1-2 パニヴァ湖の葬列
【星環歴 一五四〇年 三月】
萌鹿の月。東の空に、麦乙女の星がひときわ輝く頃。
険峻連なるラウジア王国の、長く、厳しい冬が明け始めた。
冷たい空気に覆われていた山麓は、雪解け水と温かな日差しを糧にして芽吹いた新緑の命に覆われる。朝露がきらめく緑の野には、春の息吹の気配を人々に知らせる純白の待雪草が咲き誇っていた。
待ちに待った春の到来。寒さで凍てついた尻尾をうんっと振り乱して、人々は動き始める。市井の民は来たる種まきの時節のために土を耕し、貴族たちは春を祝う宴会に必要な上等な葡萄酒をかき集め、聖職者たちは女神降誕の祝祭を催すために身を清める。そこに貴賤の別はなく、地上に生きる人の子は、春の朗らかな陽気に浸る暇もなく働いていた。
白い鐘の春の知らせを聞いて動き出したのは、山野の生きるケモノたちも同じであった。
まっすぐ切り立った二本の立派な角を持つ野生の峰角馬の群れが、山岳から降りてきている。放牧された家畜用の羊に山羊や牛、そして使役用の峰角馬たちに交じり、冬越しにようやくありつけたご馳走と言わんばかり山肌に生えた柔らかい新芽をともに食んでいた。食事中のかれらの背では、巣作りの材料にするため、鳥たちがふさふさの冬毛を厚かましくむしり取っていた。
そんなありふれた光景があちこちの放牧地で見られる、先触れの春の頃合いだった。
***
ラウジアの西東にある森の中。
春風と共に薄氷が溶けた広大なパニヴァ湖に沿って伸びる街道を、仰々しく、しかし奇妙な馬車行列が隊列を組んで静々と進んでいる。
行列の先頭と殿、そしてシヴィーカ家の象徴である花と矢の紋章が描かれた豪奢な白い馬車の近くには、軍用のムタルカに跨って弓なりに沿った曲剣を携える数十人の護衛の騎士たちが隊列を組んで付き従っている。馬車の後ろをついて行く頑丈な荷車には、「高貴な身分の者の所有物」であることが、一目で分かるような華美な装飾の長持ちがいくつも積み重ねられていた。
四方を固める騎士たちは、春先の寒さを凌ぐ防寒用の肩衣を羽織り、そしてタラカと呼ばれるラウジアの伝統的な男物の外套を身にまとう。ゆとりのある広口の袖、引き絞られた胴回り、三角錐を逆さにしたような前襟と緩やかに広がる膝上までの裾が特徴的な外形。その下には羊毛の長袖ガウンと鎖帷子などを重ね着し、騎乗での戦いに特化した騎馬民族らしい軽中装の装備で揃えられている。
だが、忠勤の臣を示す光沢を帯びた銀製兜を被った先頭の数人を除けば、あとは皆統一感のない粗野な兵装をしていた。
タラカの胸元にある火銃用の火薬筒を収納する筒状のポケットがある者といない者とでバラつきがあり、ツギハギだらけの生地は、煤や泥の汚れに混じり黒ずんだ赤褐色の染みが所々目立っている。腰に巻かれた革ベルトはヒビ割れが目立ち、ぶら下げている年季が入った得物は誂え物とは言い難い代物。
端から見れば、まるで"盗賊に生け捕られ連行されている"ような光景だ。
そんな変わった花嫁行列の最後方にいる軽薄そうな三角耳の狗人の騎士が、隣で轡を並べる丸耳の無精髭の獅人の仲間にひそひそと話しかけた。
「これが王侯貴族の花嫁行列とはなぁ……。楽器隊の演奏もなし、貴族のご令嬢の付き添いもなし、花婿側の迎えもなし。まるで、葬列だな。イカれた先代のせいで仕えてた軍閥氏族たちが大勢離れたって聞いてたが……へへっ、俺らみたいな流浪騎兵を護衛騎士にしちまうなんて、ニルサスの名族シヴィーカ家も、これじゃあ形無しだな」
「おい。……まぁ、仕方ないだろう。これから嫁入りする娘は、先代の……あの死んだ狂領主様の呪われた娘だ。兄君の遺したお荷物を厄介払いできるついで、貴族の体裁を繕って最低限の婚礼行列をやってるのさ。最初はシモン様の奥方が婚礼行事を嫌がって、娘を簀巻きにして早馬に括り付けて嫁ぎ先に送ってしまえと騒いだらしいぞ」
「ひぃ~おっかねぇ」……とわざとらしく身震いする三角耳の狗人のごわついた尻尾は、びゅんびゅんっと左右に振れていた。下賤の血が流れる一介の傭兵にとって、上流階級の人間たちの醜い内輪揉めは、どんな美味な葡萄酒よりも舌を喜ばせた。
西方伝来の蔓草模様とラウジア伝統の幾何学模様が満遍なく刻まれた悪趣味な白い馬車。その後ろをついて行く持参金や嫁入り道具がたんまり詰まっているであろう長持ちをこれ見よがしに積んである荷車。ベールで顔を隠した亡霊のような灰色の小さな花嫁と、感情的な態度を隠そうともしない小綺麗なサラカを纏った高慢ちきな侍女。王侯貴族に仕える正規の騎兵に交じって、大多数の粗野な出で立ちの騎士崩れが、虚飾まみれの婚礼行列を隊列を組んで囲っている。
あまりに歪でひどく滑稽な状況に、三角耳の狗人の男はニヤけ顔が止まらなかった。
対して横にいる無精髭の同僚は、顰め面をしたままあたりへの警戒を怠らない。丸耳をじっと立てて、時々音のしたほうに耳が向けられる。生真面目さからくる警戒心ではない。身分を偽って騎士の真似事をしている丸耳の獅人の男は、「見えない不吉な何か」に終始怯えているようであった。
そんな仲間の様子など気にせず、三角耳の男はお喋りを続ける。
「呪われた娘って言えばよ、あの噂、本当だと思うか?」
「……噂?」
「ほら、女神のなんたらって……尻尾が二本も生えてる"双尾さま"ってやつ。あの娘がそうなんじゃないかって」
無精髭の男は、短く切られた尾をぶるりっと震わせた。
「くだらない噂だ……本当に双尾様なら、聖教院が黙っちゃいない。囲っていただけでも大問題なのに、政略結婚の花嫁に差し出すなんてこと、なおさら許すはずないだろ」
「たしかに。伝統に口うるさい古ぼけじいさんたちなら、嫁入り前にかっさらっちまうよな、ハハッ」
仲間の乾いた笑いを獅人の丸耳は聞き流す。
煤けた兵装服の下にある、首から下げた胡桃の聖尾架。無精髭の男は無意識に黒ずんだ手をそこに置いた。
(……あれは、見間違いだったと思いたいが……)
昨夜の記憶が呼び起こされる。それは、街道の中継地点で立ち寄ったフォタ砦でのことだった。
夜間の見回りの最中、人気の少ない砦の裏口の近くを通りかかると伝書鷹の世話をしている仲間の一人が、裏口の扉の前でシヴィーカ家の侍女と揉めていた。
幼い主君よりも偉そうに威張り散らしている赤茶耳の侍女の癇癪が、また始まった程度にしか思わなかった男は、巻き込まれないように気配を消して丸耳をそばだててた。
ほんの数度の問答の末だったろう。
「花嫁が一筆添えたいと申しているのだから」と、半ば強引に仲間の手から定時連絡用の紙を入れるための鷹筒を取り上げた侍女は砦の中へ消えていった。
その一連の様子を(花嫁のためにご苦労なことだ)と特に気にもとめず、男は見回りを続けた。
その少し後のことであった。
おそらく、侍女が側におらず、ひとりでこっそり用足しにでも行っていたのだろう。頭から足元まですっぽりとローブで隠した寝間着姿の花嫁が、車室の中に入ろうとしている所を見かけた、その時だった。
男は偶然にソレを見てしまった。
馬車の階段を踏み外した花嫁が体をよろめかせた。その瞬間――ローブからにょろりと這い出た、空色の二本の尻尾。
思わず声が出そうになった。
荒唐無稽だと思っていたあの噂が、事実だったのだ。
ラウジア王国の南西に位置するニルサス領。名族シヴィーカ家が領主を務めるその一帯に住む者ならだれもが知る、恐ろしい話が二つある。
ひとつは、「狂領主」の悪名を轟かせた先代領主オベロス・シヴィーカが、「黒い森」と呼ばれる幽谷深山の石の塔に囲い込み、狂気的な愛情を注いだ妾腹の娘の存在。関わった者が次々と悲運な末路を辿ると囁かれる狂領主の呪われた娘。
そして、ここ一年の間に広まったひとつの噂——その娘は、二本の尻尾が生えた「双尾様」ではないか――。
呪われた娘と忌み嫌われていた少女が、「女神の祝福」と崇拝される特別な存在であり、あまつさえ一介の領主が約十年間独占して囲っていたという事実。
それはニト聖教の「規範」が人々の生活に深く根付いたこの国において「大罪」に等しいおぞましい背教行為。
絶対規範であった聖教院の求心力は時代と共に薄れつつあっても、毎日の礼拝を欠かさない敬虔な信徒は今だ多く存在する。
金と寝床のために山野を駆ける根無し草の流浪騎兵たちでさえ大小問わず女神ニトへの崇敬と祈りを捧げているのだ。
そのうちの一人――数多の修羅場を潜り抜けてきたと自負する無精髭の男は、険しい表情のまま「双尾の花嫁」が乗っている馬車を睨んだ。
(あの馬車に乗っているのが本当に双尾様なら……貴族共は神の寵子を政の道具に利用したということだ。だとしたら、罰当たりにも程がある)
聖典の一節が頭によぎった。
【双尾の子よ、天地に住まう者たちへ祝福を与えたまえ。その身はただひとりのものにあらず】
ただの訳アリな貴族の娘の護衛なら、淡々と粛々と任務をこなしていただろう。決して私情を挟むことなどなかった。
だが、あの夜に見てしまった二本の尾——「ひとりのものにあらず」と記された双尾の娘が護衛対象と知った時、男は「禁忌を犯した罰」が与えられるのではないか、という得も言われぬ不安に襲われた。その瞬間から獅人の丸耳は、小さな物音や気配にも反応するようになっていた。
ムタルカの手綱を握る手にもいらぬ力が入りそうになるのを堪えるように、聖尾架に当てていた手を腰元の冷たい短剣に触れさせる。
戦士としての冷静さを取り戻そうとした時、隣の軽薄な三角耳の狗人の男のとぼけた調子のお喋りが水を差してきた。
「なあ、受け渡し場所って、このパニヴァ湖を越えた先にあるミルエティだったよな?」
「あ? ……ああ、そうだ。この調子なら、予定通り日没前には街に到着できるはずだ」
向こう岸が見えないパニヴァ湖に目線をうつした三角耳の男がだるそうに口を開いた。
「あと一息ってとこか~……無駄にでかいんだよな、この湖。なんでわざわざミルエティを受け渡し場所にしたんだ? 東側に遠回りしてるじゃねえか」
三角耳の男の疑問はもっともであった。
輿入れをするグレベト領ははるか北の地。今回のパニヴァ湖を通過して東に位置するミルエティへと向かう経路は、道中の起伏が少ない分、一番遠回りで時間を要する道程であった。
出発前の打ち合わせで詳しい説明はあった。だが軽薄な男は「ミルエティで女を買おう」と、たんまり貰った前金の使い道について頭が一杯で、騎士然とした隊長の話をほとんど聞いていなかったのだ。
無精髭の男は呆れたように仲間の問いかけに答える。
「お前、本当になにも聞いていないな。花婿の……セヴェリ家のご指名だって、隊長が言ってただろ。今回の婚姻は色々と訳ありで、花嫁の御身に傷ひとつついちゃいかんから、然るべき場所で受け取るってお達しがあったんだよ。そこがミルエティだって話だ。それに……」
一呼吸おくと、内緒話をするように言葉が続いた。
「……ミルエティは、花婿の兄君である王太子の直轄領だ。王太子とバチバチにやりあってる王統派の貴族や聖教院のお偉方も横槍を入れづらい緩衝地帯ってやつさ……あの兄弟も、四方に敵が多い身だからな。あのグレベト領主さまの婚礼行事がこんなに地味なのも、大事にできない事情がおありなんだろう……」
「琥珀殿下」——燦爛なふたつ名で呼ばれたこの国の王太子と、花婿となる「弟」——この国で知らぬ者はいない、呪われた王の息子たちの話題に食いついた狗人の男は、愉快そうにその舌を動かした。
「ああ、そうだったな。でもよ、弟の結婚相手の受け渡し場所に、わざわざお膝元の領地を貸してやるなんて、セヴェリの焼け爛れも琥珀殿下からどんだけ溺愛されてんだって感じだよな。へへっ……」
(その無礼な悪口、絶対にセヴェリ家の連中の前で言うなよ。俺たちまで舌を切り落とされる――――いや、言っても無駄か)無精髭の男は忠告の言葉を飲み込み、丸耳を伏せて咎めるような視線を送った。
「けど、こんなノロノロ街道歩いてちゃ、花嫁様も俺らもさすが疲れちまうぜ。峠道を使ったほうがずっと早く着くだろうによ。馬車使いたきゃ、ハルジュル川を王都まで船で渡って大街道を北上しても、そっちのほうが安全で今よりだいぶ楽できるのになぁ」
「船や崖から転落して万が一……てことがないように、シモン様が気を遣ってこの遠回り道になさったんだよ。それくらい大事な政略結婚ってことだ。おまえもいい加減文句を垂れるな」
同僚にきつい口調で注意された三角耳の男は、「へいへい」と悪童顔で答えてそのおしゃべり口をつぐみ、ムタルカの手綱を握りなおした。
悪評蔓延るシヴィーカ家に最後まで付き従った軍閥氏族の騎士たちと流浪騎兵の男たちは、花婿が待つミルエティへ向けてムタルカの歩みを止めることなくぬかるむ街道を進んでいく。
貴族の娘を目的地まで送り届けるだけの何の変哲もない容易な護衛任務だと——誰もがそう思っていた。
ただひとりを除いて。
雲ひとつない萌鹿月の青空。寒気を含んだ春風に揺れる森の木々のざわめき。番を探す駒鳥のさえずり。
「不穏」とは程遠い朗らかで温かい空気があたりに満ちている。
頭上を照らす春の明るい太陽が沈むまで、あと数刻。
流浪騎兵:仕える主君、所属する家を持たないクフスカース地方の傭兵。「放浪する者、野良、落ちぶれ」を意味する。




