大王シュッピルリウマ
19の時、ついにエジプトの敵国とも言えるヒッタイトとの交渉に踏み出した。
ヒッタイトとの友好関係を強くするため、ヒッタイトとエジプトの国境に位置しているアルムでの会見を大王シュッピルリウマに申し込んだのだ。
アルム王国は父が都を遷した際の混乱を好機としてヒッタイトが侵略した、元エジプト従属国家だった。
我が国の兵とヒッタイト兵が同じ場所にいる風景に何とも違和感がある。
セテムとラムセスが警戒心を露わにする中で、正装に身を包み、ナルメルとセテムを従えてアルム王宮の一室へ足を踏み入れると、長身の男がすでに部屋で私を待っていた。
「ほう、そなたがエジプト王たる者か」
初めて対面したヒッタイトの大王は、私を見て威厳のある物言いでそう告げた。
立っている為に目立つ身長の高さは、こちらを圧倒するものがあった。大男だ。
長い髪が目を引く。年がら年中気温が高い気候のエジプトでは髪を長く伸ばす男はまずいないため、その姿はとても新鮮に見えた。
顔つきが我々とは違うのは、北方の民だからだろうか。
衣も裾が長い。自分が来たら間違いなく裾を踏んで転ぶ気がする。あの衣では思う存分走ることは出来なそうだ。ヒッタイト人は走らない民族なのだろうか。
「わざわざ私の元までやってくると聞いたときは肝の座った屈強な男を想像していたが、随分と颯然な顔をした少年王だ。これは驚いた」
この男が、一代にしてヒッタイトを強大国家にした人物。
妹や娘を他国に嫁がせ、優れた戦略と外交により国土を三倍にまで広げた実績を持つ。それだけの偉業を成してきた男ならば、私など小僧程度にしか見えていないに違いない。
「初めてお目にかかる。シュッピルリウマ王よ」
長身の王に胸を張って第一声を唱えた。
あくまで対等を貫き通すのだ。口元に笑みを湛えて見せる。
「先王の意志を継ぎ、エジプトの王となったトゥト・アンク・アテンと申す。初の会見を受けていただき、感謝申し上げよう」
シュッピルリウマはこちらの様子に、髭に囲まれた口元に笑みを浮かべて小さく頷いた。
「新たな若きエジプト王よ、腰をかけられよ。私はもう年なのだ。腰が痛むのでな」
とてもではないが、腰を痛めている立ち方には見えない。
「では、お言葉に甘えて」
互いに向かい合わせに用意された腰掛けに腰を下ろした。端には両国の書記官、王2人それぞれに、側近が二人ずつ後ろにつく形で会見は始まった。
「エジプト王自らが私の元へ来訪するとは、よほどの理由があるようだ」
「端的に申し上げる。貴国との、友好条約を明確に結びたい」
ほう、と相手は大して驚くこともせず、静かに口を開いた。背もたれに背を預け、昔を懐古するような表情を浮かべている。
「貴殿の父君にそれを言い渡したことが数度あるが、すべて無視されたことは記憶に新しい」
こちらに非があるのだと、大王は穏やかな顔で言った。こちらの様子を窺っているような雰囲気だ。
それでも、その言い分は想定の内だった。相手の言う通り、アケトアテンの書庫にはその文書がしっかりと残っている。
シュッピルリウマはエジプトとの戦いを一時中断したいと申し出ていたのにも関わらず、父はそれを無視した。それどころではなかった、というのがおそらく正しい。父はアテンに心酔していたのだ。
「その件はここで謝罪致す。先王の非礼、お詫び申し上げる」
父は国内の革命のため、外交はほぼ無視したと言ってもいい。それにより弱小国家との繋がりは衰退してしまった。今回ヒッタイトとの交渉に漕ぎ着くまでに修復してきたのはこの繋がりだった。
「当時の王、我が父アクエンアテンは新宗教の研鑽に没頭していたことは紛れもない事実。我ら王家もそれを止めることは出来なかった。これは王家の者として恥ずべきこと。……当時、我が国と敵対していた勢力の脅威に晒されていた弱小首長から届いた文書の多くが黄金や補給物資の救援を訴えていたものであったのにも関わらず、父はほとんどといっていいほど応答しなかった。一国の王としてあるまじきことだ」
その立て直しのために、今自分はここにいる。
「父君の失態をまだ年若いそなたがすると?何とも難儀なことよの」
「王家として当然のこと。父が成したことの責任は我らにある。王家に若いも老いたもない」
事実そうだ。
私も兄も、父を止めることができなかった責任がある。
「貴国ヒッタイトとは良い関係を続けていきたいと心より思っている」
「ほう」
「勿論、何もなしにとは申さぬ」
ナルメルに目配せをすれば、ナルメルが奥からラムセスを呼び、外で待機していた兵たちを中に入れた。
我が国一流と謳われる黄金の装飾品の数々、ナイルの恵みによりとれた豊かな作物、そして狩りで得られる多くの動物たちの毛皮や立派な角が、続々と運ばれてくる。
黄金の煌めきは、なにより太陽の光だ。錆びることのない永遠の輝きを持った、我が国を象徴するもの。
──さあ、北の大王よ。その眼にしかと焼き付けよ。
豊かな大国、神々に愛された国、それが私の国だ。
「これより、良い関係を結んでくれるであろう貴殿に、これらの我が国の品々すべてを差し上げよう。我が国の黄金の加工品は他国に引けを取らぬ。我が国の特産品と呼べるすべてを、貴国へ運ぶことも考えている。貴国の繁栄の一助となりはしまいか」
目の前に並べられた贈り物に、大王は唖然と目を丸くした。
名を馳せる相手にここまでしてやれたことに、誇りが漲る心地がした。
「若僧のくせに、威勢の良いことよ」
やがて相手は大きな口を開けて豪快に笑い出す。
「そなたのような無茶をする若者は嫌いではない。我が王子にもそなたと同じような者がおるのだ。そういう者を見ていると将来が楽しみになる」
「それは何より。是非ともそちらのご子息に約束されていらっしゃるような手厚い結びつきが私にも欲しいものだ」
更に笑い、相手は大きく膝を打って身を乗り出した。
「若きエジプト王の話にこの耳を貸そうではないか。エジプトとヒッタイトの取引だ」
そこから始まったヒッタイトとの交渉は7日間に及んだ。
友好条約とは言っているが、取引で均衡を保つ間柄になるべく、相互扶助関係の確立が主な内容となった。
相手国との取引の中でこちら側に不利な点はないか、相手に何の目論見があるのか、細かい点にまで目を向け、何をも見逃すまいと、ナルメルや連れてきた側近、書記官たちと夜更けに話し合う。
翌朝、挙げられた問題点を解決案とともに大王に提示する。そこからまた互いに互いの裏を読み合いながらの心理戦だ。
寝る余裕などなかった。気を許してはいけない。相手は多くの王たちを震え上がらせるほどの実力の持ち主なのだ。
「以上でよろしいか。エジプト王よ」
最終的な文書を眺めて相手は深い声色で言った。相手にも僅かながらに疲れが垣間見える。
「問題はない。長い時間、ここまで手を尽くして下さり、感謝申し上げよう。ヒッタイト王よ」
私がそう答えて初めて、この長い取引は終幕となった。
「貴国と、良い関係を築いていこう」
最後にヒッタイト王はそう言った。
心からそう思う。我が国が、我が国の民が、平穏に暮らせる世の中を築いていきたいと。
先程まで大王と取引を交わしていた部屋を出ると、世界はすでに夜の中にあった。
ヒッタイト兵たちは大王についていったらしい。エジプト兵が並び立つ暗い廊下に、月明かりだけが注いでいる。
立ち止まる私の横を風が吹いていく。自分の生まれ育った国とは違った、少々湿り気のある冷えた風だった。
取引が終わったと同時にアルムを発つつもりでいたが、この暗さではここにもう一泊せねばならない。夜に動くことは出来なかった。
自分の吐いた息が、妙に生暖かく感じる。夢の中にあるような感覚だった。
「よくぞここまで成されました」
柱の合間に見える空を仰いでいた私の背後から、染み入る声が響いた。
声に釣られてゆっくり振り返ると、宰相は深く頭を下げていた。セテムやラムセスたちが後を追うように頭を下げている。
周りにいたエジプト兵たちも膝を折り、こちらに敬意を向けていた。
彼らの姿を見て、ああ、とため息のような掠れた声が漏れた。
本当にやり遂げたのだとここで初めて実感した。
表向きとは言え、これでヒッタイトとの関係を結ぶことが出来た。
ヒッタイトからの侵略を気にすることなく、国内の改革に目を向けることが可能となったのだ。これは間違いなく、今までの中で最も大きな一歩だろう。
きっと姉も喜んでくれる。早く、国へ帰って今回の成果を知らせたい気持ちが募った。
国に戻るには最速でも3日はかかる。まずは報告として、取引が終わってすぐに今回の成果をしたためさせ、国へ送った。
これで姉がアイに対して先手を打ってくれるはずだ。ヒッタイトを説き伏せた私を、あの後見人が軽んじることはなくなる。
何とも言えない達成感に満ち溢れた気分になった。
どんな形とはいえ、自分はやり遂げたのだ。たとえそれが、己が成そうとしている目的の、たった一部だとしても。
部屋に戻って一人になると、顔を覆い、そのまま寝台に突っ伏した。大きく息を吐き出すと、まるで死んでいくかのように意識が遠のいて、驚くほど早く、自分が眠りに落ちて行くのが分かった。




