて声を震わせた。
「……ザルガスまで……繋がっているとは…。すまない…妹の安全を確保するため、しばらくは動けないかもしれない」
「分かりました。ミリアの要求を飲むわけにはいかないですが、ザルガスを直接叩く準備も必要です。ラルフ様には……まだ何も言わない方がいい…ですよね」
ヴァルドはゆっくりと頷いたが、その目は遠くを見ていた。
王宮の夜は、さらに深く、冷たく、そして複雑に変わり始めていた。
ミリアの取引は、ただの脅しではなかった。
ベルド王国という巨大な影が、すでにこの城の心臓部まで食い込んでいることを、俺たちは痛いほど実感した。
◇
ミリアは廊下に出た瞬間、扇子を優雅に閉じた。
背後で扉が静かに閉まる音を聞きながら、彼女はゆっくりと息を吐いた。
ふふ……ヴァルドの弱点はやはり妹だったわね。
赤い瞳が、暗い廊下の先を見つめる。
彼女は胸元から小さな通信結晶を取り出し、魔力を流し込んだ。
結晶が淡く光り、遠くベルド王国の宮廷に繋がる。
低く、甘い声で囁く。
「ザルガス……聞こえる?ヴァルドが動き出したわ。妹さんのことはあなたに任せる。もし彼が邪魔をするなら……遠慮なく手を下して。 私はここで、ラルフを王位から遠ざける準備を進めるわ」
結晶の向こうから、男の低い笑い声が返ってきた。
『了解した、ミリア。妹は今夜も私の傍にいる。 王国はもう……私たちの掌の上だ』
ミリアは結晶を胸に戻し、静かに微笑んだ。
これで……すべては計画通り。
彼女の足音は、夜の王宮に冷たく響きながら、ゆっくりと遠ざかっていった。




