第2章【序】2-0 星環歴一五三三年 黒い森の石の塔
——星神の御言葉を賜りて、聖ラヤは説いた。
「双尾の子よ。天地に住まう者たちへ祝福を与えたまえ。その身はただひとりのものにあらず。ひとしく、慈しみ、尊び、愛せよ。汝の御体は主のものであり、やがては主に帰るのだ」
聖ラヤはまた、民にこうも説いた。
「民よ、慈悲深き主の恩寵に背くのであれば、天河の主たる星神が、お前たちを聖なる白き炎で灼き尽くすだろう。汝の魂は天上に帰らず、そして永遠に土の下を彷徨い続けるのだ」
【聖典:第八章二節・ラヤの託宣より一部抜粋】
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女が、泣いていた。
「申し訳ありません、オベロス様! 申し訳ありません……! どうか、お許しください……!」
女は、許しを乞うていた。
鼻孔から血を流したその顔を、芝のうえに擦りつけ、足の間に仕舞い込んだ尻尾を小刻みに震わせながら。
見上げると、父が立っていた。骸骨のお化けにそっくりな父の顔は、めずらしくリンゴのように赤かった。
父が、足で女の顔を蹴り上げた。
「この愚か者がぁ! 私の可愛い娘にキズをつけたな! よくも! よくも! よくも! よくもぉ!」
丸まった女の背を、父が何度も、何度も、何度も踏み続けた。
申し訳ありません、許してください——同じ言葉をずっと繰り返して、女はずっと泣き叫んでいた。
わたしは、泣いて見ていた。
どうしていいか、わからなかった。
どうして、父がこの人に怒っているのか、理解らなかった。
一緒にお外で遊んでいただけなの。
ダンゴムシを探していただけなの。
どっちがたくさん見つけるか、その人と競争してただけなの。
それで、負けたくなくて走ったら、転んじゃって、お膝を擦りむいただけ。
見て、この布もねその人が巻いてくれたの。
本当に、その人はなにもわるくないの。
お約束を破ったのはエルなの。
だからもうやめて、おとうさま。
その優しいひとを、傷つけないで。
父は話を聞いてくれなかった——だって、わたしはただ泣いてばかりいたから。
父が、泣きじゃくるわたしを抱えて、その場を立ち去った。
ふたつの尻尾を撫でながら、父が囁いた。
「ああ、かわいそうに。痛かっただろう、私のエルルカ。お前の痛みは父の痛み。そして、我が主の痛み……よぉしよぉし……」
湿った吐息が耳にかかる。頭の中をミミズに這いまわられたような気持ち悪さに、耳を塞ぎたかった。
肩越しに見えた女は、ダンゴムシのように身を丸めていた。土に顔を擦り付けて、啜り泣きながら、許しの言葉を繰り返していた。
優しい世話役だった。わがままを聞いてくれるひとだった。あの日もわたしがお外に行きたいって、駄々をこねてお庭に連れて行ってもらった。
本当は、お外で遊んじゃいけないってお約束だったのに——。
ごめんね。ごめんね。ごめんね……。
擦りむいた膝の痛みよりも、胸を激しく叩く痛みに涙が止まらなかった。
「泣かないでおくれ、私の可愛い娘。お前の涙は、私のために流されるものなのだから」
父は私の涙を、生白い指で優しく拭った。流した涙の、本当の意味も知ろうとしないで。
「案ずることはない。聖体に傷をつけた愚か者は、このオベロスが罰してあげよう。あの女の血を天に捧げ、神への贖罪としなければ……ああ。主よ。お許しあれ……」
父は子供みたいに笑っていた。
どうして笑っていたのか、なにを罰しようとしたのか、誰に許してほしかったのか。
その時の私は、何も知らなかった。
知らないままでいれたら、よかったのに。
——次の朝、優しかったその女は、塔から姿を消した。
暗い森の、石の塔に閉じ込めた思い出。
今は遠い、彼方の思い出。
それが、エルルカのいちばん古い、そしてはじめの思い出であった。




