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青い星のエルルカ  作者: 高芦ノリベン
第1章【花嫁行列襲撃事件】

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1-9 燃ゆるパニヴァ湖、灰のサナギ

流血表現、暴力表現、虐待行為を示唆する表現が含まれます。ご注意ください。

 あの時も、冷たい泥地だった。

 

 底冷えする暗闇。煤けた暖炉の赤熱。真っ白な閃光を放つ錆鉄棒(やきごて)。

 

 自分の肉が焼け焦げる臭い。


 身を裂くような痛苦。


 泣き叫んでも誰も助けてくれない恐怖。

 

 地獄の底で苦しむ自分を嘲笑する大人たち。

 

 片頬に刻まれた、決して消えない屈辱。

 右目に焼き付いた、薄れていく思い出。

 継ぎ接ぎ布(パッチワーク)のように、十七年分の記憶が入り乱れて駆け巡った。

 

 ——わたしたちのかわいいユール。さあ、その愛らしい仔熊顔を見せてちょうだい——

 

 だめだ。母上(かあさま)。その白布をとらないで。ぼくのかおを見たら、あなたは……——

 

 ——ほら、早くおいで。ユール。みんな待ってるよ——


 ぼくをおいていかないで。ねえさま、にいさま……——


 ——いや、こないでっ——

 

 ぼくは……なにもしてないのに……——

 

 ——弱く醜いお飾りのお前に、このワタシが役目を与えよう。種馬というのも立派な仕事だ——

 

 許して……許してください……おじ上……——

 

 ——バケモノ! あんたの相手をする私の身になってよ——

 

 そうか……弱いから……。だから、食われるんだ……——


 ――お前まで死ぬな! ユーリウス! ――


 いたいよ、いたいよ。にいさま。

 

 なにも、みえないよ。にいさま。


 こんな世界(じごく)で、生きる意味はどこにある?


 おねがいだ。ガリウス兄上(にいさま)。


 もう……ぼく……を……――

 

 堅牢に築いた城塞の奥に隠したモノが――あの時の弱者(こども)が、顔を覗かせた。

 

 炎の輪郭がぐらりと歪み、熱風と共に意識が攫われていく。

 燃え盛る炎を前に、足が石のように硬直して言うことを聞かない。逃げたくて堪らないはずなのに。

 男たちの声が、風の音が、木々のざわめきが遠くなっていき、情けない荒い息遣いだけが鮮明さを増す。狼の尾が股座のなかに滑り込もうとした。


 ——その時、癖毛に埋もれて伏せていた狼耳が、湿った木の大きく爆ぜる音を拾った。

 遠のいていた喧騒が一気に押し寄せ、ユーリウスは我に返る。立ち上がった耳に続いて、竦んでいた尾も恐怖を振り払うように毛を逆立てた。

 現実に戻った肌へ、炎の熱が襲い掛かる。その時になってようやく、ユーリウスの足は、後ろに退いた。

 その前へ、猫背気味の背中が割り込んだ。イゾールだった。眼前の炎から庇うように立ち塞がり、燃える荷に目を剥く。

 

 「——こりゃあまずい。おい! 急いで水を汲んで来い! 火を消すんだ! 林に燃え移ったら最悪だ……!」

 

 大声で叫ぶイゾールの背の後ろで、ユーリウスは呆然と立ち竦む。そこへ、飛んできた火の粉と一緒に、油臭さがユーリウスの鼻を掠めていった。

 鼻の下を腕で隠しながら、割れた葡萄模様の素焼き壺と、泥地に点在する黒いドロドロした水たまりを見つけて、左目が大きく見開かれる。

 彼の嗅覚はすぐに火の悪魔の正体を見抜いていた。


 「くそっ! シモンめ、欲を掻いた、な……」

 

 悪態の続きを吐こうとした口が固まった。

 燃え盛る炎の向こう側で、荷の山を焼き尽くす魔の手が、投げ出された小さな麻袋に迫っている。結び口からはみ出た二本の足は、ぴくりとも動かない。

 すぐそばで、子供用の衣服の山が黒く縮んで崩れた。


 「——双尾(ふたさび)が燃えてしまう!」


 ユーリウスは叫んだ。考えるよりさきに、足が動いていた。

 魂の底から湧き上がる極度の恐怖(トラウマ)を、理性の檻に押し込める。己自身に、言い訳じみた言葉を聞かせながら。


 (アレは、兄上のための、大事な道具なんだ!)


 炎から庇ってくれていたイゾールを、突き飛ばす勢いで押しのけて駆け出す。一歩遅れて手を伸ばされたイゾールの手は、黒緑のタラカの袖をつかみ損ねて空を切った。

 

「――若、行っちゃ駄目だ! ――ユーリウス様!」


 イゾールの制止を振り切って、ユーリウスは炎の壁の中へと身を躍らせた。


「ぐっ……!」

 

 息を止めたまま、肌が焼けるような熱気の中をひた走った。火花が尻尾の毛先を焦がしていくのも構わなかった。

 たった数歩。されど、数歩が遠かった。実際は十を数える間もない一瞬だったのに、果てしなく長く感じられた。

 焦げ跡がついた麻袋を抱え上げる。サヴァカの重みが、両腕にずしりと食い込む。熱で眼球が乾き、瞼を開けていられなくなった。

 それでもわずかな視界を頼りにして、ユーリウスは無我夢中で火の海から飛び出した。その時はすでに、上下左右の感覚もまともに掴めていなかった。


 背に火を負ったまま、娘を庇うように抱え込みながら、ぬかるみの上へ飛び込んだ。

 麻袋の熱を、冷たい泥が鎮めていく。熱を持ち始めた体も、眼帯の下の火傷痕も、泥がじわりと冷ましていった。

 だが、羊毛で編まれた黒緑のタラカに残った火種は、今まさに体を焼かんとしていた。

 すぐさま駆け付けたイゾールが、自らの肩衣を外して、容赦なく背に叩きつけた。


「ユーリウス様ぁ! くそっ! 火を消せ! はやく!」

 

 パニヴァの湖水を汲んでかける時間はない。セヴェリの兵たちは総出で、泥と砂を浴びせ、肩衣を叩きつけ、ひたすらに主君の体を焦がす火を強引に叩き潰した。

 

「よりによって火だるまになりやがって、大馬鹿野郎が……!」

 

 下がり眉を吊り上げたイゾールの珍しい怒声に弾かれて、ユーリウスは目を開き、がばりと起き上がった。

 拳を握りしめるイゾールには目もくれず、腕の中の麻袋を泥の上に横たえた。鞘から短剣(サンチャル)を抜き、急ぎながらも中身を傷つけないよう、慎重に切れ込みを入れる。火消しに駆けつけた兵たちが、その手元を取り囲んでいた。

 短剣を投げ捨て、裂け目に両手を差し入れる。汚れた黒革手袋で、息を殺すように麻袋を開いていった。

 

 ぱっくりと口を開いた、焦げた麻の繭から、灰色のサナギが姿を現した。

 

 極端に短く切り揃えられた前髪。丸いおでこの上にぽんと乗った三角の短い眉。白粉がふんだんに乗せられた童顔。そして身にまとう上等な灰色の花嫁衣装。

 尻尾の本数を数えるまでもない、快晴の空を思わせる淡い青の髪色。

 その姿を見たトマが、ぽつりと零した。


「この子だ……双尾(ふたさび)の、女の子……」

 

 空色の耳を力なく伏せた少女は、眠るように目を閉じていた。

 その場にいた全員が息を飲んだ。

 手袋を外したユーリウスが、半開きの口元に手をかざす。

 ——息は、あった。炎に背を向けた彼の影に隠れて顔色までは分からないが、気を失っているようだけのようだ。ユーリウスは今度は、その頼りなげな右の頬を軽く叩いた。


「おい、おいっ。しっかりしろ、おい」

「……ぅ……ん……」


 少女が苦しげに唸った。

 ユーリウスは腕を伸ばし、麻袋の裂け目から灰色の花嫁衣装(サヴァカ)ごと抱き上げた。腕の中に感じる確かな重みと体温に、短く息を吐く。けれど、縛られた両手首が目に入った途端、吐息はすぐ舌打ちに変わった。眉間が深く歪む。

 イゾールや他の兵士たちも、口には出さないまま、泥だらけの顔に賊の仕打ちへの怒りを滲ませた。

 だが——少女の薄い猫の耳がふるりと揺れると、剣呑な空気はほどけた。探していた花嫁が生きていた。兵たちの間から、口々に「生きてた」「無事だ」と安堵の声が漏れる。

 イゾールも、吊り上げていた下がり眉を元の位置に戻しながら、ほっと胸を撫で下ろした。

 

「はあ……死んじまったかと思ったぜ……そのうち、目を覚ますと思いますよ。若、髪と尻尾をチリチリにしてまで助けた甲斐がありましたね。荷物はまあ……残念なことになりましたけど……」


 燃え盛る荷に残念そうな目線を送って、イゾールは主君の肩をぽんっと叩いた。

 副官の馴れ馴れしい態度に、ユーリウスは眼光鋭く睨みつけ。しまった、とイゾールは顔を引き攣らせて手を引っ込めた。だが、それより早く、毛先の焦げた前髪を鬱陶しげにかき上げたユーリウスが、忌々しそうに口を開いた。

 

「黙れ。だれがチリチリだ。それよりもお前、さっき僕に大馬鹿とかほざいていただろ。主君に対して不遜な口を叩くとはいい度胸だ。セヴェリの規律に従って、減給処分を覚悟しておけ」

「そ、そんないけずな~! 若が燃えてるのを必死で消したんですけど俺! むしろ褒賞をもらうべきでしょう?」

「あ! イゾールさんずるいっすよ! 若の火消しはみんなでやったことじゃないですか!」

「ぐうっ……トマめ、余計なことを……いや! それでも減給だけは勘弁してください! せめて休日返上とかで――」


 ボタン耳を震わせて抗議するイゾールをよそに、ユーリウスは少女を麻袋の上に横たえて、手首を縛っていた縄を解き始めていた。背後でやいのやいのと騒がれても、狼の耳はまっすぐと正面を向いて立ったままだった。

 

 主従のやり取りに苦笑いをこぼすセヴェリの兵たち。すっかり暗くなった孤立林のなかに、和やかな空気感が漂った。

 気づけば街道一帯の騒動は収束し、兵たちは後始末を始めていた。

 襲撃者たちは地に倒れ、その頭目たる男は、見張りの兵に囲まれて大人しく縄で体を縛られている。あとには、荷の延焼を食い止める者や、周囲の索敵に散る者たちの、ひそやかなざわめきがあるだけだった。


 固い縄を解き終わって、ユーリウスは寝かせていた少女を抱え直す。両腕をそれぞれ、薄い背中と膝裏に差し込んで持ち上げた。その拍子に、少女の上体が胸元あたりに寄りかかったのを見て彼は顔を顰めた。

 己が着ているのは真新しい婚礼服ではない。血と泥が染み込み穢れた兵装衣だ。そんな汚らしいものに傷ひとつなさそうな少女の顔を近づけるのは、なんとなく憚られる――柄にもない気遣いが脳裏をかすめた。

 しかし、よくよく見れば、花嫁衣装はすでに泥だらけで、飾り袖の刺繍なんかは糸が解れている。胸元の装飾ボタンも一部取れて乱れている始末だ。


 今さらどうでもいいか、と勝手に納得して、ユーリウスはボロボロの花嫁を抱き寄せたまま立ち上がろうとした。

 膝が地面から離れかけた時、花嫁衣装(サヴァカ)のスカートの裾から、空色の長い尾が二(・)本(・)、ぶらりと垂れた。ユーリウスは立ち上がるのをやめた。

 濡れた地面に膝をついたまま、尻尾をじっと見る。暗灰色の泥に映える、澄み切った空の色。その色彩が、無意識に翠の目を引き付けた。

 何気なく動いたユーリウスの腕が、布越しに尻尾に触れる。すると、反射で尻尾がぶわりと薄青の柔毛を逆立て、少女の腰に両側から巻き付いた。宝物を抱え込む雛鳥のような、頑なな動きだった。

 その仕草に、思わず見入ってしまう。

 

 (これが……双尾(ふたさび))

 

 常に引き締めていた顔の奥から、束の間、年相応の童心が滲んでいた。

 

 そんな青年の尾が、微かに揺れているのを見て、イゾールはふっと口端をあげる。茶化し癖のあるアヒル口は、何も言わなかった。

 ジュダの口を取りに戻ろうとして、主君に背を向けようとした矢先——イゾールのつま先が、ぴたりと立ち止まった。

 大きく開いた鼠色の眼が、ユーリウスの短剣(サンチャル)のきらめきを捉えた。

 

***


 (結構……重いな)


 こうして出会うまでは、幽霊か妖精のような印象しか抱けずにいたユーリウスにとって、その重みは、少女が人間であると実感するに十分だった。悪気のない率直な感想は、きわめて無神経であるが。

 重いと言っても、実際は枯れ枝の束ほどだ。油断して力を込めると、ポキリと折ってしまいそうになる。生まれたばかりの仔ムタルカのほうが、よっぽど頑健だと思えた。

 とはいえ、脱力した人間を抱えるのはそこそこに疲れるものである。時々、腕の位置を変えながら、ユーリウスは観察対象を、二本の尻尾から少女の白い顔へとうつした。


 はじめの印象は、「子供だな」ということ。

 綺麗だとか、美しいだとか、醜いだとか、形容詞で飾るわけでもなく、そうとしか言いようがなかった。まじまじと観察するほどに、その幼さを思い知らされる。

 

 女の見目に興味のないユーリウスでもわかるほど、年に合わぬ厚化粧を塗りたくられている顔の輪郭は、どこまでも丸かった。

 辛うじて形を保つ、結い上げられた髪から生える小さな耳は、少女の生存を知らせるように不規則に動き、そしてどこまでも薄かった。

 煌びやかな刺繍が施された花嫁衣装に包まれた背丈は、やはりどこまでも小さかった。

 

 その目の前の現実が、己の結婚相手はやはり十歳の子供なのだという事(・)実(・)を、容赦なく突きつけてくる。

 自分の黒い影に覆われた苦しげな寝顔や、手首に浮かぶ赤い縛り痕を見ると、無性に苛立ちが止まらなかった。

 ——いい加減、叩き起こしてやろう。そんな意地の悪さが芽生えて、ユーリウスは剣だこと擦り傷だらけの手を、少女の右の頬に伸ばした。

 そこへちょうど、松明を持ったバベクが近寄ってきた。橙の光が、ぼんやりと白蕾の顔を照らす。


 「——っ」

 

 ユーリウスの手が、戸惑って固まった。

 正円の輪郭を描いているはずの右の頬が、非対称に歪むほどに痛々しく腫れあがっていた。

 白粉の上からでも、はっきりとわかるほどに。


「……ああ、こりゃひどい……相当強くぶたれたんでしょうな。かわいそうに。こんなに腫れてたら、風に撫でられるだけでも痛かったはずだ」


 屈んだバベクが、少女の顔を覗き込んで苦々しく代弁した。子を持つ親の情がこもった言葉。ユーリウスは唇を噛んで、何も返さなかった。


 ——さっき、軽く叩いたばかりの頬だ。苦しそうな呻き声が、頭の中で反響した。

 ユーリウスは頬へ伸ばしかけた己の手を見た。自分は、なにをしようとしていたのか、と。狼の耳は震えながら、後ろへ傾いた。


 「濡らした当て布を持ってきます」と、バベクが立ち去ろうとした、その瞬間だった。

 沈黙を裂くように、獰猛な熊に似た雄叫びが響いた。


「——ウオオオオ!」

 

 足を止めたバベクが、慌てて声のしたほうへ顔を向けた。掲げた松明の火の下に映ったのは、信じられない光景だった。

 賊の頭目が、駆け抜けざまに、地面に転がっていたユーリウスの短剣を左手で拾い上げていた。地面に伏した見張りの足元には、千切られた太い縄が散らばっている。火事場の馬鹿力で、縛(いまし)めを引き千切ったらしい。

 充血した目をぐわりと見開いた男が一直線に向かっていたのは——少女を抱えたユーリウスの背中だった。


「死ねやぁぁぁあああ! 片目野郎ォオオオオオ!」

「ユーリウス様ぁああ!」

 

 バベクはとっさに松明を投げ捨て、肉の盾になろうと走り出す——が、わずかに間に合わない位置だった。

 手負いの熊が、狩人に一矢報わんと狂奔し、剣を大きく振り上げた。

 しかし——この熊は、どこまでも狡猾であった。

 狂ったふりの雄叫びも、大振りの剣も囮だ。背後を突き、さらに死角から追う。確実に仕留めるための算段が、男の目の奥で光っていた。

 だが、その冷徹な算段すら、自慢の丸耳の先を欠かされた屈辱を晴らさんとする執念に突き動かされたものだった。


 セヴェリの紋章が刻印された短剣の切っ先が、動かぬ白い首を捉えた。

 汗を垂らした鬼相(きそう)の目が、三日月に歪んだ。

 今度こそ仕留めた! ——そう思った。瞼を二度瞬かせた。


 血の噴水が吹き上がった。

 真っ赤に染まっているはずのユーリウスの白い首は——無傷のままそこにあった。

 かわりに「短剣を持った己の左手」が、なぜか消えていた。

 

「——あぇ」

 

 男は間の抜けた声を上げた。左の腕が異様に軽かった。平衡感覚が乱れて、巨体は泥地へと尻もちをつく。

 大きなナメクジのような感触が足に当たって、視界を泥の上に這わせる。

 暗灰の土の上には誂え物の短剣と——。

 己(・)の(・)左(・)手(・)が転がっていた。


「ぎゃあああああああああああああああああああっ!」


 男は左腕を押さえながら、絶叫を上げた。

 灼けるような痛みと痺れが同時に襲い掛かり、岩の如き巨体は赤子のように身悶えた。

 苦痛に悶える男のそばで、イゾールが曲剣(スフシュカ)についた血を振り払っていた。下がり眉と死んだ魚の目はそのまま、肩衣の裾で払いきれなかった血を拭いつつ、慌てて駆け付けた私兵たちを叱りつけた。


「……ふいぃ~危ない危ない。おいおまえら、ちゃんと捕まえとかないとだめだろ! こいつは貴重な証拠になるんだから、おいそれと殺せないんだぞ? たくもぉ~、死なないようにするって結構難しいんだからな」


 セヴェリの私兵たちは「申し訳ありません!」と冷や汗を垂らし、泣き喚く男の巨体を起き上がらせ、引きずるように連行する。

 イゾールは「やれやれ」とため息をついて剣を鞘に納めると、ユーリウスの後ろ姿を見て、ぎょっと目を見開いた。

 ユーリウスの首が動いた。血しぶきを垂らした端正な隻貌が、無言で凄む。

 まずったと、イゾールは内心汗をかいた。賊の手を斬り落とした自分は身綺麗で、代わりに返り血を浴びた主君は、たまったものではない。

 慌てて腰から下げていた水嚢(すいのう)を取り出し、機嫌を窺う。

 

「若! 血まみれじゃないですか! ……だ、大丈夫ですか? 口に入ってません? あ、水あるんで口ゆすいどきます? ついでに顔も洗っときましょうか?」

「…………寄越せ」


 ユーリウスは視線も合わせず、水嚢を奪い取った。冷たい真水を口に含んで吐き出したあと、少女を抱え直して立ち上がった。

 投げ捨てた松明の火消しをしていたバベクを呼びつけると、唐突に腕の中の花嫁をずいっと押し付けた。バベクは慌てて両手を差し出して受け取る。


「え、は、若さま?」

「腕がつかれた。子守りを変われ――イゾール! 娘を連れて、すぐにここを離れるぞ。先発組に帰還の準備を急がせろ! それから早馬を一騎だせ。要塞に援軍の要請だ!……バベク小隊長、貴様は要塞の援軍が来るまで、ここで待機しろ。引継ぎが終わり次第、後発組の連中を連れてミルエティ要塞に戻れ。委細はお前に任せる。くれぐれも、警戒は怠るなよ」

「は、はっ!」

 

 「ああ、それと……」と付け足して、ユーリウスは手に持った水嚢をバベクに渡す。引っ込めた手で頬についた血を拭いながら、バベクに抱えられた少女を冷たく睨んだ。


「もし目が覚めたら無理やりにでも飲ませろ。脱水で死なれたら困る……気付け代わりに、顔にぶちまけても構わんぞ。冷たい水をかけられたらさすがに飛び起きるだろ」

 

 わざとらしい悪態をついたユーリウスは、愛馬のもとへ足早に去っていった。狼の尾は体の揺れに合わせて、左右に振れるだけだった。

 その場に残されたバベクは、なるべく静かな場所に連れていこうと歩き出した。

 主君に託された双尾の花嫁は、一見浮浪者と見間違えそうなほどボロボロだった。尻尾の本数が気にならないほど痛ましい姿に、思わずため息がこぼれる。

 バベクは歩きながら、後ろを振り返った。

 火勢の弱まった荷の山で、高価な持参金の数々は黒く焼け焦げていた。焼け残っているのは、中身が抜かれたシヴィーカの紋章入りのた長持ちがいくつかと、割れた葡萄酒の素焼き壺の破片くらいだ。


「——これじゃあ、婚礼の儀は無理だな……」


 娘を持つ父親の同情の混じったひとりごとが、春先の冷たい風にとけた。


***

 

 先発帰還組の支度が終わろうとしていた矢先——それぞれ肩衣を羽織り直したユーリウスとイゾールの元へ、花嫁捜索班のテムリが駆け戻ってきた。

 顎まで伸びた垂れ耳を左右に揺らし、深刻な顔で周囲を憚るように、打ち合わせ中の二人へ声を潜めて話しかける。


「お話中すみません……ご当主、イゾールさん。ちょっと来てもらえますか?」

「ん? おう、どうしたテムリ?」

「それが……とにかく、来てもらえますか」


 言いよどむテムリに、二人は顔を見合わせた。言われた通り、彼についていく。案内されたそこは、街道からほんの少し離れた、湖の方角の立ち林の中だった。

 テムリが持った小蝋灯の灯りが足元を照らすと、草木が生い茂った地面に「腹に短剣を突き立てた丸耳の男」が仰向けで横たわっていた。

 粗野な兵装からして、賊の一人だろう——と、二人は心の内で決めつけた。

 たかが賊ひとりの死体のために、なぜ自分たちが呼ばれたのかと、三つの眼が訝しげにテムリを見た。

 テムリはまっすぐ男の死体を見つめたまま、口を開いた。


「花嫁を捜索中に、林の奥で腹に短剣を刺したまま、歩いていたこいつと出くわしたんです。その時はまだかろうじて息があって、少しだけ話を聞くことができました。馬車が轍にはまって、立ち往生していたところを賊に襲われた、と……」

「襲われた? ……はーん。こいつ、シモン様が護衛役に雇った例の流浪騎兵か。コマドリちゃんをほっぽって、逃げ隠れてたんでしょうね……んで、この腹に刺さってる短剣は?」

「襲撃してきた賊の仲間らしき男がこちらへ逃げてきたので、ひっ捕まえようとしたらもみ合いになって……その時に刺されたと言ってました。黒いローブを着た男だそうです」


 黒いローブの男——荷台にいたあいつか、と部下の会話を黙って聞いていたユーリウスは、馬上から見た光景を思い出す。黒い影の亡霊のような薄気味悪さが、妙に印象深かったのだ。火事の騒動でついぞ忘れていた。

 瞼が開いたままの男を見つめていると、イゾールがすぐそばで膝を折っていた。短剣をひしりと握りしめ硬直している男の手をまじまじと観察しながら、猫背気味の背をさらに丸めてボヤいていた。


「手の込んだ罠張り、伏兵……わかりやすい奇襲策だ。問題は、誰がこの茶番を仕掛けてきたかってことだが……お?」

 

 何かに気づいたユーリウスが、「若」と手招きした。

 屈んだユーリウスは、イゾールが指差すほうを——男の手の指の隙間から見える剣の柄部分を、左目を細めて見やった。

 一瞬の沈黙の後、彼が言わんとすることを理解して、眉をひそめたユーリウスは狼耳を後ろに倒した。

 

「この短剣(サンチャル)の柄……葡萄の蔓と花模様だな。花弁の数は六つ……チッ。なるほど、そういうことか」

「え? どういうことですか?」

 

 ユーリウスの苛立った独り言に、テムリはぽかんとして聞き返す。

 立ち上がったイゾールがへらへらとしながら、解説役に回った。

 

「ああ、テムリは外国から渡ってきたんだったな。知らないか。この国——いや、クフスカース一帯じゃな、葡萄蔓と六花弁の模様を刻んだ装飾品を持ち歩けるのは、ニト聖教の聖職者だけなんだよ。しかも携行が許されるのは能教者(アヴォリテ)以上の上階位者のみ……つまり、神官や司祭たちの身元手形みたいなもんなのさ」

「えっと……じゃあ、まさか……こいつを刺した男はニト聖教の関係者で……しかも襲撃の現場に居合わせていて……つまり、今回の襲撃に聖教院が関わってるってこと……ですか! お、大事じゃないですかぁ……!」

「待て待て、待て。そう答えを急くな。あくまでこの短剣(サンチャル)は、黒いローブの男が流浪騎兵(モグザ・ガル)の腹を刺したって証拠品に過ぎないんだ。短剣の出どころとか、黒いローブの男が誰なのか……いろいろ調べてからじゃないと結論は出せないの。釣りと一緒さ、浮きが沈んですぐに竿を引いたらせっかくの魚が逃げちまうだろ?」

 

 端的な説明に「なるほど」とテムリは納得して垂れ耳をくいっと上げた。すぐそばで聞いていたユーリウスも、そのわかりやすさは評しつつ、釣りの例えが鼻について柳眉を逆立てた。吊り上がった左目は、丸耳の男の死に顔へと向けられる。

 この男がなぜ短剣を離さなかったのか。真意を確かめようにも、冷たく固まった口から聞き出す術はない。

 どこかの哲学者の言葉を借りて、ユーリウスは冷えた心の内で諳んじた——生者は語らず、死者は口を閉じる。真実は、神のみぞ知る。

 左目が、死んだ男の首元からはみ出た聖尾架をじっと睨んだ。

 花嫁の強奪を未然に防ぎ、実行犯の頭目も捕縛した。そして、物証もここにある。自(・)分(・)た(・)ち(・)の(・)政(・)略(・)結(・)婚(・)を邪魔したその功罪が、日の目を見るのは時間の問題だ。


 (売られた喧嘩は、倍額で買ってやる)

 

 例え相手が、神でも、悪魔でも、いたずら好きの悪童でも——必ず、首謀者の首級を挙げる。人知れず、復讐の炎が燃え盛っていた。

 ユーリウスは短く息を吐いて立ち上がると、後ろを見ないままテムリの名を呼んだ。


「テムリ……このこと、お前と僕ら以外に知ってるやつは?」

「いえ、俺らだけかと。まだ、誰にも言ってません。あっ……やっぱり、小隊長にも報告すべきでした、か……?」

「——テムリ。この件、バベク以外には他言無用だ。その短剣も先に回収しておけ。他の誰にも見せず、触らせるな。いいな? ――絶対に、僕のもとに持ち帰れ」

「ひっ! ……は、はいっ! 死んでもグレベトに持って帰ります……! 」

 

 十七の若者が出す殺気まがいの威圧に押され、年上のテムリは尾を丸めた。

 ユーリウスは一瞥(いちべつ)して、街道へと戻っていく。主君の後ろ姿を見ながら「おーお、怖い怖い」と、イゾールは半笑いでわざとらしく肩をすくめて、しんみりとした空気をほぐした。

 

「ほいじゃ、俺らは一足先におっかねえ花婿と花嫁さま連れてミルエティに戻るから、応援が来るまでお前はここで待機してくれな。あとはバベク小隊長の指示に従ってくれ、じゃ、頼んだ!」

「はい、わかりました! 道中お気をつけて!」


 「死なずに生きて帰れよ~」と、冗談めかしながらイゾールは街道へと戻っていった。

 イゾールの背を見送ったあと、テムリは丸耳の男のそばに膝をついた。氷のように冷えたその目元に手をかざし、開いたままの瞼をそっと閉じる。そのまま自分の温かい手のひら同士を合わせ「成仏してくれ……」と小声で呟いた。遠き生まれ故郷の弔いの作法で、死んだ男の冥福を祈る。信じる神は違えど、それはひとりの戦士に捧げる確かな敬意だった。

 

 そしてテムリは、冷たく硬直した指をゆっくりと、短剣から剥がし始めた。

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