1-3 隻貌の花婿(1)
ラウジア王国の王都ティフルツクから西に進み、馬で半日ほどかかる山峡の平野にミルエティはある。
南北を横断する大街道に近く、東西の内海に繋がる二大河川が交差するこの王太子直轄領は、大昔から様々な物や人々が行き交う交易の要衝地であり、現在でもラウジア王国有数の殷賑の地として栄えていた。
その地の優位性ゆえ、過去幾度も政争により発生した戦火に巻きこまれ、灰と瓦礫の山を築いてきた係争地でもあるが、その度に不死鳥の如く蘇り復興を遂げるという不撓不屈の歴史を辿ってきた土地でもある。
そして、現在——花と葡萄酒の芳醇な甘みが香るミルエティの中心地は、赤い素焼きの粘土瓦が浅緑の山野によく映える美しい街であった。
二つの大きな川の合流点に近い小高い丘の上に座する、荘厳な十字円筒様式のケダデュリ教院。女神への祈りと崇敬を捧げる聖堂を中心に、扇状に広がり連なる石造りの平屋と素焼き屋根の二階屋。街の間を四方八方に伸びる、丸く削られた砂岩の石畳が敷かれた路地の上を、大勢の老若男女が行き交っていた。
***
教院の鐘が正午の礼拝を知らせてから、一刻が過ぎていた。
露店や屋台が隙間なく並ぶ街の大通りは、大勢の人や物でごった返している。
大きな麻袋を載せたロバを引いて歩く狗人の老人、宴用の葡萄酒壺を買い求める下働きの獅人の男、夕食のパンを焼いてもらおうと共用の焼き窯に集い始める女たち。
日々の営みを生きるタラカやサラカを着た現地人たちに混じり、携行保存食を買い込む旅人や、鉱石売りの店主に東の公国や西方の地で採掘された宝石を持ち込む異国の商人、そしてボロ衣を着たニト聖教の修道者や身なりのいい貴族や豪商も繁華の波の中で揺れていた。
果実とパンの香りのする大通りから一本外れた路地に入ると、そこは鉄や硝煙、芳香が溶け合った鼻腔の奥を突き刺すような匂いが充満し、一変していかがわしい雰囲気を漂わせている。春を売る女たちや柄の悪い男たちが互いの尻尾を艶めかしく絡めあい、荒くれ者が集う酒場では血気盛んな若者たちが殴り合いの乱闘をはじめ、素焼きの酒器の割れる音が響いていた。
そんな玉石混交の活況を見せる中心街も、今日はとくに人手が多かった。人混みのなかには、兵装衣を着た兵士たちが睨みを利かせながら巡回している。それを見た若い男が、長い尻尾を左右に揺らして店主に話しかけた。
「今日はいつにも増して巡回の兵士が多いね。なにかあったのおっちゃん?」
「ああ、他所のお偉いさんがミルエティに来てるんだと。たしかセヴェリの旗指物を見たって、誰かが騒いでたな。噂じゃあ、あの「翠嶺公」が要塞に来てるらしい」
「スイレイコウ……ってもしかして、あのグレベトの領主さまか! 家を継いでから北の領地のほうにずっと引きこもってるって聞いてたけど、こんなとこまで出てくるなんて、珍しいこともあるもんだ。 おっちゃん、なんか知ってる?」
「さあな、知りたくもないね。あんな殺気立った連中にうろつかれてたら、こちとら商売あがったりだ。用事がすんだらさっさと帰ってほしいぐらいだよ。お前も冷やかしならどっかいけ、邪魔だ! ……おおっと、お客さん。待たせて悪いね、はいよ、チューツだ」
冷やかしを追い出した厳つい風貌の店主は、営業用の微笑みと一緒に、数珠つなぎにしたナッツと果物を煮詰めた果汁汁に浸して固めた保存用の甘い菓子が入った包みを、後ろに並んでいた客の男に手渡す。
ボタン耳の生えた象牙色の短い髪の掻きながら、男はものぐさそうにそれを受け取った。
「——あんがとさん。こりゃうまそうだ。コマドリちゃんも喜んでくれるかな」
その言葉に気を良くしたのか、代金を受け取った店主は、「じゃあこれはおまけしておくぜ、娘さんと食べな」ともう一本チューツを差し出した。客の男は苦笑いを浮かべて、その好意をありがたく受け取って店を去る。景気の良い「まいどあり!」という大声に、男は耳を傾けながら、振り返ることはなかった。
(俺、まだ独り身なんだけどなぁ。まあ、商売人としては、いいオヤジなんだろうけど)
ボタン耳の狗人——イゾール・カシュリは、少々しょっぱい複雑な胸中を抱きながら、人混みの中をのそのそとした足取りで通り抜けていく。
子鹿色のタラカの前裾から覗く長袖ガウンの前ボタンを二つほどだらしなく外し、どこかうだつの上がらなさそうな男の両腕は、生まれたばかりの仔ムタルカほどの大きさをした麻袋を抱えていた。
「はぁぁ……ったくオリナの奴、人使いが荒いったらもぉ〜……買い出しぐらい若いやつらに頼めばいいのに。俺が一番暇そうにしてるって言いがかりつけてさぁ。俺、一応筆頭副官なんだけどなぁ。全然暇じゃないのになぁ。うぅ、腕が疲れる……」
アヒルのように両端が少し上がった口から、ため息と共にひとりボヤキが溢れる。タラカの尾孔から伸びる象牙色の中太な尻尾が気怠そうに揺れた。
イゾールが抱える麻袋の中には、数日分の携帯食料と防寒用品がパンパンに詰まっている。ここしばらく、荒事から離れて体がなまってしまった元騎士の事務方には、やや重く感じる量であった。
「よいしょっと……あと買い忘れはないよな? 一個でも忘れてたら、あの氷の侍女長にお小言言われるからな。ええっと……」
イゾールは麻袋を器用に片手で持ち直すと、細い黒革ベルトから下げた腰巾着を探り、ふたつに折りたたまれた紙片を取り出す。紙につらつらと書かれた買い物リストを死んだ魚のような目で順繰り確認していく。
ひとつでも漏れがあれば、氷の侍女長——オリナから氷柱より鋭い小言と地味に痛い脛蹴りを浴びせられるのは必定。オリナに思いを寄せているらしい同僚から、嫉妬混じりに羨ましがられる痛い薫陶は、物好きではない筆頭副官には嬉しくないご褒美だ。
買い忘れがないことを確認したイゾールは、紙片を戻して麻袋を抱え直すと、活況を呈する大通りの人波を器用にすり抜けていく。途中、豊満な肢体にぴったり吸いつく色とりどりのサラカを着た美しい女たちが、イゾールに声をかけてきた。
「そこの旦那! ずいぶん重そうな荷物を抱えてるじゃないか。よかったらうちで少し休んでいきなよ」
「そーそ、退屈はさせないし、ぼったくったりもしないから安心して遊べるわよ~?」
路地の片隅で客引きをする薫風のような明るさを感じさせる女たちは、めいめいに着飾った耳と尻尾を楽しげに揺らしながら手招きする。
足を止めたイゾールは、下がり眉毛をほんの少し傾けた困り笑みを浮かべ、寝癖にも似た無造作に毛先がハネた短髪を左手で軽く搔きながら、その魅惑的な誘いを断った。
「悪いね、今日はやめとくよ。可愛いコマドリちゃんの帰りを家で待たないといけないもんでね。あとサボりがバレたら、おっかないご主人様からお仕置きされちまう」
何かを思い出したかのようにボタン耳をぶるりと震わせながら、イゾールはその場を走り去った。
「あら残念ね」と蝶のように大きな耳を伏せた狗人の女が紅唇を尖らせつつ、憐れんだような笑みでイゾールを見送る。隣に居たブチ模様のある三角耳の獅人の若い女は、瓜のような胸を寄せて腕組みしながらひそひそとイゾールへの悪口をこぼした。
「いかにも銭なしって風貌じゃない。絶対にどっかの成金の下働きでしょ。なんであんな間抜けそうな男に声掛けたのよ?」
数日前に田舎からミルエティにやってきた若い女の言葉に、妙齢の女はクスクスと意味ありげな含み笑いを漏らす。大きな目を細めながらその疑問に答えた。
「腰から下げてたあの短剣、見てなかったの? あれはそんじょそこらの下働きが持っていていいものじゃない誂え物よ。おおかた、どこかのお偉い様に仕えてる騎士さまか相応の身分の殿方、てところかしらね……ほら」
細長い指が指した方向を訝しみながら見た若い女は、目を丸くして「あ」と短く声を漏らした。
自分が銭無しとけなした男の足は、通りの先を塞ぐようにアーチ状に積まれた石壁へと向かっていた。
そこは、限られた者しか入ることが許されない厳重に警備された関所——その先の道は、中心街から少し外れた小高い場所に厳然とそびえる鳶色のミルエティ要塞へと続いている。
強面の番兵に片手を上げて軽く言葉を交わした後、堅牢な造りの門扉が開かれると、イゾールの猫背気味な背中は、鉄扉の向こう側へ消えていった。
***
ケダデュリ教院と相対する場所に建てられたミルエティ要塞の周辺は、中心街の賑やかな喧騒とは打って変わって、静かで少し冷たい空気感に満ちている。
春の陽光に照らされ、一見平穏そうに佇む鳶色の要塞は、辺りを見張る兵士たちの警戒心によって作り出された緊張感という空気に包まれていた。
四方にそびえる石造りの高い塔は、河川や街道を往来する人や船を遠くから俯瞰できる。それは、外敵の侵入や領内で火の手の上がった場所をいち早く察知し、同時に高い場所から敵を攻撃できる防衛機構として設計されたものである。
度重なる戦火の傷を負った土地を新たな火種から守るため、まるで大きな鳶が翼を広げて地上に目を光らせているかのような堅牢の砦は、ラウジアの王が全盛の時代に築いた数多の要塞のひとつであった。
細やかな装飾模様の彫られた調度品が置かれ、幾何学模様の質のいい絨毯が敷かれている貴賓室。
木戸が開けられ、昼光が差し込む大きな窓のそばで、婚礼用に仕立てた黒緑のタラカの飾り袖の銀糸が、陽光を跳ね返してキラキラと光る。
街並みを一望できると気を利かせた要塞長に案内された一室に居を構える男がいた。
黒茶色の癖毛から狼耳を切り立たせる狗人の青年——ユーリウスは、その窓辺でひとり静かに、丸椅子に浅く腰かける。足元を覆う黒革ブーツがぴたりと張り付く、ほどよく引き締まった右脚の脹脛を左の膝上に乗せた、あまり行儀がよろしくない粗忽者の座り方をしながら。
口うるさい侍女から「はしたない」と注意されるその姿勢を、ユーリウスは好んで取っていた。それでも、幼い頃から叩き込まれた育ちの良さは隠しきれていない。
少し吊り上がった切れ長の目に、翡翠石を彷彿とさせる透き通った瞳を嵌め込んだ端正な顔立ちが、否応なしに高貴さを物語る。
「翠嶺公」の所以たる貴公子然とした秀麗な眼差しは、しかし同時に右顔の半分を黒革の眼帯で覆った隻貌の痛々しさを、より一層際立たせていた。
黒い革手袋の手元にある何枚かの書状に目を落とす横顔は、少年から大人への過渡期を迎えた精悍な輪郭を描く。北方の有力氏族を統率し辺境防衛を担うセヴェリ家当主の重責が、齢十七の顔つきに滲んでいた。
そして「不機嫌が服を着て歩いてる」と家人から不躾な軽口を叩かれることもある気品ある凛然とした風貌は、やはり不機嫌の気迫を全身から醸し出していた。
開けられた窓から春風がそよぐと、肩まで伸びた襟足をひとつ結びにしたうねりのある癖毛がふわふわと揺れた。頬に沿って伸びた長いもみあげの毛先がちくちくと肌に刺さるのを鬱陶しく感じたユーリウスは、窓の外へと翠色の左目を向ける。
百花と葡萄酒の楽天地。
誰が最初に呼んだか分からない王太子領のふたつ名を体現するように、ミルエティの街はどこもかしこ芳しい甘い香りが立ち込めている。その匂いは町外れにある要塞にまで届いていた。
窯の煙があちこちから立ち上る中心街を見下ろしながら、ユーリウスは眉間に深い皺を寄せた。
(……やはり、この街の匂いは慣れない……)
兄の気遣いを断って中心街の館からわざわざ郊外の要塞に滞在先を変更したのも、この甘すぎる芳香のせいだった。北の地の土草と河川の冷たい匂いに馴れた青年の鼻には、些か刺激が強すぎたのだ。
風に乗って運ばれてきた甘ったるい匂いが鼻腔をかすめると、眼帯の下の火傷痕がぞわぞわと疼く。掻きむしりたくなる不快感に、ユーリウスは「チッ」と舌を鳴らした。
昼光を取り入れるために開けた窓扉を閉めて、燭台に灯りをつけようかとふと考えが浮かぶ——だが、「蝋の無駄遣い」という一語にかき消された。
ユーリウスは大きなため息をついて、再び手に持った書状へ視線を戻した。つむじから逆立つようにピンと立った後れ毛が風に揺れる。
——貴賓室の木扉が数度叩かれた。
扉の向こうで入室の許可を乞っている聞き馴染みのある声に、ユーリウスは狼耳だけをわずかに傾けたまま答える。
「入れ」
「失礼しまーす」
緊張感のないのんびりした足取りで貴賓室に入ってきたのは、シャツの前ボタンを上まで閉めた筆頭副官のイゾールだった。
先ほどまで大きな麻袋を抱えていた手には、今は数本の巻き羊皮紙と紐で縛られた紙の束が握られている。侍女長のお使いを終えたあと、休む暇もなくセヴェリ家の若領主を補佐する本来の職務に戻ったイゾールは、変わらず締まりのない顔をしながらも、あちこち駆け回ったせいか無精髭がぼちぼち生えた顔にはわずかに疲労感が浮かんでいた。
イゾールが傍近くに寄ってくると、ユーリウスは形の良い鼻をひくつかせ、露骨に顔を顰めた。
「……くさい」
「えぇっ、開口一番それですか?」
翠の瞳で鋭く射抜かれながら、イゾールは主の言葉に戸惑いの声をあげる。
手に持った仕事道具を机の上にどさりと置き、袖口に鼻をあててクンクンと嗅ぐ。微かに甘い香りを感じた。
「ああ……さっき街に降りてたので、服についちゃったかもしれないですね。でもそんなヒドい匂いですか? 魚臭いのよりマシだと思いますけどねぇ。若もこんなカビ臭いところに引きこもってないで、街で遊べばいいのに。そうしたら匂いにもすぐに慣れますって……て痛っ!」
イゾールの情けない悲鳴が部屋の中に響き渡った。ユーリウスの黒いブーツのつま先が、無礼な物言いをした腹心の男の向こう脛をガンッと蹴ったのだ。
狼耳をぴくつかせながら無駄のない稜線を描いた長い脚を組み直したユーリウスは、丸椅子に腰掛けたまま、痛みに悶えしゃがみ込むイゾールを険しい態度で見下ろす。
カワセミの地鳴きを思わせる遠くまでよく通るような真鍮の低い声で、淡々と冷たく、しかし質量のある尖った言葉を浴びせた。
「僕は引きこもってるんじゃない、あらゆる事態に備えて待機してるんだ。今すぐ愚昧な勘違いを正さないと、その枯れ草頭と尻尾の毛を丸刈りにしてやるからな」
「ひぇ、ま、丸刈りだけは勘弁してください……」
ユーリウスが「やると言えばやる男」だということを知っているイゾールは、年下の主君の無慈悲な忠告を聞いて、頭と尻を守るように手で覆った。
フン、と短く鼻を鳴らしたユーリウスは、わざとらしくプルプル震えるイゾールから目を離し、手元にある書状を読み進め始めた。
——時に畏敬を込めて「塞王」と呼ばれる父王が築いた砦に、末息子のユーリウス=エイデル・メクート・トゥリアダド・セヴェリは、不本意ながら数日前からの滞在を余儀なくされていた。
滞在目的はただ一つ。顔も声も知らない、七つも年下の妻を迎えるため。
互いの家格は申し分なく、両家が得られる利益は大きい。年の差は些事と片付けられ、本人たちの意思は駒同然に扱われる――いわゆる政略結婚。
しかし、普通の政略結婚ではなかった。
彼がこれから娶る少女は、あるいは神の御子と敬われ、あるいは呪われた娘と蔑まれた、奇妙な存在。
双尾の花嫁——エルルカという娘の名を、ユーリウスはわざと記憶の戸棚の奥底に閉じ込めている。




