第五話
「咲くん、触ってもいい?」
ソファーに横になる俺の前にももちゃんがしゃがんでいる。首を傾げた彼女の、下に二つあるお団子から逃げ出すように跳ねた髪が揺れてかわいい。
今日はももちゃんが泊まりにきた。ほとんどしたことがないという料理を一緒にして、おやつを食べて、ゲームをした。おやつにケーキを用意したのは正解だった。大きく一口頬張ってからあまりに美味しくて気に入ったのか、二口目からあとは慎重に食べていてかなりかわいかった。
「……いいよ」
ベッドを使うように言ったはずが動く気配があって、初めてのことに緊張して眠れないのかと思っていたけど、そういうことじゃなかったらしい。
許可が出て彼女はすぐ頬に手を伸ばしてきた。
冷たい。爬虫類みたいでかわいい。無言でぺたぺたと、頬や鼻、唇を覚えようとでもするみたいに何度も往復して触れる。
「ももちゃん、楽しい?」
薄暗い部屋に差し込む星と街の僅かな明かりが彼女の白い首を照らしている。表情はよく分からない。少し体温が移ってぬるくなったちいさな両手が頬を包んで、そのままたぶん見つめ合う。
しばらくそうしていたら、息をしていないくらいに彼女の形の影がぴたりと静止した。ああ、そうだった。気づかないふりをしてあげていたんだった。
彼女がなんなのか、俺をどうすべきなのか思い出す。
――俺はさぁ、いいかなって思うんだ。ももちゃんになら。君が決めたことなら。こんなこと今の君は知る必要ないけれど。
そう思って頬のそれに自らの右手を重ねる。ほら、この数センチ下。ゆっくり瞬きをして、彼女の手が頸動脈を捉えるのを待った。
「咲くん」
すると、予想外にも彼女の顔が近づいた。
ぼんやり見ていたら唇になにかが触れる。
ちゅ。
可愛らしい音を立て、それは離れていく。
「……」
「あたし今、生きてきて一番、幸せ」
それは多分、楽しいかという質問の、そして全部の答えだった。
「……そう」
自分の一度丸くした目を細めて返す。
ももちゃんは今が一番幸せ。それなら俺にとっても、この感覚が”幸せ”なのかも。自分に備わっていたものじゃない気がするくらい、ぼやけて掴みかねているけど。きっとそうだと思う。
「ふ、……じゃあね」
あんなにこわばった表情をしていたのに、彼女は最近こうして笑うようになった。まだ少しぎこちないけど、前より確実に。
「もう帰るの?」
「うん。今までありがとう」
なんだか全部終わりみたいな言い方だ。ちょっと鼻をすすってる。かわいい。
「……」
「ばいばい!」
そう言ってぱっと立ち上がると、暗がりの中で手を振り、彼女は廊下をぱたぱたと歩いていった。玄関のドアの音がする。どんなに頑張って静かに開け閉めしても大きくガチャンと鳴る、ももちゃんが最初少しびっくりしていたドア。
そっか。
またねじゃ、ないんだ。今日は。
体を起こしてソファーを降りる。つま先にコツ、と何かが当たる。数度の長い瞬きで輪郭を持った視界にあったのはいつぞやのキーホルダーだった。
つまんで拾い上げる。とぼけた顔のリスだ。ボールチェーンはあらぬところでちぎれて、随分禿げている。
「あー、お嬢さん、落としたよ……」
彼女が決めたなら、その通りにするつもりだった。
握ったリスをポケットにしまって支度をする。たしか、目的地はここから東のほう。




