【序】1-0 星環暦一五三〇年 灼星の月
星の光さえ届かない澱んだ闇がある。
枯れ井戸の底より暗く、死肉の散らばる戦場より臭く、泥が巻き上がる川の中より息苦しい、底なし沼のような闇。
陽の当たる場所では生きられないあぶれ者たちの漂着場。生と死の間が濁るそこは、どこまでも重たく冷たかった。天上の太陽が身を焦がす熱さで大地を照らす時節だというのに。
耳なし尾なしの魔窟、クフスカースの塵溜め、骨と臓の沼地——。陽の下で生きる者たちの目から隠された暗部は、侮蔑の意味が込められた数えきれないほど俗称を持ちながら、その地の正しき名を知る者は誰もいない。
獣の脂と臓物の饐えた匂いが地面にこびりついた、黒泥にぬかるむ路地裏。腐りかけた木の柱から滴った雨粒が暗い水たまりにぽたりと落ち、まだらに汚物が染みついた石壁に水音が反響する。
這いつくばるようにして、地べたに座りこむ獅人の小柄な老婆がいる。
手つかずに伸びる干からびた白髪頭、その頭頂部から生えた耳を隠すように、泥水を吸ったみすぼらしいローブを覆い被ったその足元には、大小さまざまな種類の獣の骨が所狭しと並べ置かれていた。
空を仰ぐことを許されず、血泥で穢れた獣骨から運命を占う『骨詠み師』——時に他人の運命を呪うことを生業とする老婆は、手垢にまみれた商売道具を地面に散らした。
「……で、その赤子にどんな名をお望みだい。この沼の底には似合わない上等な服のダンナ」
ローブの下から覗く土気色に濁った目は、火鉢の灯りで細長い影を作る男を見上げる。
頭から垂れ下がる狗人の耳の毛先までが白茶けた灰色に褪せた長身の男――病的にまで白く、生気を欠いたその男は、塵溜めには似つかわしくない生きた赤子を抱いていた。
分厚い灰色の毛織物のおくるみに包まれ、リンゴのように赤らんだ頬を膨らませる血色のいい赤子が、鴉の黒羽根に似た上質な羽織りを着た男の青白さを際立たせる。
かすかな寝息を立てる赤子を大事そうに抱きながら、男は血色のない唇をぎこちなく動かした。
「……星の巡りなど知ったことではない。光など、一切不要だ……」
感情が抜け落ちた声は、淡々と、どこまでも空虚な音を羅列する。
しかし、落ち窪んだ眼孔の先にある、その紫紺の瞳の奥には、底知れぬ闇を沈ませていた。
「誰の目にも留まらず、誰の記憶にも残らない、地を這うような忌み名がいい。ああ、そうだ。穴蔵にひっそりと隠れ潜むような……」
「ふん、気味の悪い客だねぇ……まあいい。婆は、この腐った卜骨の示した名を詠むだけさね」
ひしゃげた鼻を鳴らした骨詠みの老婆は、小刻みに震える老骨の手で火鉢に突き立てていた火箸を手に取ると、散らばり置かれた獣骨のひとつを選び、熱されて白く光る先端を押し付ける。骨の焼ける音と血泥に汚れた獣骨特有の錆臭さと焦げた臭いが小さな白煙と共に立ち上り、パキッ、と乾いた音が響くと、焼き跡から一本の亀裂が生えた。
長い鉤爪の生える黒ずんだ指先で卜骨に刻まれた亀裂をなぞった骨詠み師は、歪み笑う口元からボロボロに欠けた歯を覗かせ、しゃがれた声で「骨が示した名」を絞り出した。
「キヒヒ。なら……——『エルルカ』は、どうだい。泥を啜って生きる者の隠語で、『地を這う小鳥』、あるいは『石の陰に咲く花』という意味さ。一生、空を見上げることもなく、穴蔵に生きる者にはぴったりの名だよ」
老婆の言葉を聞き終えた途端だった。
死人のような男が、にったりと子供のように笑った。
男の喉奥から擦れ気味に、ねっとりとした低い笑い声が漏れ出す。その表情はどこか喜悦さえ滲ませていた。
「地を這う小鳥、石の陰に咲く花か……空を知らず、地に縛られて生きる哀れな影。おお、偉大なる女神の祝福に、なんと“相応しい”名か」
いぶかしむ老婆に目もくれず、男は歪んだ笑い声を路地裏に響かせる。痩身から発せられる異様な熱の気配を悟ったのか、男の腕の中の赤子がびくっと身をすくませ、火がついたように泣き出した。
「おぎゃあぁっおぎゃああぁっ……」
小さな命が体を真っ赤に染め、灰色のおくるみの中で激しく身じろぎをする。固く包んだはずの厚手の布がきしむほどに暴れるその姿を、長身の男は光のない目で冷酷に、しかしひどく甘美な目で見つめた。
「おお、おお、なんと愛おしい。怯え泣く姿さえも、我が主が与え給うた奇蹟の鼓動だ。……このオベロスの手で直接、その鼓動を撫でてやらねば」
ブツブツと独り言を並べるオベロスと名乗った男は、秘宝を扱う手つきでおくるみの布をめくった。血の気の引いた青白い指が、泣き叫ぶ赤子の柔らかな肌に触れようとした、その時である。
めくれた布の隙間から、ばたばたと不安げに、しかしいのちの力強さをもって揺れる「二本の小さな空色の尻尾」が、老婆の目の前へとはみ出した。
その瞬間だった。老婆のすさんでいた土気色の目が、ぎょろりと見開かれた。
「そ、それは……双尾?」
まだ熱の残る火箸が、狼狽える震える手からこぼれ落ちた。
沼底に住み着くただの骨詠み師であれば、それは裏社会で高く売れる希少な珍品の類にしか見えなかっただろう。長命薬の材料になる白皮と同じように、多尾の子は酔狂な貴人や異邦人に破格で売れた。
しかし、この骨詠みの老婆は違った。
遠い昔、空を仰ぎ見ていた過去――天上の星々の動きから運命を読み解く星詠み師として、至聖なるニト聖教に宮仕えしていた彼女の濁った瞳の奥に、泥に落ちてなお消え去っていなかった「信仰の光」が、ふっと蘇ったのである。
感嘆極まった濁り目から、透明な涙が泉のように湧きあがり、滂沱の涙が泥に汚れた老顔を濡らした。
「ああ、あ、め、女神の……主の……恩寵の子! ……祝福の御子様……っ!」
切り株のように地に這っていた老体が、ミシミシと骨を軋ませ揺り動く。
頭から被っていたローブがずり下がり、隠していた虫食いだらけの獅人の耳が露わになる。醜い欠け耳が晒されてもさして気にもとめず、老婆は双つの尾へと縋りつくように震える手を伸ばした。
「ああ、あああ……主のたもうた奇蹟を……このあぶれた老目で拝することができようとは……なんという、なんという僥倖……っ!」
歓喜に打ち震えていた体が、「なにか」に気づいてぴたりと止まる。
怒りとも、驚きとも違う。悔悟と恐怖の混ざった感情に上塗りされた老婆の欠け耳が、震えながら後ろに伏せられた。
かつて星詠みだった老婆は気づいてしまった――神聖な赤子を沼底に連れ出し、慶事である名付けの託宣をはぐれ者の骨詠みに乞い、あろうことか「穴蔵に生きる者」の忌み名を与えようとする目の前の底気味悪い男の「異常性」に。そして、無垢な赤子に穢れた名を与えた己自身の「罪過」に。
男の足元に這うように近づいた老婆は、細枝の指を突き出して異端者を糾弾した。
「あ、あんた、その赤子に、なんて恐ろしい名をつけようとしてるんだっ……正気かい! 一体どういうつもりさねっ……!」
しゃがれた声が路地裏に響き渡ると、騒ぎを聞きつけた沼地の住人たちが、わらわらと集って建屋の隙間から両目を光らせた。
上等な羽織りに縋りつく見窄らしい骨詠みと啼泣する赤子を抱いたまま佇む不気味な客人の揉め事を、かれらはまるで穴蔵から覗き見る爬虫類のように耽々と窺っていた。
二人の間に流れる生と死の間が濁りを増していく。誰もが自明の未来を予測した。
信仰を捨てきれなかった老婆の目は、沼底ではあまりに眩しすぎたのだ。
「卑しい、気狂いめっ! ……双尾さまから、さっさとその手をはな——————…………」
かひゅ、という空いた穴から漏れ出たような音が、糾弾をかき消した。いや、かき消された。
二度とその先の言葉が紡げないようにと願った異端者の手によって、骨と皮だけになった老婆の細首が、銀色の両刃で深く、深く貫かれたのだ。
赤い泡沫をぶくぶくと口から零しながら、老婆は喉に突き立つ銀刃の先を、大きく開かれた土気色の瞳で凝視した。
泣きじゃくる赤子を抱いた反対の手に、装飾の施された両刃の短剣を握り締める異端者。その顔は、人ならざるモノのように冷徹だった。
事切れた老腕が、だらりと、枯蔓のように垂れ下がる。断末魔さえ上げる暇もなく、老いた骨詠みは呆気なくその一生を終えた。
突き立てられた短剣が引き抜かれた老体は、散らばった獣骨の上に、どしゃがらと音を立てながら人形のように崩れ落ちた。どくどくと湧き出る熱い血が、鉄錆の匂いを立ちこませながら、白い骨と黒泥の上を広がり伝ってオベロスの足元を真っ赤に染め上げる。
汚泥と生血の臭いが混ざり合った腐臭の支配する路地裏で、亡霊のような白い顔に返り血を浴びたオベロスが、無機質な表情のまま殺した老婆の骸を見下ろす。青白い手が、血の滴る短剣を握りしめている。
「……あわれな星詠みだな。泥に堕ちてなお、信仰を忘れないとは。実に涙ぐましい……」
吐き捨てるように呟いたオベロスは、柄に花と矢の紋章が刻まれた血塗れの短剣を抜き身のまま火鉢の中に投げ捨てる。そして袖の下から貨銭の詰まった小袋を取り出すと、骸の上にぼとりと落とした。
冷たい能面に、笑みが浮かんだ。にたりと細めた紫紺の目の先には、むせび泣き続ける赤子がいる。
宝玉の嵌め込まれた家伝の短剣よりも、足元に転がる死骸よりも、虚ろの彼を惹きつけるのは、腕の中で泣き叫ぶ双尾の赤子だけ。
空色の産毛に覆われ、豆粒のような耳を生やした小さな頭を慈しむように撫でつけながら、オベロスは骨詠みから授かった忌み名を愛おしそうに囁いた。
「エル……ルカ……エルル……カ……エルルカ……エルルカ……エ、ル、ル、カ」
黒い羽織りの下にある灰色の長い尻尾を、音に合わせて振り子のように揺らすオベロスは、腕の中の赤子を——エルルカを壊れ物を扱うように抱え直した。
崩れたおくるみからのぞく白玉のような顔、赤みを帯びた柔肌、仄かに香り立つ乳の匂い、はみ出た二本の尻尾。エルルカの姿を焼き付けた深く落ち窪んだ瞳は、漆黒の夜空を見上げ、今は北の地平線の向こう側に隠れた「青い星」に向かって、恍惚と口元を歪めた。
「あぁ……なんと美しく、清らかなことか……この身を焦がすほどに愛おしい宝物……我が神の奇蹟、『エルルカ』よ。あの愚かな俗物どもは、自らの手でこの至高の存在を炎に焼いたと信じて疑わないのだ」
褪せた灰色の耳を微かに揺らしながら、オベロスは血に濡れた指先で、エルルカの二本の尻尾を愛おしむように撫でる。澄んだ薄青の尾が、赤黒く汚れていく。
蛇が這うような手つきで尻尾を撫でられた赤子は、不快感を露わにして甲高い泣き声をあげた。冷たい風のひと撫でさえ強い刺激を感じる赤子は、母猫に助けを求める仔猫のようにえんえんと鳴き続けた。
死臭を嗅ぎつけた屍漁りたちが路地裏に集まりだした。オベロスは赤子の双尾をおくるみの中に仕舞いこみ、こちらを伺う下劣な目から腕の中の宝物を覆い隠す。沼底の澱んだ空気から一刻も早く離れるべく、影は翻って黒泥の上を歩き出した。
オベロスは泣き止まない赤子に囁き語りかける。父親が我が子を優しくあやすのと違わない。しかし、その口から囁かれるのは、すでに狂ってしまった男の言葉。
「ああ、許してくれ。もう二度とお前をこのような穢れた場所には連れていかぬ……心配するな。これからは私だけの鳥籠の中で、永遠に囲ってあげよう。誰にも見せず、誰にも触れさせず、傷ひとつ、つけさせはしない……永遠に清らかなまま、健やかに……」
多罪に塗れた手が赤子の熱い頬を撫でる。崇拝する主の奇蹟をこの腕に抱ける喜びだけが、オベロスの空っぽの器を満たす。
ただただ無垢な赤子に、蜜溶けの熱っぽい吐息を含んだ囁き声で、剥き出しの狂った執着心を焼き印のように刻みつけていく。
「耳の先。爪の先。毛の一本。歯の一欠片。血の一滴まですべて……お前は私のものだ、エルルカ」
赤子を抱えた黒い影は、闇の外へと消えていく。
鳥籠に生きる飛ばない鳥の運命を名付けられた双尾の赤子は、ただ声を枯らして泣き続けていた。
――星の光さえ届かない澱んだ闇がある。暗く、臭く、息苦しい闇。黄金太陽が作り出した、常闇より黒い深淵の影。
黒い血の沼の上で、老婆の亡骸に群がる屍漁りたちが、獲物を奪い合って醜い争いを繰り広げる。醜悪の叫喚が路地裏に響き渡る。
誰かが倒した火鉢から零れた燃え炭の熱が、老骸のローブに渡る。
やがてその身は、真っ赤な火に抱かれた。




