第四話
「泊まりにおいでよ」
さらりと言われて、正直、かなり冗談じゃないと思った。
「な、なんで」
「林間学校とか修学旅行とか、行ったことないって。この前言ってたでしょ」
食器でも片付けているのか、通話の向こうでカチャカチャと音がする。耳をすませると水音も聞こえた。あたしも目の前の薄いプラスチックのコップと汚れた紙皿をゴミ袋に押し込む。片づけ終わり。
「うん。ないけど」
「お泊り会しよう」
「……おとまり」
聞けば、あたしが外泊したことがないと漏らしたのを覚えていて、だったらうちでやればいいという話だった。いつもみたいに未知のものに触れさせようと思ったらしい。
いつだったか旅行の話になって、そういう経験がないと言ったのが迂闊だった。普通に生きていたら何度か発生するみたいだ。
あたしは学校というものに行ったことがないから、子どもが団体で山や海に体験学習しに行ったり修学旅行とかいって観光地に行ったりするものだということも当然知らなかった。説明をした咲くんが俺も全部行ったわけじゃないけどね、と付け加えたのはフォローだったんだろうか。
「お泊り会って、何するの?」
「なんでも。ももちゃんがしたいこと」
聞いたあたしはがくんと項垂れてしまった。
だから冗談じゃないと思ったんだ。咲くんとずっと一緒にいるなんて。
彼は最初から継続してこの調子で、こういう人なんだとわかってからもなかなか慣れるものでもなく、あたしは毎回どう受け止めるべきか判然としない。今だってどんな表情をしようとしているのか、顔の下半分がむずむずする。だぼつく袖と指先で口元を覆った。
「……わかった。土曜日行っていい?」
なんとか口の端を押さえつけて、いつも通りに返す。視界の端に、処遇に困って小さいプレートに乗せたぬいぐるみが映って、なんとなく見つめあう。イルカだとして、こんなの嘘の色だ。嘘だけど、かわいい色。……ああもう。首を振って立ち上がる。
「いいよ。開けておくから、来たら入って」
「ううん」
なんて無防備なんだろう、狙われてるんだぞ。彼が知る由もないことを一人で考える。
歯磨きをするために移動した先、鏡に映った端末は赤いランプが点灯している。
「あたしピンポンするから閉めてていいよ」
「……」
一応咲くんの住むマンションはしっかりしていて、並みのやつらが証拠なしに入れる感じではない。部屋のドアも重いし開閉のたびに大きな音がする。だからこんなのあまり意味はないんだけど、ちょっとだけ、抵抗。聞いてんだろ、勝手に行くなよって。
ぐわっと頭に痛みが走って、少しよろける。洗面台のふちに手を置いて体重をかける。
「わかった」
ももちゃんが言うならそうしよう。軽く言って、「じゃあ風呂に入るから、またね」と通話は切れた。ほっと、息を吐く。
ーーー
「はい。苔桃」
「おいモモ、今回の件ろくに報告上がってねえって聞いたぞ」
「……なんだマヤか。難しいんだよ、マヤがやる?」
「バカ、俺がどうやってカノジョになんだよ」
「なんなくてもできんの調査なんだから」
「俺は向いてない」
「あたしが向いてると思うわけ?」
「なぁモモ」
「何」
「なに企んでる?」
「……マヤには関係ないよ」
「……だといいけどな」
「はいはい、じゃあね」
まだ何か言いたげな彼女の声に知らないフリしてさっさと通話を切る。どうせ把握されてるんだから、これ以上はマヤにとっても良くないだろう。
目の前の着替えくらいしかない荷物を眺める。本来交際相手の家に泊まりにいくときはどんな準備が必要なのか、あたしには知識がなかった。
切ったはずの画面がチカ、と光る。支給されている端末には、実行の命令が届いていた。あーあ、耳の早いこって。
頭が痛い。ひどく痛い。
当日の装備を考えなければ。画面を伏せ、華奢でぐらつく机に、捨てるように置いた。




