第三話
ありえない話だが、あたしは今招かれてターゲットの家にいる。
関係に名前がついてからしばしば会っているものの、咲くんについて上に報告できたことは多くなかった。
苔桃は実行班で、いつもコトが終わったら回収に引き継ぐだけ。ターゲットと会話なんかしないし、情報を引き出す任務もやったことがないわけで。
上げる必要がない話なら、基本的に黒い服を着ていてよく手袋をしているとか、背が高くて腕と脚が長くて綺麗な顔なのに街を歩いていても誰も彼を気にしないとか、他にもいろいろあるけれど。今のところ穏やかでちょっと不思議な人ですとしか言いようがない。
「いちごとメロンどっちがいい?」
「へ、え?」
考えているところに声をかけられ、素っ頓狂な声を上げてしまって悔しい。振り返ったら彼がキッチンからこちらを覗いていた。
困って見つめているとにこりとしたので、こちらが妙な顔になってしまう。
「いちごは前食べておいしかった、と思う。……メロンは……食べたことない」
「そっか。今度食べよう」
まただ。
あたしにとっての未知のものを聞くと、咲くんは触れさせようとする。彼女というポジションになってからもどういう意図があるのか未だにつかみかねている。そもそもなれるかと聞いたらなっただけの立場だ。普通、知らないことは教えてあげたいんだろうか。あたしに普通はわからない。
教えてくれるなら、また誘ってくれるんだろうって、ちょっと浮つきそうになる自分の心にもほとほと呆れてしまう。
「……今度っていつ」
「いつでもおいで」
機嫌よさそうな返答が聞こえて、う、と喉に何か詰まる。迷って、腰に仕込んであるナイフにそっと指を添えた。
──忘れるな苔桃。あたしはこの人を調べて、指示があったら殺すんだぞ。
ややあってソファーに戻ってきた咲くんの片手には、いつぞやのイルカより白っぽいピンク色の液体が入ったガラスのコップがあった。はい、と渡されたそれはひやりと冷たい。
彼の顔を見ると、俺のは麦茶だよと微笑まれる。違うってば。
「これ、なに」
「いちごミルク。甘いよ」
視線を手元に落とす。確かに甘い香りがしてくる気がする。
おそるおそる鼻を近づけてすんと嗅いだら、見ていたらしい咲くんが「ふ、」と笑っていた。何か言い返す気にもならなくてそのまま口をつける。
「ぉ、おいしい」
「よかった」
「こんな味なんだ」
よく見たら赤い果肉が入っている。これがいちごミルク。
まじまじ底のほうを眺めてからまた二度三度と口にしていると横から「気に入った?」と問われ、ぷちぷちとする食感のものを噛みながら「うん」と返した。
「まだあるからね」
空になりそうなあたしのコップを見て、咲くんは白い頬を緩ませながら言った。見ればテーブルに置かれた彼の麦茶はさほど減っていない。
「いちごミルク?」
「も、ある。他にもあまいやつ色々」
飲料って一人暮らしの家に取り揃えるもんなのか。何のために?
しくじった時点で死ぬ人生で、あまり嗜好品にふれてこなかったあたしの感覚も信用できない。
「……甘いもの好きなの、咲くん」
考えるそぶりで少しそらした視線がすぐ戻ってくる。やっぱり目を見てしゃべる人だ。
「まあ……人並みかな」
「え、じゃあなんでいろいろ……咲くんの分でしょ、っ」
手袋をしていない大きな手がそっと顔に寄せられ肩がびくっとこわばった。咲くんはそのままゆっくりした動きであたしの横の髪を耳にそっとかける。「もちろん」と言ってそのままおろした手を差し出した。
あたしが迷っていると、彼はコップを一瞥した。最後にちょっと残った中身を飲み干して手渡したら、ん、と頷いて受け取った。
「余ったら俺の分だよ」
余ったら。
嫌な予感がする。それって、じゃあ余らなかったらいったい誰のものなんだ。
「次は何がいい?オレンジジュースもあるよ、炭酸もあるけどももちゃん飲めたっけ」
「まって、待って」
腰を浮かせようとした咲くんを止める。
彼は素直にとんと座面に戻った。
「うん?」
「あ、あたしが来るから買った……?」
違うって、いつもこれくらいあるって言ってほしくて思わず聞いてしまった。誰かといるところなんか見てないけど、関係がある人くらいいるだろう。そういう人たちがよく来るって話かもしれない。だとしたらコミュニティとか仕事のこととかも話してくれるかも。
あたしが内心まくし立てるのをよそに、まつ毛の隙間なく並ぶ瞼がゆったりと数回瞬きをする。
咲くんはこてんとちょっとだけ首を傾けて、溶けてしまいそうなくらいに目じりを下げた。待ってよ。
「喜ぶかなと思って」
だめだ。
「美味しいとか楽しいとか思ってくれたら、嬉しいから」
──だめだった。
これ、なんていうんだっけ。生まれてこのかた受けたことのないものだ。あたしにはなくて、彼が人に向けることができるもの。でも聞いたことがある。名前を知っている。全部私物を消されて空っぽになった部屋で、このあとの自らを悟った年嵩の同胞がこぼしたから。
目を見開いて絶句するあたしを彼は変わらず見つめている。
「……ふ、かわいい」
ああ、もう、と思った。
あたしがこんなことをする羽目になっているのは諜報のやつらの教育が間に合っていないからで、あの班の補充が間に合わないのは当然欠員の多さのせいだ。あいつらが消えたり消されたりしていたのは箱の外の人間と直接関わってこんなもの目の当たりにしたのが原因なんだろう。あの子が言ってた、これを。
見ないふりをしてきた。くだらないって目も耳も塞いでただ走って走って、こういう人と出会わないで全部血と肉塊にしてきたおかげだ。ここまであたしが生き残ったのは。
「なんで咲くんが嬉しいわけ」
「不思議だよね」
「なんであたしが喜ぶって思うの」
ともすればぼんやりしているようにも思える落ち着いた反応。俯いてぼそぼそと早口で話してしまっても、いつも通りに返事をしてくれる。
「あたしのこと、知らないのに……」
「そうかな」
低い声が鼓膜に柔らかく当たる。
苔桃。苗字も名前もないし、親の顔も知らない。指示通りに動いて人を殺して、餌をもらって枷をつけられ組織に飼われて生きている。自由なんかないし、何にもなれない、あたしのことだ。
「君はももちゃんで、ももちゃんはかわいい女の子だよ」
息をのむ。
わかってしまった。
あたしにはできない。
お守りみたいに触れていたナイフから手がひとりでに離れた。
ーーー
「じゃあまた。暗いから気をつけてね」
あたしは咲くんのことを殺せない。
「またね、咲くん」
もう一つわかったことがある。殺せないってことは、つまり、あたしは彼を狙う組織にはいられない。そしてそれらを放っておくこともできないのだ。
改札を抜ける。重い足取りで巣に帰る。ひどい耳鳴りが始まった。




