第七話
窓もドアも閉まっていた部屋の奥、男性が深く腰かける立派な椅子の背もたれの後ろから、白い腕が忍び寄る蛇のようにぬうと伸びた。
「こんばんはボス」
「……」
その手には小ぶりで古びた、その割にやたらと鋭く研がれたナイフが握られていた。鋒は、太い動脈をひたりと捉えている。
「ああ安心して、枷は解けてないから」
「……だったらそれを向けられるはずはない」
「無理してるに決まってるでしょ。普通にもうすぐ死ぬよ」
「……」
「あなたを葬ってからだけど」
ギ、背もたれが微かに振動する。確信を持つ男の口角は上がっていた。「それは叶わない」とこぼして手にした葉巻の灰に視線をやる。
「あなたが憎いよ、でも感謝もしてるんだ。この気持ちが痛みにも恐怖にも勝るって、あの人に会わなきゃ知らずに死ぬはずだった」
「どうした?ひどく陳腐だな」
「ほんとに。こんな陳腐なことすら理解できないあなたたちの人生って、ちょっと長いだけで薄っぺらくてみーんな無駄だね?かわいそうに」
「珍しく達者な口だ」
「まあ聞いていきなよ。最期なんだ」
自分の声も満足にきこえない程の耳鳴りの中、気を抜けば内臓が全て出ていきそうな吐き気をこらえ、少女は浅く息をしている。
「……」
「もうわかってるくせに。こんなに時間稼ぎしてまだ誰も来ないんだよ」
──静まり返る。組織は常に静寂だが、だとしても異様だった。男の中には自らの呼吸音だけが反響する。気配が、ない。なかった。なぜ。
「じゃあねボス。世話になりました。あんたと心中なんて最悪」
真っ青な顔でだらだらと汗を流す少女は細く息を吐いた。蛇が口を開き、喉元へと──。
ガチャ。
「あ、ももちゃん」
ドアノブを回し、堂々と扉を開けて、その男はひょこ、と顔を出した。
「………………へ?」
少女の口から音がこぼれる。皮膚一枚を浅く切りつけて止まった刃に目もくれず、彼の視線は苔桃の顔をまっすぐ捉えた。「ここにいたんだ」と、日常の挨拶でもするような調子でこぼしながら、のこのこと部屋に入ってくる。
「え、……え?」
「それ、親玉?」
ゆったり歩きながら、いつものように黒い手袋を纏った指先で咲は男を指さした。一拍間をおいて、苔桃は不覚にもこくんと頷く。
「貴様、何故こ、」
何かが認識できない速さで視界を横切った。
「こ、……」
ごと、べちゃ。
重く、中身の詰まったものがぶつかる鈍い音がして、それをたどって下に目を向ける。
肉体が二つに分かれて、小さいほうが落ちていた。
人間の頭部が、転がっている。
「えっ」
足元に赤く、生暖かい絨毯がじわりと広がっていく。
「……は?」
苔桃は目の前の何もかもが信じられなかった。人体の中でも首はそう簡単に両断できる部位ではないことを、名前を手に入れるより前から知っていたのに。しかも傍にいた自分には傷一つない。完璧に間合いを把握している動きだったということだ。
「じゃあこれで最後か」
言いながら咲は今しがた振りぬいた武器をぽいと捨てた。苔桃が扱ったことのない刃渡りの刀が沈んでいく。
よく見てみると、黒のタートルネックとスキニーパンツはところどころ光を反射していた。
薄暗くて目立たないが、それが大量に浴びて固まりだした血液であると、すうと嘘のように不調が消えた苔桃にはわかった。
「最後、って」
「始末が」
「え?え、みんな?殺したの?」
「うん。寝てる人たち起こして、ももちゃんに会わせてって言ったら襲いかかってきたから」
平然と言い放ち、うすらと不満げに眉を寄せて見せた。
ぽかんと立ち尽くす少女の、くしゃくしゃに捲りあげた袖が重力に従って降りていく。
「なんであ、あたしに」
苔桃にそう聞かれ、あ、と漏らした咲が手袋を脱いでポケットを探る。「これ。落としてったよ」と開かれた手には間の抜けた顔のマスコット。塗装が剥げた舌がのぞいている。
「……そんなの、捨てていいのに」
主だったものから離れ、デスクを回って駆け寄る。
「はい」
「……ありがと、う」
渡されて手のひらにあるそいつをしばし眺めて、苔桃はあっと思った。思い出したのだ。初めて声をかけられた日、後ろを追いかけてきていたはずの咲に全く気づかなかったことを。
そのときは動転していたとして、以降も待ち合わせて会うときはいつも背後から呼ばれて驚いていた。よく考えればそんなこと普通の人間が自分相手にできるわけがないのに、どうしてなんとも思わなかったのか。どうしてただあっそと放置したのか。──君はももちゃんで、ももちゃんはかわいい女の子だよ。
あたしは苔桃だった。ずっとそうだったはず。嘘だ、そんなに前から。右手が古びたナイフを握りなおす。
「ねえ」
突然呼びかけられ、引き戻された苔桃が「わ」と顔を上げる。
「ももちゃんにかかってる洗脳ってどんなの?」
こて、と首をかしげて咲が訊いた。視線を彷徨わせて「ぃ、言えないよ」と返す。
「それは洗脳のせい?言いたくないだけ?」
「っ、」
まずそれをどこで知ったのか。なぜそんなことが聞きたいのか。あたしと違うはずの”穏やかでちょっと不思議な”彼がどうして簡単に人を殺してけろっとしているのか。
動揺が体の中を渦巻いて、もう苔桃はぐちゃぐちゃだった。聞かれているんだから答えてあげたいけど、何をどう答えたらいいかもわからない。
「……、え、と」
「わかんねぇんだよ」
掠れた声がドアのほうから響いた。
苔桃がそちらを見ると、そこには先ほど別れたはずの同胞がふてぶてしい表情で腕を組んで立っていた。
「……マヤ」
「いてえよバカ」
悪態をついてから、咲を見上げる。
「洗脳なあ、俺たちは枷って呼んでる。自分でわかってんのはボスに刃向かえない、指示されてない同士討ちはできない、ぐらい……まあ苔桃とかいうのは自力で逆らってたけどな」
代わりに説明する少女と反対に、ぽかんと口をあけて苔桃が立ち尽くす。頬から首の返り血を拭ったのか広げてしまっている咲と、鼻血を乱雑に拭いた跡のあるまやかしは「解除キーとかないのかな」「俺たちはしくじったら消すコマ。再利用しねえの」「そっか」と会話している。
「さっき教えてくれてもよかったのに」
「……解除キーはねえけど条件が減ったんだよ。あんたがボスを殺したの見て、守れって直接聞こえる命令と、頭痛と耳鳴り……がピッタリ止んだ。この話はその礼だ」
「……どうも?」
まっすぐ届く視線を受けた咲は、少し遅れて自分が感謝されていることに気づきそう返した。
「モモ。地獄には行けなかったみてえだな」
「……これから一緒に行く?」
眉を寄せて、ばつが悪そうに下手くそな笑顔で苔桃が言う。痩せた手を持ち上げて払うように振り、「嫌だね」とまやかしは返した。長さの不揃いな痛んだ金髪もつられて微かに揺れる。
「俺はお前のイカれた王子様のおかげで自由の身なんだ」
「王子……はあ!?」
苔桃は目を見開いたが、咲は聞いているのかいないのかなんともない様子である。けひ、と笑ったまやかしはすぐに顔をしかめて腹をおさえた。
「俺は海に行ってみたいからそうする。じゃあな」
生き残った捨て駒の少女は、最後に同胞を一瞥すると背を向けた。苔桃は彼女の口からそんなことを聞いた記憶はなかったが、妙に納得できる気もした。
あたしたちは多分、広いところと、遠いところに憧れるんだろう。こんな場所にずっといたから。吸い込んだ空気は血と煙のにおいで澱んでいる。
「マヤ」
苔桃は考えるより先に名前を呼んでいた。それから、迷って数歩だけ追いかけて、最近覚えた挨拶を口にした。
「……ねえ、またね、まや」
「……。またな、もも」
頬のあたりをひきつらせてから一度飲み込むように頷いて、まやかしは生まれて初めて再会を約束した。踏み出し、一度も振り返らなかった。




