1-4 日が落ちる前に(1)
貴賓室の扉をまた誰かが叩いた。
「――ダトゥルです。若、お目通り願いますか」
厚い木扉の外から聞こえるのは、森閑の静かさと獣の低い唸り声を混ぜたような男の声。
ユーリウスは背後のイゾールに視線だけを送る。阿吽の呼吸でイゾールは「どうぞー」と主君の代わりに間延びした返答を扉の向こう側にかけた。
足音を立てずに貴賓室へと入ってきたのは、山焼けの浅黒い肌に白い傷跡を複数刻んだ小兵の男だった。
マタギ犬のような黒く短い三角耳と太い巻き尻尾の狗人——ユーリウス直属の私兵隊隊長のダトゥルである。左頬から顎先にかけて歪な三本線を斜めに走らせた寡黙で精悍な顔は、神妙な面持ちを浮かべていた。
「珍しいな、ダトゥル殿が直接ここに来るなんて。干し肉と葡萄酒をご所望でも?」
無言のユーリウスに代わり、イゾールはいつもの調子で仕事仲間に軽口をたたいた。物静かなダトゥルは「いや……」と一言だけ返すと、高山民族特有の白橡色の瞳でイゾールに目配せをした。
力強い目を向けられたイゾールは覇気のない顔はそのまま、しかし鼠色の目の奥がわずかにギラつく。二人の間に歴戦の戦士が持つ特有の緊張感が一気に漂った。
貴賓室に背を向け立っているユーリウスにも、張り詰めた緊張感が伝播する。
鳥の翼のような黒緑の飾り袖を風にたなびかせ、緩んだ思考に浸っていた隻貌が、再び冷厳の仮面を被っていた。
主君に向け直ったダトゥルは、黒緑の背に忍び寄るように近づく。間諜から斥候、伝令から罠張りまであらゆる影の仕事を一役に引き受ける隠密部隊をまとめる元猟師の癖だ。
音もなく左うしろに立たれたユーリウスの黒茶色の狼尾は、ぴたりと制止したまま動かない。
だが————。
「東の使者からです。若に直接お渡しせよ、と」
そう言うと、ダトゥルは熊皮の肩掛けの下、兵装用に仕立てたタラカの胸元から一通の蝋封された小書簡を取り出した。
ひそりと発せられた「東の使者」という単語に、狼耳と翠の左目は、わずかな動揺を示さずにいられなかった。
輿入れの一団が到着する数刻前のこのタイミング、書簡を授受するための正式儀礼を全て排して届けられた密書、そして赤い封蝋に押された見覚えのある「冠鷲」の紋。
その紋章を使うことができるのは、この国でたった一人だけ。
(王太子からの報せだ……)
虫の知らせ、という曖昧な感性を嫌う完璧主義者の狼耳を揺らすには、充分すぎる根拠が揃っていた。
ダトゥルから受け取った小書簡の封を手早く開けたユーリウスは無言のまま、翠の左目で中身を確認した。
【六花の園の老蔓が動いた】
手のひらほどの薄漉き紙に記されたのは、たった一行。
されど、冷厳なユーリウスの細面を歪める一行だった。
***
(東……王都からの密書か?)
聞き耳を立てていたイゾールが心の中でつぶやく。
東とは王都を指し示す隠語。「東の使者」は転じて「王家の勅使」を意味していた。
ほんの少しの間を置いて、遠くまでよく通る低い真鍮の声が、珍しく焦りを帯びて貴賓室に投げられた。
「……地図をだせ、ミルエティとパニヴァ街道周辺が載っているやつだ!」
ユーリウスの差し迫った様子にイゾールとダトゥルは戸惑いながらも、その体は反射的に主君の命令に従った。机の上に居座っていた資料の類を押しのけて、古い油脂のシミが滲む羊皮紙の地図が手早く広げられる。
ユーリウスは地図に書かれた地形を、黒革手袋の指先で何かを確認するようになぞりはじめた。癖毛のなかでバタバタと動く狼耳を右となりに見るイゾールが、遠慮なしにのぞき込む。
ユーリウスの動く指先を鼠色の目が追いかけたさきで、イゾールがぼそりと呟いた。
「コマドリちゃんの輿入れの道程……?」
ユーリウスが地図の上でなぞり示した場所は、ここから山向こうにあるパニヴァ湖からミルエティまでに繋がる街道――不安要素を極力排するために関係各所と打ち合わせを重ね、道中に不備がないか何度も確認した道のりだ。
なぜいまさら? と言いたげな口ぶりをしたイゾールの前に、薄漉き紙が投げられた。
ユーリウスが投げよこした「冠鷲」が運んできたその密書に、よどみなく書かれた一文を目にしたイゾールは「げぇ」と小さく声を漏らすと、下がり眉の眉間を皺寄せて億劫そうに身構えた。反対側に控えていたダトゥルも、切れ目の入った眉を顰める。
三人の男の心中に、同じ不穏のさざ波が立った――双尾の花嫁が、狙われている。
***
王を頂きながらも、この国の諸侯貴族や有力氏族は、必ずしも王家に忠誠を誓う者たちばかりではない。とりわけラウジア王国の絶対規範であるニト聖教――その無数の信徒たちの頂点に君臨する『聖教院』の存在は大きい。
ニト聖教の戒律が深く根を下ろしたこの地では、葡萄の花を模した聖紋を掲げる聖教院の意向は、ときに王命をも凌ぐことがある。
王家の血筋を引くセヴェリ家当主と、シヴィーカ家の双尾の娘の政略結婚に対し、「神の愛子は神聖不可侵なる聖地にて奉迎さるべき」と反意を示し続けている聖教院は、いまのユーリウスにとってもっとも厄介な存在なのだ。
イゾールがこめかみをぼりぼりと掻きながら、最悪の想定をつらつらと述べはじめた。
「殿下の嗅がせてた鼻薬が切れちまったんですかね。聖教院の保守派の連中あたりかぁ? ったくもぉ、面倒だなぁ……やっぱり輿入れ御者のなかにネズミが紛れ込んでたのかぁ……確か護衛騎士に流浪騎兵を雇ってるって話でしたよね。若がちょうどいい目くらましになるからって許可したやつですよ。 あいつら金掴まされて寝返ったんじゃ。もしかしたら、定時報告にあったコマドリちゃんが体調崩して遅れるってやつも疑似餌の可能性がありますよ。だとしたらもうコマドリちゃんはすでに――」
「うるさいっ――そんな些末な詮索はあとだ。それよりも、今は輿入れの一団の位置を特定しなければ……」
刺々しくイゾールの言葉を遮った十七の声色には、ほんのわずかに焦りが滲んでいた。
些末と言い放ったその口元は、苦虫を潰したように歪む。その先を口にしてしまえば、本当になるような気がしたのだ。
「若。朝方の定時連絡は、パニヴァ湖の手前のフォタ砦から飛ばされてます。日没後にミルエティへ到着することを逆算した場合は、今はちょうど湖の真ん中あたりを進んでいるはず……しかし、もし連絡が偽装だと仮定して、予定通りに進行しているとすれば……街道の西側、おおよそこのあたり。ここ数日は雨も降ってませんから、進行が遅れているという可能性は低いかと」
「……あららぁ……こりゃまた、据え膳だな」
ダトゥルの浅黒のずんぐりした人差し指が地図のある一点を指した。そこはパニヴァ湖を抜ける手前でぽつんと茂った孤立林のある場所。イゾールが「据え膳」と揶揄したように、そこは獲物を追い込むにはうってつけの狩り場のような地だった。
その場所を指し示された時、ユーリウスはチッと大きく舌を打った。
シヴィーカ家の輿入れの一団が渡ってくる道は、船渡りや峠越えをなるべく避けた遠回りの道程で組まれているために、いくつかの領地を跨ぐ形となっている。街道の安全の担保を得るためには、まず沿道一帯を治める主を手懐ける必要があった。
これ幸いに日和見の領主ばかりだったので、ユーリウスは金と情報を使って「輿入れのことは誰にも漏らすな」と彼らに釘を刺していたのだ。万が一にも、横槍が入らないように。
ダトゥルが指さした場所。その地を管轄する領主の下品な笑みが思い出される。いやしくも金銭の増額を求めてきたのは、ヒキガエルのような顔をしたあの狗人の醜男だけだ。
「予想通りの裏切り」が平然と行われた。だからこそ、余計に腹立たしい。
(領主どもを黙らせたつもりだったが……やはりこうなるのか)
黒革手袋がぎちぎちと擦れ音を鳴らす。ミルエティ要塞からは目と鼻の先。しかし、今すぐ駆け付けるには些か遠い。そのわずかな距離が、今は酷く恨めしい。
固く握った拳を机上へ叩きつけたくなる衝動に駆られた。
(落ち着け……昼の鐘が鳴ってからそこまで時間は経ってない。今から出発すれば少なくとも日没前には向こうと合流できるはずだ……)
積み木を崩されて癇癪を起こす年頃でもないと、ユーリウスは短く息を吐き、そして握りこぶしを解きながら、努めて冷静に傍らに控える部下たちへ指示を出した。
「イゾール、ダトゥル、すぐに先遣隊を出すぞ。早急にシヴィーカ家と合流し、コマドリを確保する。連れてきたセヴェリの兵を二つに分け、残りは要塞に待機。なるべく足の速い峰角馬を用意するんだ。それから、ジュタの馬装も整えさせろ。一刻の内にはここを出発する」
「え、ジュタのもですか? まさか若も行くおつもりで?」
主君を横目に見ていたイゾールが、目を見開いて素っ頓狂な声を上げた。
「二度言わせるな」と言い含んだ視線を眼帯越しにイゾールへ向けたユーリウスは、何か言いたげな副官と私兵隊長を無視したまま、くるりと身をひるがえした。
短剣と馬鞭を吊り下げた革ベルトを取り外しながら、その足は貴賓室の奥に向かう。そこにはユーリウスの兵装用の装備や曲剣が石壁の上に整然と掛けられていた。
投げるようにベルト一式をフックに掛けたユーリウスは、今度はタラカの飾り袖から自身の両の腕を引き抜く。黒緑の布が捲れ、婚礼用のタラカはそのまま床へと落ちていく。黒い長袖がピタリと張り付いた、無駄がなくまだ厚みの備わりきっていない背中が現れた。
床に落ちたタラカを、足先で雑に払いのけたユーリウスは、ひとり慣れた手つきで淡々と兵装備を身に付けはじめた。
長袖ガウンの裾の切れ目から覗くユーリウスの尻尾は、まるで鞭のようにバシンっと叩き揺れていた。
筆頭副官と私兵隊長はなかば呆れた様子で目を見合わせ、そして互いに軽く息をつく。イゾールはこめかみを掻きながら、ため息交じりに口を開いた。
「こうなったら若は岩ガニみたいに動かねえからなぁ……しゃあない。先遣隊には俺が同行する。ダトゥル殿、隊の人選と編成は任せていいか? 十……いや、十五は欲しいな」
「わかった……内訳はどうする?」
「念のために備えて、騎兵部隊の連中を中心に隊を組もう。あんたんとこの私兵部隊からもいくらかこっちに回してくれ。俺は要塞長と教院……あと諸々に今回の件を伝えてくる。あぁそれと、念のため残りの兵たちにも武装を整えさせて、すぐに動けるようにしといてくれ。何かあればすぐ早馬を飛ばす」
気だるげに矢継ぎ早の提案を終えたイゾールの「ご異存は?」という問いかけに、ダトゥルは無言で首を振って答えた。
短剣よりも羽ペンを持っていることのほうが多い筆頭副官に、主君の共を任せることに不満はない。ただ狩場ではなにが起こるかわからないのが世の常だ。
「……あまり無茶はするなよ、副官殿」
気休めの言葉と共に、子鹿色のタラカの肩に武骨な浅黒の左手が乗る。
羊毛越しに鋼の硬さに気づいたダトゥルは、一文字に結ばれた口角をわずかに上に傾け、そして無言のまま熊皮の肩掛けを静かに翻して小走りで貴賓室から出ていった。
寡黙な男の真意を測りかねたイゾールは、下がり眉の眉尻を曲げた。
「いやそれ、できればあの若イノシシに言って欲しいんだけど……ま、せいぜい死なせないようにおもりをさせてもらいますよってあいたぁ! ……いててっ……おでこに……あ、穴がぁ……っ」
イゾールの悲鳴のすぐそばで、黒ブーツを覆う脛布の留め具を固定するために身を屈めていたユーリウスがすくっと立ち上がった。
すでにそこにいない私兵隊長への軽妙な返しは、若イノシシの耳にもしっかり届いていたようで、失礼な物言いに対する罰と言わんばかりに、馬鞭の柄の底がイゾールの額めがけて矢のように飛び、そして広い額の中心に突き当たったのだ。
涙目で額を押さえているイゾールを、すでに身支度を終えたユーリウスが翠の目で冷ややかに見る。儀礼用のタラカと同じ黒緑色の兵装衣は、黒錆色の染みが星のように無数に散りばめられ、ところどころ綻びが継ぎ接ぎされていた。
ユーリウスは石壁に掛けられた無染の羊革と重厚な銀細工の鞘に包まれた曲剣を手に取り、その鞘を剣帯の吊り具に器用に通しながら、イゾールに鞭より鋭い声色を浴びせた。
「僕はのろまが嫌いなんだ。お前もさっさと支度を済ませろ、でないと置いていくぞ」
白い脛布に覆われたブーツがドタドタと床を踏み鳴らして貴賓室の重厚な扉へ向かった。
「……双尾の娘を、奪われるわけにはいかないんだ」
ユーリウスは一度も振り返らず、貴賓室の外へと出ていった。吐き捨てるように呟いた最後の言葉は、荒々しく叩きつけた扉の音にかき消され、イゾールのボタン耳には届かなかった。
ひとり部屋に残されたイゾールは、「やれやれ」とため息をついて足元に落ちている主君の馬鞭を拾いあげる。馬鞭をクルクルと器用に操りながら、去り際に見た落ち着きなく揺れる黒茶色の尻尾を思い出すと、うだつの上がらない顔は自然と苦笑を浮かべていた。
丹田の位置に居座る短剣を片手で触りながら、年若者の青さへの羨望と庇護が織り交ざった皮肉を込めて、中年者のアヒル口が小さくボヤく。
「若いねぇ……」
私兵部隊:ユーリウス直属の隠密機動部隊。そのほとんどは高山民族出身者、身寄りのない者、元奴隷、流浪騎兵、異邦人などの賎民や浪人で構成されている。正式に設立されてからまだ2年ほどしか経過していない新参部隊。




