15 誰かの声
とおい。
なにがそんなにとおいのかと、どこかで問いかける声がする。
答えられないまま、考えることをやめた。
いまはそんなことを考えている場合ではない。
その焦りが思考を停止させた。
アニーの息は荒かった。
もう何度めか斬り付けられて、アニーの血が、幾度か白い壁を汚している。
熱い息と血とともに、意識も遠のいていく気がした。
「ちっ! 埒があかねぇ! おい、何人かはガキを捜しにいけ!」
腕にはもはや力が入らなかった。
くらくらしていた頭の中で、やけにはっきりとした男の声だけが聞こえる。
もうどれくらい肺に息を取り込めていないのだろう。
息も絶え絶えとは、こういったことだろう。
自嘲めいた事を考えながらアニーは落ちかけた剣を持ち直す。
(だからなんだ?)
そう、だからなんだ。
血が巡らない頭の中でそう呟く。
あの男がいま言った言葉を聞き逃したわけではあるまいに。
アニーのもつれていた足が、一直線に、指示を飛ばす男へと向かう。
腹に、顔に、首に、剣がすり抜けていく。
薄皮が切れて新しい血がにじみだすが、きちんと避けれてはいた。
確かに傷をつくるのに、痛みに身体が悲鳴をあげるのに、汗が吹き出て止まらないのに。
止まったら、どうなるのかを、知っているからだろうか。
アニーの体はつたないながらも止まることなく動いていく。
「ひ!」
「なんなんだよ、てめぇはぁぁぁぁ!」
青ざめた顔が見える。
もう振り上げる力も残っていない腕で剣を、身体をひねって相手に叩き込む。
その瞬間に吹き上がった血飛沫に、少しだけ瞼を閉じた。
まるで雨に降られたかのように濡れた頬は生暖かい。
決して心地よくない温かさだ。
しっかりと息を、しなくては。
こんな浅すぎる呼吸では、そろそろ本当に身体が止まってしまう。
ああ、でも本当は、もう動きたくないのかもしれない。
腕がじんじんと痺れていた。
アニーの体を鈍らせるのは、けれどきっと体の痛みだけではなかった。
弱い、弱い私が、なんとか渡り合えている。
なぜ渡り合えているのだろう。
浅い疑問が浮かんでは消えて。
必死に身の内に沸き上がる何かを誤摩化すようにした。
せめてこの闘いが終わるまでは、気付きたくない。
あと何人だ。
ああ、そうだ。
ルーラ嬢を探しにいくとかいう人間を止めなくてはならない。
体中が汗で濡れて、布が身体に張り付く。
重くて動きづらくて、気持ち悪い。
なにか、考えなくてはならないことがあったのに、忘れてしまった。
考えたくなかったことだったからだろうか。
頭に霞がかかって、次第にわからなくなってしまった。
(……痛い)
思考が巡り巡って、何もかもを有耶無耶にしていく。
わたしは一体、なにをしたいのだろう。
なにをしているのだろう。
硬い何かに打ち付けられたように頭が痛い、重い。
一人が走っていくのを皮切りに、二人、三人、とこの場の数が減っていく。
ぼんやりと眺めながら、足を引きずるように、前へと進む。
視界がかすむ。
力が抜けていく。
ガクガクと体が震えるのを必死に堪えた。
いやだ、いやだ嫌だ、いまここで、止まるのだけは嫌だ。
まだ動ける筈だ。
頼むから止まるな、わたしの身体。
脳裏に点滅するルーラの顔が、アニーの胸を急速に締め付けていく。
止まりたくない。
ここで、止まりたくなんてないはずだ。
動きたくないなんて、嘘だろう、頼むから。
「ぅ、ご、けぇぇぇぇぇぇぇぇ」
ずぷりとやけにぬめった音がはっきりと聞こえた。
自分の呼吸が、やけに大きく耳元で騒いだ。
胸が打ち震えるのは、失望感からだろうか。
もう体の感覚はなかった。
ゆっくりと、音のしたほうへと視線をたどって、自分の胸を見る。
鈍い銀色の剣が、赤い液体を滴らせて、その刃を光らせていた。
ああ、同じだな。
点滅した脳裏で、大声を上げて仲間を呼んでいた男の姿を、おぼろげに思い出す。
かすり傷ではなく、擦り傷ではなく、確かにいま自分は斬られたのだと。
どこか他人事のように悟った。
……やけに、大きな声が聞こえた。
止まるな、と。
それでも動く事を止めるなと。
それは自分の声ではなかった気がした。
とおい、なにがとおいのか。
ああ、自分が遠いのだ。
思い至ったときには、もうぼんやりとした意識のなかだった。
アニーが何かに突き飛ばされたように、意識を失ったのはそのときだった。
しゅんしゅんと湯が沸いている音がする。
体中が重かった。
ぼやけた頭に視界も霞んで、何も考えられない。
体が痺れている。
小さな咳が漏れた。
喉はいがいがしく、乾いた咳がしばらく止まらない。
「……、さま、…………」
ルーラ様、と掠れた声は言葉にならず、天井へと浮かんで消える。
長い緩やかなウェーブの髪の少女を思い描いて目を見開く。
嘘だろう。
なんでベッドに横たわっているのだと、アニーはふつふつと沸き上がる絶望に顔を歪めた。
白い清潔そうなシーツの上で、もがくように腕を伸ばして起き上がろうとする。
確かに頭では動かしている筈なのに体の感覚がない。
「……っう」
どころか意識が掠れるような目眩を起こして、小さく唸った。
起き上がれない、どうして。
「起きたか?」
「っっ、ぅ、あ、つ」
聞こえてきた伺うような声に、咄嗟に体を起こそうとして激痛が走った。
どっと体中の毛穴から冷や汗が溢れ出す心地に、目を見開いて慌ててベッドへと体を預ける。
ぐるぐるぐる、目眩が止まらない。
目の奥がちかちかと光を点滅させる。
指先や頭の芯はじんじんと痺れて、震えている。
気持ち悪い、痛い、痛い、いたい。
まるで体中が悲鳴を上げているようだ。
「……なんで動けるかねぇ」
どこか呆れたような声音を滲ませながら、横たわっているベッドへと人が近づいてくる。
なにか布をずっているかのような音が聞こえた。
「まあでも、目が覚めたんなら何よりだ。一応自己紹介でもしとこうか、オレは、レオ・ダルダ」
眉間に皺を寄せて耐えるアニーの顔に影が差す。
名乗りを上げたのは、白い白衣に身を包んだ無精髭の男だった。
「しがない裏町で医者をしてる者だ。お早いお目覚めで何よりだよ、患者さん」
緑の双眸がゆらりと煌めく。
少し垂れ目でアニーよりも一回り年嵩のような男だった。
当然のようにアニーはその顔に覚えはなかった。本当に誰なのだろう。
「うん、脈は落ち着いてきたか……体温もまあ、戻ってきてるな。とりあえず容態は落ち着いたみたいだ」
手首を人に触れられている。
独り言のように、おそらくは自分の容態を口ずさむ男に、アニーは歯をかみしめた。
そんなことはいい。
声に出す事は叶わず、あえなく脈を計っていた手を、今出せる精一杯の力で掴む。
「なんだなんだ。オレは脈を計ってただけであって、あんたの寝首を掻こうなんて考えちゃいねぇぞ」
「っちが、う、伺いたい、少女は、見なかったか……!」
「ああ、握力はまだ戻らねえな。まあ、出血多かったからなぁ」
「そんな話はっ……」
「まあいい、もっかい寝てろ。もうちょい休んだほうがいいな」
やんわりと手が解かれて男の手が頭にかかる。
視界が暗くなったかと思ったら、そのまま何かに引きずり込まれるように、眠りに落ちた。
体がやけに温かい。
まるでヤギやニワトリの体がぎゅうぎゅうに押し固まって、体を包み込んでいるようだ。
じんわりと物を考える力を失わせるような心地よさがある。
反して抗うように意識を保とうとする力も働いた。
理性らしきものが闇雲にその流れに逆らおうとしている。
ばちばちと葛藤のような光が少女、ルーラの笑顔とともに脳裏をよぎる。
重い瞼を開けると、視界一杯に白い光が舞い込んでいた。
天井だ。先ほどの場所からどうやらひとつも離れていないらしい。
「アニー」
落胆に顔を暗くしたアニーのもとに、少女の声が届いたのはそのときだった。
目を見開いたアニーの視界には、扉に立ち尽くす少女の姿が見えた。
驚きに息が詰まるのを感じながら、アニーは呆然とした。
「ル、ラさま」
「アニー」
涙をぼろぼろと流しながら、ルーラはアニーを見つめていた。
ああ、泣いている。
痛い思いをしなかっただろうか。
怖い思いはもう過ぎるほどに感じただろう。
目にうつるルーラの姿に、傷は見当たらなかった。
安堵からだろうか、アニーは少しだけ笑った。
一番の気がかりだったのだ。
ルーラの安否がわからないことが、余計にアニーの心を揺さぶった。
良かった。本当に良かった。
体の芯が震え上がるほどの、安堵だった。
「ご無事で、よかった。なにより、です。怖かったでしょう」
「そ、そん、な! 私よりも、あなたのほうがずっと、こんな大けがまでっ」
「どうかお気になさらないでください」
ベッドのふちに手をかけながら、上体を起こす。
体の節々に鋭い痛みは走るが、前よりはずっと良くなっている。
一眠りして少し回復したのだろうか。
なんとか体を起こして一息をつく。
まだまだ自由には動かすことはできないだろう。
窓から差し込む光はもう淡いオレンジに変わっていた。
もうじき日も暮れる。
領主宅は騒ぎになっていないだろうか。
この状況に陥った自体を顧みて、アニーは自嘲の息を漏らした。
なんて情けないことだろう。
情けなさ過ぎていっそう怒りが沸いてくる。
白いシーツを皺になるほど握りしめて、なんとかルーラに笑顔を見せる。
ルーラの顔はもう涙に塗れてくしゃくしゃだった。
「わたしは自業自得です、ルーラ様。ルーラ様にはご迷惑をおかけいたしました」
落ちてくる涙を拭けば、しゃくりあげながら、ルーラはアニーにしがみついた。
まだ小さな子どもといえど、それなりの勢いがあったルーラの体は、アニーの傷に響いた。
体の中心を走る鋭い痛みに息を呑みながら、アニーはそっとルーラの背中をさすった。
ルーラの背中は小刻みに震えている。
どれほど、怖かっただろうか、心細かっただろうか。
置き去りにしてしまったアニーに、ルーラは一体どんな思いを抱いただろう。
なだめるように背をなでる。
震えを止めることを知らないような背中を、アニーは自分の手でしばらく慰めた。
「……ルーラ様は、なぜこちらに?」
ルーラの様子が落ち着いた頃を見計らって、アニーが声をかけた。
もう日が沈んでいる。
泣きはらしたルーラの顔がアニーを見上げた。
あの白衣の男はルーラの姿を見つけてからは、一度も現れていない。
たまたま出かけているのか、それとも別の何かがあるのか。
ちり、と剣が刺さった腹に焼け付くような痛みを覚えながら、アニーは、ルーラに問いかけた。




