第二話
「もーもちゃん」
「うぎゃ」
突然呼びかけられて、ぼんやりしていたわけでもないのにびくんと肩を跳ね上げてしまった。
「なんでいつも後ろからなの」
何度目かの待ち合わせ。
ある日あたしに興味を持ったらしいターゲットから連絡先を渡され、こうして関係を持つことになった。
この人は連絡してくるし、なかなか情報がつかめない相手だったこともあって任務の都合上あたしは断るわけにもいかなかった。諜報のやつらは入れ替わりが激しいし、常にあんまり足りてないから仕方がない。
「たまたまだよ」
咲というらしいこの人は、いつも目を見て喋る。見透かされてしまいそうなのにこっちはこの人のことが何もわからなくて、あたしはそれがちょっと苦手だ。例えば、こうしてたまたまだって言うから、わからないあたしはあっそと思うしかない。もともと深く考えるのは得意じゃない。
「来てくれたんだ」
そう言ってにこりと笑う。張り付いて観察しているあいだは一切そう感じなかったけど、彼はけっこういつでもにこやかな人だった。
あっちだよと先導して歩き出すのにくっついていく。今日は水族館に行くらしい。あたしがイルカなんか見たことがないと言ったら、じゃあ今度見に行こうよって彼が誘ったから。
……本当は困るのだ。人気のないところじゃないと仕事はできないし、そもそもあたし自身人目につくのはできるだけ避けたい。でも、なんでだっけ。あたしは行くって返事をして、今日ここにいるわけで。
「……だって咲くんがチケット買ったって」
こんなのが理由じゃないから声が小さくなる。海風でどうせ届かない。
「うん」
――それでもいいよ。
聞こえたのか、咲くんは多分そう言った。
ーーー
闇の中で息を潜めて生きてきたあたしが、平日昼間ののどかな海を眺めながらゆったりお茶なんかしている。
ふと目に入った館内限定だというドリンクの看板に気を取られていたら、咲くんがレジに向かって歩いていたのだ。店員の目の前で「喉が渇いたなって。ももちゃんあれがいい?味はオレンジなんだって」とやたらポップでカラフルなドリンクを指差すから仕方なく頷いて、外にも席があるんだよと誘われて。
何をやってんだって、突然我に返ったように疑問に思った。
「あのさ。あたしたちって、何?」
咲くんはアイスティーのコップを置いて首を傾げた。液体と薄いプラスチックがとんと音を立てる。
「何って?」
「友達、とか……」
「ああ」
合点がいったようで軽く頷く。だけど彼はそれから何も言わなかった。
あたしがわからないから聞いたのに。言ってみたはいいものの、友達っていうのがなんなのかも正直知らない。こんなに構われる理由も、あたし自身が欲しいかどうかわからないものを躊躇なく与えようとする理由も、何も。
「……咲くんって彼女いるの」
喉が渇く。
こんな質問で緊張するはずがない。だってあたしは命令に従っているだけだ。普段は実行前の接触なんかやらないけど、顔が割れたならもう近づいて隙を探って情報を得て、指示が出たその瞬間に殺すんだ。そうだろ苔桃。
「いないよ」
なんでもないような声色でそう聞こえた。心臓が勝手に、ほんの少しだけ大きく鳴った。
そっかいないんだって、あたしはなんでこんなこと思うのか。任務をこなすことに高揚なんてしなかったはず。考えるな。ただやるだけ、あたしは駒だから。
一口だけジュースを飲んでやっと口を開く。
「ならあたし、なれる?」
――右隣を見上げてそう聞くと、彼は本当に珍しく、目を丸くした。
その手があったかみたいな顔をしていた。というか、ちょっと言ってた。この人に驚くって感情があったんだって、逆にあたしが驚いた。
ふっと表情を和らげて、咲くんはゆったりと頬杖をついた。重たそうなくらい長いまつ毛。双眸がゆるやかに弧を描く。
「……なれるよ。ももちゃんは何にだって」
彼はこんなにも穏やかに落ち着いて見えるのに、あたしはこんなに暑くて、周囲のざわめきも潮の香りも遠くて。
「じゃ、……なる」
逸る心臓がうるさい。こんなの本当に”ももちゃん”じゃないか。
混乱するあたしをよそに「うん、いいよ」とあっさり返事して、彼はまた機嫌よくストローに口をつけた。
夕方、駅でじゃあバイバイってときに、彼が口を開いた。
「どうだった、イルカ」
「どうって……」
「初めて見たでしょ」
「うん。……写真で見るより、おっきかったかな。あと……」
本当は、ちょっとあたしみたいだと思った。飛んだり跳ねたり指示通りに動いて、後ろには広大な生きていけたはずの世界があるのに、餌をもらって水槽で飼われて暮らしている。……だけど。
「自由に見えた」
――あたしなんかより、よっぽど。楽しそうで愛されていて。そういう生き物なんだろうなと思ったんだ。
「ももちゃんだって、自由だよ」
はっとして顔を上げる。思わず揺れたあたしの瞳の先で、咲くんは微笑んでいた。言ったけど、言ってないのに、なんで。
「あたしが?」
「そう」
彼は当たり前みたいにひとつ頷いた。あたしの生業だって身を寄せてる組織だって本当は真っ赤に汚れている両手だって何も、なんにも知らないくせに。……知らないはずなのに。
「手を出して」
返事もできずに立ち尽くしているあたしに、咲くんはそう言った。おそるおそる出した右手にピンク色の小さなぬいぐるみがそっと置かれる。黒いビーズのつぶらな目があたしを見つめていて、これはいったい。
「咲くん?」
「イルカ。思い出になるかなと思って」
「なんで、ピンク色なの」
「かわいいから、かな」
どういうことなんだ。海の生き物を指していうのもどうかと思うけれど、あたしが今日見たのはネズミ色だった。ピンク色がかわいいというのもそうらしいな、としか思わない。でもなぜか、どうしてだろう、あたしはそのやわらかい思い出とやらをきゅっと握った。こんなの持って帰ったってしょうがないのにそっとバッグにしまう。
「かわいいから、ももちゃんに似合う」
「似っ……」
もう、もう。息が苦しい。理由がわからないしわかりたくない。
「じゃあ、また。気を付けて帰ってね」
そう言って彼はゆるく手を振った。毎回、今日も夕方に解散で、不慣れな体を使う色任務への流れも雰囲気も一切ない。何が目的でこんなことを繰り返しているのか見当もつかない。あたしは生きてきた中で得られなかった、名状できない気持ちになっている。
「……またね、咲くん」
――あたしは、ももちゃんじゃない。ボスの一声でこの男の息の根を止める。大丈夫。まだ殺せる。
繋ぎ止める。踵を返して歩きながら、届かないように、深く息を吐いた。




