約束
急ぎの使者が国から送られてきたのは、アルムを出国して一日が経った頃だった。砂漠のオアシスで一泊することになった私は、自分に宛がわれた天幕でその使者を迎えた。
「夜分遅くに失礼いたします!!」
すぐ傍に侍っていたセテムが反射的に反応して「何事か」と声をかけた。
「構わぬ」
横たえていた身体を起こし、天幕越しに使者の影を見た。月明かりによって映し出されたそれは風のせいかゆらゆらと揺れている。
未だに眠気で霞んでいる目を、力任せに手で擦った。
おそらく急用であることは想像に難くない。ヒッタイト王が何か後から文句でも言ってきたのだろうか。
「要件を」
「一刻も早く、王宮へお戻りください!」
切羽詰まった声に眠気が冷めていくのを感じる。
「カーメス殿とネチェル殿による書簡を、お持ちいたしました!」
緊急としてその使者が携えて来た知らせを、セテムを介して受け取り、内容を把握するべく目を通す。
一度読んだ文章に己の目を疑い、何度も何度も読み返してから自分の血相が嫌でも変わっていくのが分かった。
「帰国する……」
震えた手を握り込んだ。
一刻も早く、国へ戻らなければ。
「ファラオ?」
セテムが眉を顰めた。
「今すぐにここ発つ!!帰国のための準備をせよ!」
セテムを押しやって、天幕を出た。
いくつもの天幕を畳んでいるのを待つ時間など無い。夜だろうが構わない。すぐにでも発たなければ。
ナルメルたちが今の時間帯で動くことは危険だと私を止めようとしたが、落ち着くことなど出来なかった。焦燥が増して何かが自分の中で吹き飛んでしまいそうだ。
『姉が病に伏せている』
そうカーメスの字で書かれていた。『故に一刻も早い帰国を望んでいる』と。
夜は危険だからとセテムやナルメルが止めるのにも関わらず、私はセテムを含む少数の兵たちを無理に引きつれて帰国を急いだ。
確かに、出発前に見た姉の顔色はどこか青白かったのだ。
ネチェルも気にかけていた。その話は把握していた。
だが、大丈夫だと、待っていると、姉はそう言って私を送り出してくれた。
それでも、こんな書簡が早急に届けられるほどに、姉の状態は危険だったのだ。
正答の出ない自問自答が頭の中で繰り返される。
にわかには信じられないまま、自ら疑問に疑問を繰り返しながら、とにかく馬の腹を蹴って帰路を急いだ。
丸一日休まず駆けて、砂に塗れたまま日付を跨いだ真夜中にアケトアテンの王宮に降り立った。
急な帰還に慌てて女官たちが出てくるが、いつもなら迎えてくれるはずの姉の姿はどこにもいない。知らせは真であったのだと、ここでようやく飲み込んだ。焦燥ばかりが自分の中にあった。
「アンケセナーメン!!」
叫んだ声は枯れている。
「姉上!!」
馬を降りると兵や侍女たちを押しのけて宮殿に飛び込み、無我夢中で姉の姿を探した。
病を患って休んでいるのなら姉の部屋だと思い立つと、セテムたちが追い付く前に、姉の宮殿の方へ地を蹴った。
嫌な汗ばかりが全身から噴き出して、流れて行くようだった。この嫌な寒さは、父と兄を失った時に感じたものだとこんな時に思い出す。あの時と同じような感覚が自分を取り巻いているのが、酷く恐ろしかった。
「ファラオ!ファラオ!」
部屋の近くまで来て、二人の侍女たちを連れたネチェルが泣き腫らした顔で駆け寄ってくるのが見えた。
「よくぞお帰りに……!」
何故、それほどまでに泣き腫らしているのか。嫌な予感しかしない。
「あちらです……!」
ネチェルが示したのは姉の部屋だ。
侍女たちを通り抜けて、目的の部屋の扉を力任せに開いた。
「姉上!」
部屋の中では、暗がりの中に炎が灯っている。
奥に置かれた寝台に姉は横たわっていた。侍医たちが傍におり、悩ましい顔をしているのが目に入る。こちらの帰還を知った侍医たちはすぐさま膝を折って頭を下げた。
「姉上、私だ、今帰った」
駆け寄って相手の顔を覗き込むと、姉はうっすらと目を開けて私を見た。
あらあらと、私とは正反対の調子でゆったりと微笑む。
「……随分早く帰ってきたのねえ」
顔色が悪い。見るからに痩せている。
何より言葉の語尾にも振る舞いにも力がない。
「知らせを受けたのだ、姉が何やらを患って病床にいると」
姉は遠くを見る目をした。
身体を起こすのも辛いのか、動かす手も震えている。身体が言うことを聞かないと言った様子だった。
「出迎えが出来なくてごめんなさいね……やり遂げたあなたを、一番に迎えてあげたかったのだけれど……どうしても身体が言うことを聞かなくて」
微笑んで謝罪する相手に、ぶるぶると首を振った。
「良いのだ、姉上はゆっくり休んでいると良い。私は平気だ、大丈夫だ」
明らかに何やらの病に伏している。弱々しい姉の姿が、いつか見た、病床の兄の姿に重なった。寒さのためか姉の身体は小刻みに震えていた。咄嗟に力の無い姉の手を握りこむ。
「侍医!」
縋るように、後ろに控えていた侍医を呼びかけた。
「姉上は、何の病を患っているのだ」
そう問い掛けるのに、侍医は深く俯き、唇を噛んでいる。
知りたいのに、知りたくない。そんな感情が湧きおこる。
「……死の、病らしいわ」
返答をくれたのは、姉だった。なんと遠い目をしているのだろう。
意味を理解するなり、自分の目が見開くのが分かった。
「思っていたより、私の身体も丈夫ではなかったのだわ」
死の病。死の、病。
何度も、姉の口から発せられた病の名を脳内に反芻させる。
手の施しようのない、ただ死にゆくだけの病のことだ。ただ目の前で死んでいくのを見守ることしかできない病のことだ。それを患うことは、死を意味する。
何故か穏やかに告げた姉とは正反対に、自分には胸を内側から強打されたかのような衝撃があった。
発病したのは、ヒッタイトとの交渉でアルムに行っている間に違いない。
行きと帰りの往復で6日、取引に7日、合わせて私の不在は13日──たったその間に、姉はここまで弱り果てた。
「……何故、知らせなかった」
喉奥から発せられる声が震えた。
恐怖がのけぞってくる。這い上がってくる。
死の病だと分かった時点で、何故。ここまで姉が弱り果てているのを近くで見ていて、何故。
知らせがくればすぐにでも戻ってきていたはずだった。知っていたら、こんな状態になるまで、姉を一人になどしなかった。
「何故私にすぐに知らせなかった!!」
恐怖が競り上がって、焦りと怒りに姿を変えて行くのが手に取るように分かった。身体が大きく震える。身の毛がよだつ。
腹の奥底から這い上がって来たものが、喉を打ち破って声となって出てきた。
「ネチェル!カーメス!」
やり場のない怒りの矛先は第一の侍女と姉の側近に向かった。
姉を娘のように可愛がっていた初老の女は目元を腫らして怯み上がり、背の高い側近は顔を歪ませている。
「姉上の誰よりも傍にありながら、この失態はどういうことか!」
姉の手を離して立ち上がり、ネチェルとカーメスへ向き直った。
「何故だ!」
この二人を責めて何になるのか。そう分かっていながら止まらない。
「答えよ!!」
「アンク」
厳しい声と共に手を後ろから掴まれた。振り返ると、懸命に上半身を起こした姉が、私の手を掴み、諌める眼差しをこちらに向けていた。
「……おやめなさい」
姉のそんな姿を目にした途端、頂点にまで登りつつあった感情がみるみるうちに下がり、緊張していた四肢は急に脱力した。
今にも倒れてしまいそうな姉の様子に、我に返って駆け寄り、相手の身体を支えた。
「二人を責めるのは、おやめなさい」
支えた私に掴みかかるように、念を押すように繰り返す。
「分かった、分かったから、無理はするな。頼む」
姉は大きく息をつくと、私の手を借りながら身体を横たえた。
じっとこちらを見つめ、悩ましげな表情をする。
「短気なのは、問題ねえ……」
そう呟くと、姉は皆に二人だけにするように命じた。ネチェルや侍医たちが戸惑いながら出て行く足音がする。
「……知らせないようにと、私が命じたのよ」
誰もいなくなって初めて放たれた相手の言葉だった。
「ネチェルとカーメスは、私が倒れた時、すぐにあなたに知らせようとしてくれた……二人がそういう人間だということを、あなたが一番知っているでしょう」
知っている。分かっている。二人は今回の交渉が成功したという知らせを受けて初めて、ようやく姉のことを私に知らせられたのだ。
そうだと分かっていてもこのやり場のない感情はどうしたらいい。
「何故……姉上は知らせを止めたのだ」
噛み締めた声は、相手に届いたか分からないくらいの途切れたものになった。
「あなたはやり遂げなければならなかった」
あくまで淡々と告げられる。
「あなたはきっと、私のことを知ったら、我を忘れて帰って来てしまう。私のせいで、王としての自分を捨ててしまう」
「そう言う問題ではない!」
大きくかぶりを振り、寝台の縁を拳で叩いた。
「姉上が病に伏せていると知れば、すぐにでも帰ってくるべきだろう!王と名乗ってはいても私は姉上のたった一人の家族だ!もう失うのは沢山だ!あんな思いはしたくない!」
父が死に、兄が死んだ。そして姉までもと想像すると、胸が抉られるような思いだった。
ここまで必死になって自分が突き進んできたのは、誰のためだ。
「王は国のためにある。私たちは家族である前に、王族でなければならない。王にとっての最優先が私であってはいけない。それをあなたは分かっていない」
分かっている事実だ。叩き込まれた教訓だ。
だからと言って、唯一の家族を見捨てることなどどうして出来る。最後の姉まで失いそうになって、どうして。
もう、自分には他に誰もいないと言うのに。
「もし、知らせが届いていたとして、あなたが早く帰って来て、何が出来たの」
冷静な声色でとわれて、息を呑んだ。
姉が死の病だと分かって、ここへ早めに帰ってきて──自分に姉は救えたか。今と違う状態を迎えることが出来たか。
「侍医にも出来ないことを、どうしてあなたに出来るの」
言う通り、自分には何も出来なかった。自分には何の力もない。少しばかり元気な姉が今の状態にまでなっていくのを眺めていることしか出来なかった。
「私はこうなるさだめだった。患ったら、もうどうにもならない」
放たれる声は冷たかった。
「ならば……ならば、私はあなたの、この国の邪魔にはなりたくない」
冷たい声はやがて歪み、曇っていく。
「最後のヒッタイト交渉が最も重要なものとなる。これのために、今まであなたは必死に頑張ってきた。苦しくても辛くても、重いものを背負いながら、ここまでようやく這い上がってきた」
声は鼻にかかるようになり、一筋の涙が相手の頬を流れ落ちて行った。
「あなたが今まで積み上げてきたことを踏みにじることは、私の尊厳が許さない。私は、この国の、王家の、足手まといにはなりたくない。これがあなたに知らせなかった何よりの理由よ」
潤ませた目元で前を見据えて強く言い切った姉は、紛れもなく一国の、この国の王女であり、私にこれ以上の反論を許さなかった。
それから姉は受け付ける食事の量も減り、吐くことを繰り返した。身体は痩せ細り、歩くことはおろか、身体を寝台から起こすのも儘ならない状態となった。
何を飲ませても、食べさせても、容態は変わらない。歯止めがきかない。抗う術がない。
姉は兄と同じように、病を治すと言う考えを持たなかった。すべてを受け入れているかのように、侍女たちに身の回りの世話をさせ、自分がいついなくなってもいいようにと片づけをさせるようになった。
そして日中、私が見舞いに行くことを禁じた。王としての務めを果たせということだと分かっていた。
故に、すべてを終わらせた夜に姉の顔を見に行った。
会いに行けば、これからのことを話される。姉がいなくなった後にどうすべきか、何をすべきか。毅然とした態度で相手は語っていく。
姉がいなくなる事実を受け入れがたいままの私は、侍医に姉の容態について尋ね、深夜に自ら書物を読んで医学の術を探した。
何も見つからないことに苛立ち、除けることのできない恐怖に怯えた。心が一本の糸のように痩せ細っていくようだった。
何より、姉が生きることを諦めていることが苦しかった。男のように潔い人であることは昔から分かってはいたが、本人から死なないのだと言う言葉が何より欲しかった。諦めて欲しくなかった。
深夜にどうにもならない気持ちを抱いたまま、姉の部屋に戻ると、姉は眠っていた。
どうすればいいのか分からない。救いたいのに救えない。椅子に腰をかけ、姉の寝台の縁に腕をおいてその中に顔を埋めた。
「……ねえ、カーメス」
気づくと、姉の声がした。
自分の髪が撫でられている。弱い力で頭を手が往復する。
自分は寝ていたようだとぼんやりと気づいた。頭を上げることのないまま、耳を傾けた。
「はい、姫君」
離れた所から返答があった。カーメスの声だ。少し憂いを含んだ音は、無条件にこちらの胸を締め付ける。
遠慮するかのようにカーメスは少し距離を置いて立っているようであった。
姉がカーメスを呼んだのか。カーメスは男の従者として誰よりも姉の傍にいた。生前の兄から妹である姉を守るよう命ぜられたからだ。
「兄様も、こんな気持ちだったのかしら」
遠い日を懐かしむように語りかける。
「弟一人を残して逝かなければならないことが、こんなにも辛いなんて思わなかった……こんなにも早く別れが来るなんて、思わなかった。もっと、ずっと、傍にいてあげられると思っていたのに」
耳に入る声が、涙ぐむ。
それでも自分の髪をすく手はゆっくりと動き続けたまま。
身を起こしてもいいはずだと言うのに、自分の身体は動かなかった。
「私に大事な弟を託してくれた兄様は、許してくれるかしら」
姉と弟、二人で生きて行くのだと諭した兄の姿を思い出した。
「私はこの子に、何を残せたかしら」
自分は、支え続けて来てくれた姉に、何が出来ただろう。
残された時間の中で、何をしてやれるだろう。
「とても可哀想な弟。幼い内から多くのことを経験して、これほどまでに重いものを一人背負って……」
そればかりで、自分は姉に何もしてやれなかった。
「王子として生まれていなければと、自分の出生を恨むこともあったでしょうに、それでも逃げずにここまでやってきた。私の誇りよ」
「……ええ、分かっております」
カーメスの返答が小さかった。
「カーメス」
「はい」
覚悟を纏った短い返事だ。
「どうか、支えてあげて頂戴。あなたの笑顔はきっと、支えになるに違いないもの」
そう告げる本人はきっと、微笑んでいるのだ。泣きそうなほどの笑顔で。
「あなたには笑って、傍にいてあげてほしいの。……あなたにしか頼めない。どうか、お願いね」
カーメスがどんな表情で、この言葉を聞いているのか、想像する余裕などなかった。
ただただ拳を力の限り握り込んで、自分の髪を梳いていく姉の手の温かみを感じていた。
倒れて一月が経った頃、死期を悟った姉は、ソティスが夜空の端に現れた翌朝に私を呼んだ。
今にも自分の前からいなくなろうとする唯一の存在の前に、涙が抑えることが出来なかった。
「たとえ……たとえ、甦るのが数百、数千年後になろうとも、それ以上ずっと先のことだろうとも、必ず私はあなたのもとへ戻ってくる」
姉は幼子のように咽び泣く私にそう言った。
今にも消えてしまいそうな表情で、弱い力で私の手を握り返しながら。
「私を、呼びなさい。神の許しを得て、遥か未来、この世に再び舞い戻る私を」
なんて、叶うか分からない儚い祈りだろう。
「たとえ、どんな遥かな時があったとしても、私はあなたの声を探し、あなたの声に応える」
信じずにはいられない。叶うことはないと分かっていながら、信じることをやめられない。
「私を、呼びなさい」
そうやって送られた、父から兄へ、兄から姉へ、そして私へ受け継がれた言葉。
我々が我々であるという証の、生きている者たちへの言葉。
──御身、生きてある限り、心正しくあれ。
人は皆、すべて皆死後に世界ありて。
なせる業ことごとく屍の傍らに振り積む成ればなり。
ナイルの氾濫が始まる目前に、姉はこの世を去った。
静かな最期だった。眠るようにして、やがて息をしなくなるのを傍で見ていた。呼びかけることしか出来なかった。
今まで何を目指してやってきたのか。
国のため、王家のため。父と兄の理想のため──だが、最も私が守りたかったのは、姉ではなかったのか。
何のために、ここまで進んできたのだ。姉を置いて、多くの国へ行って、そこで交渉をして。
結局自分は真実守りたいものを、守ることは出来なかった。
途端に、行くべき道が見えなくなった。




