黄金の先
姉が死んでも時が止まると言うことはなく、政務は相変わらず畳みかけるように続き、新たな年を告げるナイルの氾濫がやってきた。
夜に並々と揺れる水面を漠然と眺めていたら、月の光を浴びて、独り背中を震わせている影を見つけた。
カーメスだった。
氾濫によって目前にまでやってきたナイルに月が映っている光景を見て泣いているのだ。
もういない姉を想って、泣いているのだと知った途端、どうしようもなく視界が霞んだ。落ちて来る生暖かい雫を、頭を振って払い、その場から私は足早に立ち去った。それが私の見た、最初で最後の、カーメスが涙を流した姿だった。
姉の遺体は、死の家に行ってから70日目の夜に神殿にひっそりと棺に入れられて戻ってきた。
帰ってきた、何のぬくもりも無い棺を前に、立ち尽くすことしか出来なかった。誰もいない夜の神殿の中心に、棺だけが自分の前に横たわっている。
大きく息を吐いて、神殿の天井を仰いだ。
自分が情けない。大事な存在を何ひとつ守れなかった自分が恐ろしく憎い。悔いても悔いても悔やみきれない。
振り返るな、立ち止まるなと自分に言い聞かせ、歩き続けてやってきたこの道の果ては、ここまで来て未だに何一つ見えてやいないではないか。
それでも、このまま後悔や自責に埋もれていては何にもならないことは知っている。姉の決意を、兄の執念を、無駄にはしない。今の私に出来るのはそれだけなのだ。
姉や兄が導いてくれた道を、今度は一人、歩いて行かなければならない。
前を見て、振り向かずに、しっかり足を踏みしめて。
何のために姉は自分の病を私に知らせなかったのか、何のために、一人で苦しんでいたのか──それは私が己の道を全うするためであろう。
それを成し得ない自分に、生まれてきた価値はない。
「……行くぞ。前へ」
低い声で呟いた。
時は進む。転んでも、前へ行かなければならない。一国の王として。
立ち上がらねばならぬ。
私に立ち止まっている時間はない。これからどうするべきか。必死に考えを巡らせろ。今にも崩れそうな心を奮い立たせ、悲しみを奥に押し込むのだ。
神殿を出た先で、まるでこちらの決意を知ったかのように、ナルメル、セテム、カーメス、ラムセスが待っていた。
「待たせた」
やり遂げるのだ。足を進めろ。
姉が死んでから止まっていた本来の目的を遂行するのだ。
「アンケセナーメンの葬儀が終わり次第直ちにラムセスやホルエムヘブ、カーメスとナクトミンを派遣し、国の制圧に努める。同時に古の都であったテーベの再建を開始する」
大きく彼らは頷き、深く頭を下げる。
「付き従ってまいります」
そう言ったカーメスは笑っている。姉の頼みの通り。
神殿から王宮への階段を下りながら、側近たちの傍を通り過ぎた。私のあとを彼らは付いてくる。
「まずは、アイがアンケセナーメンの死を利用して王位に近づこうとしているのが問題だ」
アイは、最も王妃として相応しかった姉が亡くなったことをいいことに、ネフェルティティを妃にせんと動いている。
ネフェルティティにその気はなくとも、アイは自分の権力のために娘を利用するつもりでいることは確かだった。
父の時と同じように娘を王の妃とし、王の義父となり、権力をより大きくする。それがアイの狙いだと言うことは明々白々たる事実だ。
「これだけは早急にどうにかせねばならぬ」
今の状況で自分の妃に相応しい身分はネフェルティティであるのは間違いない。
最悪、ネフェルティティが妃となった際のアイの権力を、どうにか抑える方法を考え出さなければならない。それも可能な限り近い内に。
あの男の好きなようにはさせぬ。どんな手を使ってでも。
握る拳に力を込めた。
葬儀の日はナイルの氾濫が落ち着いてから行われた。
この日ばかりは政務がなく、葬儀だけに集中することが出来た。これはナルメルたちの計らいだった。
アテンを祭った神殿内には香の煙が立ち込めて、まるで別の世界に迷い込んだような錯覚に襲われた。
その祭壇のもとに、復活しても不自由しないようにと揃えた、生前持っていた遊具から化粧用具、それから姉が好きだった青い花が棺と共に並んでいる。
青い花は、白黒に色を亡くしたこの神殿にとても映えて見えた。
なんて鮮やかな、美しい色だろう。今更になって姉がこの花を好んでいた理由が分かる気がする。
厳かに行われる葬儀において、神官たちの歌だけがゆったりと流れて行く。悲しい場なのに、祈りの場のようにも見えた。
いや、祈りなのだ。
死んだ者の復活を願い、次の世が幸せにあるようにという。そして、またどこかで巡り会いたいと言う、果てしなく遠い祈り。
波乱に満ちた姉の人生、次の世の人生が、平穏であるように。
自分が幸せに出来なかった分を、次の世で幸せであるように。
『──呼びなさい』
目を閉じて祈りを捧げていると、ふと、遠い声が聞こえた気がした。
弱々しい、今にも消えてしまいそうな、死にゆく大切な人の声だった。
つい先ほど聞いたかのように鮮明に、今でもその声は自分の胸の中にある。まるで一縷の望みのような、幻のような約束。この約束が、姉が私を励ますためのものだったことは分かっている。
それでも諦めずにはいられない。信じずにはいられない。守りたい、守ってほしいと願う言葉がこの胸にある。
『──必ず、あなたの声を聞いて、私は戻ってくる』
この神々の国を治めるにはお前が必要だった。誰よりも、何よりも。
今置かれた状況を思うと、そう言った後悔に似た感情ばかりが溢れてくる。お前が生きていてくれたならば。死ぬことがなかったならば、と。
この瞬間だけでいい。現実味のないその儚い約束を信じても良いだろうか。
国の為に存在しなければならない私が、叶うかもわからないものを自分のために望んでも良いだろうか。
ぐっと目を閉じる。神殿の外から流れてくる風が頬を掠め、上へあがって行くのを感じた。
一瞬でいい、姉と交わしたものが真実に起こりうるものなのだと信じたい。
一度胸の内に名を呟くと、意識が恐ろしいほどに一点に集中していくのが分かった。
胸の内から何かが破裂するかのように熱を持ったものが溢れてくる。
たった一つの、私にとって掛け替えのない名を胸の内に呼び続ける。
誇り高い王家の姫君の名を。今はどこにいったか分からぬ、ずっと遠くに消えてしまった彼女の存在を。
戻ってくるのなら、戻ってこい。この国を共に見守ろうと言ったのを、忘れたとは言わせない。
我がもとへ、帰って来い。約束の下に甦れ──!
「──助けて!!!」
声がした。脳裏を揺るがすような女の声。
「助けて!!」
頭上から聞こえるのだと気付き、はっとして顔を上げると、黄金の光が膨らんで渦を巻いて自分の真上にあった。
大きく風が巻き起こり、神殿内を大きく荒らし、兵や神官たちが動揺してどよめき出す。
食い入るように光の渦を見つめていると、何かが落ちて来るのに気付いた。
──人だ。黒い髪の、女。
あまりに突然のことで、中途半端に腕を伸ばしたところに彼女は落ちてきた。予想だにしない衝撃に、落ちてくるものを受け止めきれなかった私は後ろに倒れた。
「い、痛い……」
呻きながら、落ちてきた人間は身体を起こした。
紛れもなく、自分の上に伸し掛かっているのは女だ。黒い髪をこちらに垂らし、もたげた頭を押さえている。気分が悪いのか、相当白い肌はますます白くなり、青白かった。
何故女がここにいるのか。上から降って来たのか。動転して気が回らない。
唯一はっきりしていることは、痛いのはこちらの台詞だということだった。
「お前……」
思わず呼びかけると、相手はゆっくりと私を見上げた。
黒い瞳が大きく見開き、その中に私を映している。
自分の上にいる相手の顔を初めて認識して、唖然として女を見つめた。目を疑った。信じられず、声が出なかった。
一瞬であろう見つめ合う時間がとてつもなく長い時間に感じ、時が止まったのではないかと思わせる程だった。
「ファラオ!」
切羽詰まったセテムの声が弾けた。それを合図に神殿の端に並んでいたはずの兵たちが押し寄せ、私の上に座り込んだままの女を囲んで槍先を向けた。
「何奴!奇怪な光の中からファラオを襲うとは何かの妖術か!?」
「ファラオに伸し掛かるとは何たる無礼!」
理解しがたい現象が起こり、皆がいきり立っているのが分かった。
女は兵たちにより私から引きはがされ、彼女の姿は遮られて見えなくなった。
「ファラオ!お怪我はありませぬか!」
ナルメルとセテムとカーメスが駆け寄って屈みこみ、私の安否を確かめた。
それどころではない。確認しなければならないことがあった。
「退け」
三人を押しやり、兵たちの間に割り込もうと手を伸ばした時、一人の兵が信じがたいと言わんばかりの震えた声をあげたのだ。
「……ひ、姫様」
その一言で、他の者たちが怯み上がるように槍を持っていた手の力を緩めていく。
「姫……!」
やはりだ。
見間違いではなかったのだ。
「姫様がお戻りになられたのだ!」
「まさかこれほど早く復活を遂げられるとは!」
「我々の祈りが通じたのだ!」
口々に言い合う兵たちが、女への道を開けて、私を振り返る。
座り込んだ姿の女は、見開いたままの瞳であたりを何度も見回していた。
改めて自分の上に落ちてきた女の姿を確認して、私の足は自然と立ち上がった。
「アンケセナーメン……」
名を呼んだ。呼んだだけで胸が震えた。隣でセテムとカーメスが息を呑むのが分かった。
呼ばれた相手ははっとして瞳に私を捉える。
「……戻って来てくれたのか」
興奮で声が震えた。目頭が熱くなる。
「あ……あああっ……!!!」
こちらが歩み寄ると、彼女は悲鳴をあげて後ずさった。
一度立とうと試みていたが、足が立たなかったようで座ったまま後ろに下がり続ける。私から逃げようとする。
何故、逃げるのか。
「どうした、アンケセナーメン。私だ」
「や、やだ!寄らないで!」
頭を抱え、更に近づく私を拒んだ。
「戻ってきてくれたのだな」
「だ、誰……ここ、……ここは?ここはどこなの!?」
嫌だと首を大きく横に振り、涙目で取り乱している。
「お父さんはどこ!?お母さんは!?良樹は……!!」
誰かを探すように見回し、後ずさり、やがては神殿の中央に置かれていた棺に背が当たった。その棺に追いつめるような形になる。
「アンケセナーメン」
再び呼びかけると、彼女は恐ろしいものを見るかのように私を見上げた。
「甦って来てくれたのだな」
──約束を、果たすために。
触れようと手を伸ばした途端、彼女は瞳を壊れてしまいそうなほどに大きく揺らし、割れんばかりの悲鳴をあげた後、気を失って倒れた。
「姉上!」
咄嗟に棺の横に倒れた彼女を抱き上げて、顔にかかった黒髪を払い、顔を確認する。
──ああ、間違いない。
そう悟り、腕の中の彼女を力の限り抱き締めた。




