第1章【終】1-10 帰還する者たち
日はすでに暮れていた。
パニヴァ湖の湖面が、紫がかった空を反射している。
「おい、バベク——そいつ、まだ起きないのか」
鼻息荒い愛馬の上から、ユーリウスが不機嫌そうに言った。
バベクは首を横に振った。兵装のタラカ一枚になった彼の太い腕の中で、双尾の花嫁はいまだ眠りから覚めずにいる。バベクが貸したであろう、ボロの肩衣に包まれ、腫れた頬に濡れた布を当てながら、その寝顔は変わらず苦しそうなままだ。
バベクは双尾の娘を心配そうに気にかけながら、馬上のユーリウスの口の悪さを戒めた。
「若、そいつ呼ばわりは頂けませんな。鼻垂れ小僧ならいざ知らず。娘御に対して失礼ですよ」
「うるさい。ガキはガキだ……いい加減起こせ。眠ったまま抱えるのは面倒なんだ」
「とは申しましても……無理に叩き起こすわけにもいきますまい。まだほんの子供ですよ」
「ふんっ……確かに、星巡りもしていない子供だな……だが」
だが、とユーリウスはその先の言葉を舌打ちで掻き消した。
(僕だって、子供だった)
頭に思い浮かんだ暴力を正当化する無意味な反論、もしくはそれ以下の癇癪をぐっと飲み込んだ。
押し黙ったユーリウスに、バベクは首を傾げる。彼もまた口を閉じ、傷だらけの尻尾を揺らして続きを待った。
沈黙する二人の間を、イゾールが馬上から割って入った。
「はいはい。駄々こねはそれくらいにしてくださいね、若。ほら、みんな待ってるんですから……早くしないと、首無し幽霊が出てきますよ」
幽霊が出るかは兎も角。イゾールの言うとおり、すでに支度を終えた先発帰還組の全員が馬上に跨り、主君の号令を今か今かと待っていた。
出発できる態勢は整っていた。あとは「双尾の娘」をムタルカに乗せるだけなのだが——ユーリウスは苦々しそうに、したり顔のイゾールを睨んだ。
「言っておきますけど、十歳の女の子がひとりで乗りこなせる行儀の良い峰角馬なんて、ここにはいませんからね。諦めてさっさとコマドリちゃんと相乗りしてあげてください」
アヒル口が軽妙に回る。とどのつまり、ユーリウスは花嫁の子守を押し付けられていた——本人は大まじめにそう考えている。
面倒くさいことこの上なかった彼が編み出した回避策は「少女をひとりで別のムタルカに乗せること」。あとは馬に紐を括り付けて牽引すればいいと思っていたが、しかし乗り手が気を失ったままでは土台無理な策である。
自身の愚考に釘を差されたユーリウスは、舌を打って不満を垂らした。
「ちっ——大体、なんで僕が運ばなきゃいけないんだ。空馬の鞍にでも括り付ければいいだろうが」
「そんな人攫いみたいに花嫁を運ぶ領主様がどこにいるんですか。もし途中で目が覚めて暴れたりして落としたら、洒落にならないでしょう」
「落ちないようにすればいいだけだ……文句があるなら、お前か、ほかの者が運べばせろ」
「そうしたら、若はまた好き勝手に先頭を走るでしょ。いいですか? 先陣ていうのは恰好の的。さっきみたいな無茶ぶりは、たまたま、運よく、偶然、成功しちゃっただけ。しょーもない賊相手だったから通用したもんです。下手したら矢玉にあたって死んでたかもしれないんですよ」
でも——とわざとらしく置いて、イゾールが続けた。
「大事な手駒が手元にいたら、それもできないでしょう? 花嫁を守るためにも、真ん中、走ってくださいね。ていうか、コマドリちゃんがユーリウス・セヴェリの奥方なのを忘れてませんか? さすがの俺でも気ぃ遣いますよぉ。そこは誇り高いラウジアの男らしく、嫁は俺が連れていく! って強引に乗せていくのが、花婿の流儀ってもんです」
イゾールのぐうの音も出させない言葉に、周囲の者たちもうんうんと同調して頷く。多勢に無勢だった。
「貴様ら……」と呟いたユーリウスの額に、うっすらと青筋が浮かんだ。
イゾールの意見はおおむね正しかった。規範から逸脱しているのは自分ほうだというを、ユーリウスは重々承知している。
だからこそ——よりにもよって、死んだ魚の目をした、だらしない独身貴族のこの男に、「流儀」とやらを語られるのがひどく腹立たしかった。
多感な青年の複雑で理不尽な怒りは、うずうずと溶岩のように蓄積されていく。
イゾールのくどい説教は続いた。
「だいたい、婚前の女を身内でもないむさ臭い野郎どもに触らせるとか、普通ありえないですからね。オリナがここに居たら、若の尻尾、容赦なく踏んづけられてますよ」
(……尻尾踏まれるのは、たぶん副官殿なんだよなぁ……)
男たちの目が泳ぐ。口には出さなかったが、心の内は、みな同じ異論を唱えた。
ただひとりユーリウスは、ついに溜め込んでいた怒りを爆発させた。
「えぇいっ、うるさい! さかしらに魚臭い口で正論を振りかざすな! くそっ——バベク、その娘をさっさと寄越せ」
ユーリウスはたまらず、副官の説教に従った。耳の先まで血がのぼって、ぶるぶると震えていた。
中太の尾が垂れた尻を蹴りあげてやりたい衝動を抑えて、足ではなく、ずいっとバベクにむけて手を差し伸べた。
バベクが頬に当てた手ぬぐいを取り、宝剣を捧げ持つように、少女の体を丁重に差し出す。幼身といえど、虚脱した人間を馬に乗せるのはひと苦労だ。ユーリウスは腕と腹筋に力を入れて、体幹を使って引き上げるように少女を腕の中におさめた。
ちらりと、横目に少女の顔を見た。頬の腫れはひきはじめて、輪郭は正円を取り戻しつつある。ユーリウスの眉間の皺がわずかに薄くなった。
少女の匂いを嗅ぎ取ったジュダが、上唇をめくりあげて歯茎を剥き出しにする。その奇妙な表情は、どこか馬上の主をからかっているようにも見えた。
ジュダの変顔を見ていた先発隊のトマが、イゾールに不思議そうに尋ねた。
「大丈夫なんですか? ジュダに若様以外の人間乗っけて。暴れたりしません?」
「へーきへーき。あんな気性だけど、あの野郎、女の子には滅法弱いんだ。ヨボヨボの婆さんでも乗せちまう生粋の好き者なんだよ。にしても、股ぶら下げたやつは絶対乗せないくせに、なんでかユーリウスさまの言うことは聞くんだよなぁ……」
トマが「へえー」と相槌を返した。指折りの名馬であり、屈指の気性難であるジュダの意外な一面を知って、興味津々に巻き耳がぴくぴくと動いた。
よく見ると、ジュダの尻の間から何か伸びているような気がした。見てはいけないもの気まずさが背を這った。トマはそっと目を逸らした。
***
「若様」と、バベクが声をかけた。
「周辺には、まだ残党が潜んでいるやもしれません。道中油断なさいますな」
そう冷静に諭したバベクの顔は、固く強張っている。返答かわりに、ユーリウスは乾いた泥と血が張り付いた鼻を小さく鳴らし、そして小さく頷いた。
手綱を握り直そうとした時、バベクが何かを思い出したかのように「あぁ、そうだ」と呟いた。
腰元をゴソゴソと探ったあと、バベクは酒杯を渡す手つきで、借りっぱなしだったイゾールの水嚢を差し出した。
「もし、その小さな奥方が目を覚ましましたら、飲ませてあげてください……ユーリウス様。どうか、ご無理はなさらずに。もう、おひとりの体ではないのですから」
そう申し添えた顔には、父親の愛嬌が混じっていた。
今度はおおげさに、ふんっと鼻を鳴らしたユーリウスは、水嚢をぞんざいに受け取る。黒茶の尾が鞍を数回叩いた。
はぁっと、形の良い唇から短い息が漏れた。ユーリウスは黒革手袋を締め直して、前髪をぐいっとかき上げる。切り替えの儀式を済ませ、切れ長の翠眼が鋭さを取り戻した。
ジュダが片方の前脚で地面を掻いた。ユーリウスを急かしているのか、準備万端だと言いたいのか。あるいはその両方かもしれない。少なくとも、ユーリウスにとっては号令をかける合図となった。
「——これより我らは、ミルエティへ帰還する! いくぞ!」
低い真鍮声の、出発の号令が遠くまで響いた。
蝋灯の灯りが照らす真っ暗な街道。ふたたび、馬蹄の音が夜闇へと消えていった。
コマドリはまだ、目覚めない。
***
——セヴェリ家とシヴィーカ家の政略結婚に端を発して巻き起こった一連の騒動は、湖畔の泥地での壮絶な激突で、その幕を開けることになる。
後に「花嫁行列襲撃事件」と記録されたこの襲撃事案において、関係者に報告された犠牲者の数は、敵味方合わせて三十人以上にのぼった。
シヴィーカ家側の人的損失は、騎士六名、雇用した流浪騎兵二十名、御者及び従者三名。行方不明九名(戦闘中の逃走と推定)。
後日、行方不明とされていた侍女らしき女が、近くの川辺で発見された。ほとんど身ぐるみを剥がされ、錯乱したまま彷徨っていたこの女を、最初は誰も貴人の侍女だとは思わなかった。
だが、握りしめて離さなかった子供用の銀ベルトが、皮肉にも、彼女がシヴィーカ家の者である証となった。女は故郷へは戻れず、小さな修道院へと送られたが、ユーリウスたちが証言者として確保しようと動いた時には、すでに消息が絶えていた。
かくして、証言しうるシヴィーカ家側の生存者は、ついに一名も得られなかった。
セヴェリ家側の記録——機密文書の最後にはただ一文、「生者なし」と記述されたのみである。




