序・人類について 星環歴二×××年 二月
私たち人類の祖先は、四つ足で歩く狩猟動物であったという。
ケモノとは。言語を持たず、地を這いながら数里先の葉の音を聴き、土の底の僅かな匂いを嗅ぎ分け、鋭く硬い牙と爪で獲物を狩る罪深き生き物である。
ケモノとは。群れを守るために同種族・他種族と争いながら、時に群れの中の異端を追い出し、時に弱く生まれた我が子を間引く残酷な生き物である。
ケモノとは。種を残すために、本能のまま番を求め交わり、子を為す、みにくい生き物である。
それが、私たち人類の始まり。
太古の昔よりこの地上で命がけの生存競争を勝ち抜いてきた、気高く、尊い、美しい生き物。
ある聖典の記述によれば。
神々がいちばんはじめに作った人類は、耳と尻尾のない『きょうだい』であったという。
耳のない『きょうだい』は神の言葉を聞くことができなかった。尻尾がない『きょうだい』は神に本心を隠すことができた。
なぜそのような欠陥品をつくったのか。詳細は省くが、とどのつまり「神々の気まぐれ」であった。
さて、では『出来損ないのきょうだい』は一体どうなったか?
全知全能の主の足元、天の果ての楽園にて、それは大事にされながら、仲睦まじく暮らしていたらしい。
だが言葉が通じぬということは、道理を説くことができないということ。本心を隠せるということは、神を欺くことができるということ。
耳も尻尾もない未熟な『きょうだい』は、七回も禁忌を犯してしまう。そのたびに相応の罰を受けては、神々はやはりかわいい彼らを許し、楽園にとどまることを許した。(のちに人間を罪に陥れる根源的情念の……と上から追記されている)
しかし、八度目に犯した禁忌はまずかった。神々が主に献上するために育てていた「禁断の果実」を、勝手に食べてしまったのだ。しかもご丁寧に、自分たちは食べていないという「嘘」まで付け添えて。
神々は大いに怒った。とりわけ「炉の狼」と「雷の獅子」の逆鱗に触れてしまったことで、今度こそ許しを得ることがむずかしくなった。
『きょうだい』は神罰として、その身を『毛むくじゃらの獣』に変えられ地上へと堕とされてしまう。
ひとりは『硬い剛毛に覆われ、剥き出しの牙から濁った涎を垂らす、血に狂った執念深い狗獣』に。
ひとりは『肢体をぐにゃりと曲げ、鋭い爪を隠して不気味に目を光らせる、感情を喪った冷たい獅獣』に変えられた——と。
みにくい獣の姿に変えられた『きょうだい』は意思を介することができないまま、いつしか相手を『殺すべき存在』と見なすようになる。
互いの体を爪で引き裂き、骨を牙で噛み砕くという壮絶な殺し合いを三日三晩続け、やがてどちらも死に絶えてしまった。
天上の神々の中でただ一柱、『きょうだい』の天命をひどく憐れんだ八尾の女神は、二人を生き返らせるために楽園から地上へと降臨すると、まず『きょうだい』の亡骸を祈りの息吹で起こした聖なる火を使って燃やした。そして灰になった血肉と骨に、自らの祝福の尾を土くれに混ぜて、釜の中で六日間捏ね続けた。そののち七日目になると、釜の中から『耳と尻尾のない男と女』が這い出てきた。
八尾の女神は、ふたりが天の果ての楽園へ帰れるように、神の言葉を聞くための特別な耳と楽園の花の香りを嗅ぎわける特別な鼻、天の梯子を昇るために必要な鋭い爪と天の楽園の住人である証の白くて太い牙、そして言葉を失くしても思いを伝えられる尻尾を釜に入れ再び捏ね続けた。
そして八日目。
女神の恩寵をふんだんに混ぜた土くれが詰まった釜の中から、『頭にはきり立った峰のような立派なふたつの耳と、腰には稲穂のようにしなやかで豊かな毛並みの美しい尻尾が生えた』姿をした男と女が這い出てきた。
その似姿は天上の神々の一部を刈り取り、最初に作られた「人間」にくっつけたような姿だった。
それを見た神々は不遜にも己の似姿を写した男と女に怒り、永久に天の楽園へ立ち入れぬように、二人の足を地上から離れられないよう縫い付けてしまった。
地上に残された男と女は番になり、やがてたくさんの子供たちを産み落とし、女神から授かった知恵と恩寵を使い、地上に新たな楽園を創造したと伝えられている。
……神様の地雷を踏みすぎたせいかどうかは不明だが、口惜しくも現人類の肉体からはすでに、女神の恩寵のいくつかは失われてしまった。
現人類は、神の言葉を聞くための立派な耳を持ちながら、遠く離れた機械の通信音を聴き取ることはできず、特別な訓練を積まない限り、人の鼻腔は花の香りの判別すらまともにできない。かっこつけて爪を伸ばして研いで尖らせても、日常生活においてこの上なく不便さが勝るので結局丸く切ってしまうし、多種多様な食生活に対応するため、牙はすでに平らな歯列の一員として馴染んでいる。
言い方を変えるなら、それは「退化」だ。
命がけの生存競争を勝ち抜くために、我々の祖先たちが選んできた結果の果てに、我々は生きている。
少なくとも、私自身は今、数キロ先の機械電子音を聞き分ける聴力は必要としていないので、別に悲観することはない。こればかりは、個々人の考えがあるので一概には言えないが……。
だが、かなしいかな。
血塗られた生き物の性は、数万年経過してなお、現人類の遺伝子の中に深く刻まれ、取れない錆のように残されている。
過去の歴史を俯瞰して見ても、かの聖典の『きょうだい』のように、人類は地上で争いを繰り返すことをやめない。言葉を会得し、知恵を駆使し、複雑な情緒を育むまでに進化したというのに、現人類は今この時間も愚かな生存競争を続けている。結局は、森の奥で縄張り争いをしていた祖先たちと、なんら変わりない。
巨大な岩が長い時間をかけて、風雨で削られて小さな石ころになるように、崇高な祖先たちの並外れた感覚器官のほとんどは、今や痕跡器官となり果てた。
我々に残されたのは「残酷な生存本能」と「感情に呼応して動く尻尾」だけだ。
慈悲の深き八尾の女神は、言葉を失くしても思いを伝えられる特別な尻尾を与えたという。
かの『禁忌を犯したきょうだい』のような、悲しい過ちを繰り返さぬように。
言葉を失くしてもお互いを慈しみ、愛しあえるように。
それは、愚昧な人間たちに対する女神の過保護な戒めなのか。
それとも、血なまぐさい歴史の底にただひとつ残された願い、あるいは……最大の恩寵なのだろうか。
今から数百年。
ラウジア共和国の輝かしい、しかし血塗られた国史に名を刻まれず、歴史の砂塵の彼方に失せた、王の影として生きた【片目の領主】と聖ミラスラーヤと同一視される【双尾の女人】。
かつて片目の領主が治めたとされる忘れ去られたこの土地に、誰が詠んだとも知れぬ、こんな大仰な民謡が遺されている。
隻目の翡翠は、水底へ沈んだ。
涙を流して、水底へ沈んだ。
鳴けぬ駒鳥は、双つの尾羽を揺らした。
胸を焦がして、双つの尾羽を揺らした。
二匹の番は、夜明けを迎えて鳴いている。
二匹の番は、翼を広げて飛んでいく。
アラシュヴィ山を越えていく……。
幾多の戦乱によって、あまたの歴史的遺産が失われたこの土地に、わずかに遺された古き詩が雄弁に物語っていた。
現在と変わらぬ場所で大地を見下ろしていたであろう宇宙にきらめく星々の下、確かにそこに存在した男と女の愛と慈しみの歴史を…………。
――星還歴二×××年・二月三〇日(降曜)・アラシュヴィ山快晴也――
【とある好事家の民俗学者の手記より】




