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青い星のエルルカ  作者: 高芦ノリベン
第1章【花嫁行列襲撃事件】

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1-8 泥地の激突

 天運の星が、きらめいた。


「ふああっ……ん? なんだ……地すべりか?」


 あくびをしていた見張り番の男が、のっそりと立ち上がった。

 孤立林から抜けた先、夕闇に染まる街道。宵の口に飲まれた道の先に、ぐっと目を凝らす。

 大地の揺れるような地響きが、東の方角から渡ってくる。

 土埃を舞い上がらせた、大きな黒い塊が、轟音を鳴らして迫ってきていた。

 

 山賊(同類)か? ——男は夜目をさらに細めた。

 真っすぐ迷いなく、隼(ハヤブサ)の如き疾さでこちらに駆け迫る、角鎧を纏った峰角馬(ムタルカ)たち。

 そして、二本角の間から垣間見える整えられた兵装の男たち。

 見張りの垂れ尻尾が、一気に逆立った。


「――み、ミルエティの警備兵っ!」


 焦った男は「合図の角笛」を腰元に下げていないことに気づいて、急いで孤立林のほうへ走り出す。

 男は己の散漫さに悔やみながら、岩陰に散らかした荷の中から角笛を探る。

 

「急げ、急げ! 敵……が——」

 

 男の視界を、大きな「青い影」が遮った。

 男は角笛を吹くのを忘れて、思わず振り向く。

 バカな、速すぎる——。

 深い青に似た漆黒の巨体が、二本の足で立ち上がって、硬(・)い(・)蹄(・)を振り下ろそうとしていた。

 

「か……片角(かたつの)——」


 男の言葉はそこで途切れた。

 漆黒の角の間から見えた、ひどく睨み据える翠の片目。

 それが、男が最後に見た光景であった。


***


 倒れ伏す見張りの横を、続々と先遣隊の馬群が通り過ぎていく。


「あーあ、あいつ……運がないなぁ」

 

 イゾールが後ろを振り向いてぼやいた。

 ジュダがひひんっと嘶(いなな)いた。それが得意げだったのをユーリウスは聞かなかったことにした。

 彼らが目指す先——パニヴァ湖の湖畔にひっそりとたたずむ孤立林は、異様なほど静かで、街道を暗い影で飲み込んでいる。だがユーリウスはかまわず暗闇の大口へと突っ込んだ。無鉄砲な若イノシシを追いかけて、部下たちもあとに続く。

 踏み入った瞬間、男たちの目と耳が、一斉に警戒の色を帯びた。あきらかに空気が変わった。

 

 「……近いぞー! 総員警戒! 手筈通りに頼むぞ! いいか、火銃(トュフェク)は絶対使うなよー!」

 

 イゾールの悠々とした掛け声に、先遣隊の兵たちは無言で返した。

 高木の立ち並ぶ街道をひた走っていくと、だんだんと地面のぬかるみが増していく。馬が足を滑らせないように、しかし決して速度を落とすことなく、男たちは手綱を捌く。

 暗闇の先から、何かが燃える匂いが漂った。硝煙と松脂(まつやに)の臭い。そして、焦げ臭さに交じって鼻腔の奥を突き刺す血の錆臭さ。死の神が手招いているような空気の澱(よど)みが、道の先に続いていた。


 眼帯の下、火傷痕が激しくぴりついた。先頭をひた走るユーリウスは、痛みに耐えてぎしりと奥歯を噛みしめた。

 ジュダの手綱を引き絞ろうとする手を、切れ長の左目が睨みつけた。

「くそっ」——心の内か、あるいは声に出たのかはわからない。

 迷いを振り払うように、ユーリウスは曲剣(スフシュカ)を勢いよく引き抜いた。

 

「——剣を抜け! ——双尾の娘をかならず捕らえろ!」


 低い真鍮(しんちゅう)の喊声(かんせい)が、カワセミの地鳴きのように響き渡った。


***


 (……トリの……こえ……)


 痛む頬を下にして、ぐったり横たわるエルルカの伏せていた猫の耳が立ち上がった。

 荷台が——ほんのわずかだが——小刻みに震えていた。そしてその不明瞭な振動は、だんだんと音を立てて、明瞭さを増していく。

 荷台の上、こんもりと膨れた麻袋の傍で、膝をついていた黒ローブの男が足元の振動に気付いて顔をあげた。

 

「なんの音だ……?」


 男は頭巾(フード)を下ろして、白髪交じりの丸耳をぴんと立てた。手に取った蝋灯(ランタン)を音のする方へ掲げる。

 東へ続く街道の先、暗闇のなかに困惑の目を凝らした。

 泥にまみれた白い馬車の車輪が、みしり、と音を立てて少し沈んだ。

 

 撤収作業をしていた賊たちも「なんだ、なんだ」と各々手を止める。

「手を休めるな!」とムタルカの上から怒号を飛ばす賊のカシラも、手下の様子にならい眉をひそめてあたりを見渡した。

 

 道の先に顔が向いた——その一瞬であった。

 血走った眼が、銀のきらめきを見た。

 音もなく、地面に一矢が刺さった。蹄と紙一重であった。

 カシラのムタルカが突然の強襲に驚いて、二本角を振り立てながら躍り上がった。


「うおおおおおおっ! な、なんなんだぁ!」

 

 暴れ馬と化したムタルカを必死で宥めながら、カシラは馬上からその砂利声を大きく張り上げた。


「ちくしょう! おい! 敵だ! こっちも撃ちかえ――」

「ぎゃあっ!」

「ぐあっ!」

 

 大将の盾にならんとした手下の二人は、喉元に矢を受けてその場に崩れ落ちる。それを皮切りに、次々と矢が射られた。

 カシラの号令を遮(さえぎ)って、賊たちの足元を塞ぐように放たれる矢の挙動は、恐ろしいほどに正確である。

 人も馬も、強襲の網の中で魚のように暴れて跳ねていた。静まり返っていた泥地は、ふたたび喧騒と混乱の渦に巻き込まれていった。

 

 馬車の影に身を隠していた賊の一人が、矢の雨が止んだ隙に物陰から顔を出した。

 

「あの野郎、見張りをトチりやがったのかよ、くそ! 一体だれ……あ、あれは……っ!」


 賊の顔が青ざめた。尾が無意識に足の間へと逃げた。手にした火薬筒が、ぬかるみへと落とされる。

 

 硬い蹄(ひづめ)が大地を蹴り上げる轟音。

 空気を揺らすムタルカの群嘶(ぐんせい)。

 二本角の馬群を引き連れて、先頭を走るのは片角の青毛。

 そしてその馬上に跨っているのは——立派な狼耳を切り立たせた、隻貌の男。

 

 夕闇の中、松明の火が、彼(・)ら(・)の(・)姿(・)を(・)さ(・)ら(・)し(・)た(・)。


 「――かかれぇぇぇぇ!」


 主君の遠吠えに共鳴して、セヴェリの兵たちが一斉に唸り声をあげた。

 

「せ、セヴェリの……焼け爛れ(クヴァリ・カン)だ!」

 

 襲撃者の正体を知って、男は腰を抜かしながら後退りする。が、遅かった。五歩も進まぬうちに、目の前に巨大な馬体が迫っていた。

 ユーリウスは剣を掲げたまま、「敵陣」のど真ん中に突っ込んでいった。

 手綱は引き絞られることなく弛み、脹脛で腹を叩くと、突撃の合図を汲み取ったジュダが猛獣のようにハミを噛んで加速した。

 まっすぐ「敵」に向かって駆けるジュダの片角が、火銃の口を向ける賊の体を勢いよく弾き飛ばした。

 まさに身を挺した突撃——大将自らが、強襲の口火を切ったのだ。

 

 「相変わらず無茶をする」とイゾールをはじめとしたセヴェリの騎兵たちは呆れ顔をしながら——しかしどこか誇らしげな色を滲ませ——若武者に追随し、銀刃の切っ先を敵に向けた。

 北方の峻険に鍛えられたムタルカの脚で、泥地をものともせず駆け抜け、一塊となって襲い来る様相は、まるで牙を剥いた巨大なイノシシだった。


「ばかな……っ。よりによって、なんでセヴェリの連中が来やがるんだ! 聞いてた話と違うぞ!」

 

 カシラの耳が震えて後ろへ伏せる。弱者をいたぶることしか知らない大男は、まさか自分が狩られる側に立つことなど考えもしなかったのだ。

 群れの長(ボス)の隠れた恐怖心は、可愛い子分たちにも伝染していった。

 迫り来る予想外の敵を前に、賊たちはうろたえてばかりである。

 手下たちは冷や汗を垂らして、へっぴり腰で得物を持って構えたまま、馬上のカシラに指示を仰ぐ。

 

「お、お、おおお、おカシラ! 俺たちどうしたらっひいいぃぃぃ!」

「た、たすけてくれ! 殺されるっ! ぎやあああああああっ!」


 馬上から斬られる者、ムタルカの剛脚に潰される者、あるいは鋼のように硬い二本角に吹き飛ばされる者。

 悲鳴と叫びと怒号があたりに響き渡る。

 シヴィーカ家が用意した急ごしらえの行軍にはなかった「統率力」によって、賊たちは順繰りに地へ臥していく。

 剣戟の騒音の中、跳ね返った泥に端正な顔を汚したユーリウスが大声を張り上げた。

 

「賊は一人たりともここから逃がすなぁ! 双尾(ふたさび)の娘を探せ!」

「若! 前に出すぎ! 下がってくれ!——トマ! テムリ! 女の子はいたか! 空色の髪、長い尻尾が二本、花嫁衣装(サヴァカ)着てる十歳くらいの女の子だぞ!」


 すでに馬上から降りて、短剣(サンチャル)で賊の喉を裂いたイゾールが、ひいこらと息を荒げてジュダの頭絡を掴みながら、若手の兵に向けて叫んだ。

 

「——イゾールさん! 馬車はもぬけの殻っす!」

「——こっちにもいません! 湖のほうを探してみます!」


 花嫁を捜索していた巻き耳のトマが、馬車の車室から若く張りのある声で叫んだ。同様の報告が、テムリからも上がる。


 (どこだ、どこにいる! まだここにいるはずだ!)

 

 ユーリウスは馬上から混戦する戦場を見渡した。

 空色の髪と二本の長い尾。頭に叩き込んだ花嫁の身体的特徴。

 点在する松明の灯りを頼りに、翠の片目が懸命に探す。

 泥地に沈む尾の長い屍を見るたび、ユーリウスは血の気が引くような感覚に陥った。


 カシラは顔を真っ赤にして、むざむざとやられる手下たちを前に手を拱(こまね)いていた。

 怒りと焦りが入り混じった脂汗を噴き出しながら、この場を切り抜ける上手い立ち回りをなんとか絞り出して、後方にいた荷台を取り囲む手下に向かって叫んだ。

 

「ええい、片目野郎のくそったれめ……お前ら! 荷だ! 荷をムタルカに乗せろ! アレさえあればこっちのもんだ!」

「ええっ! 全部は馬に乗りませんよ!」

「ばっきゃろう! 麻袋に詰めた野兎だけに決まってんだろうが! 他の荷は捨ててけ! 急げ!」


 黒茶の癖毛の中で、砂利声を拾った狼の耳がぶるりと震えた。

 

 (荷だと? ……まさか!)

 

 ただの物盗りが、命を惜しんで荷を持ち帰ろうなどとするものか。それが一体何を指しているかは、状況が雄弁に語っている。

 ユーリウスは片方の目で「荷」を探した。


「——荷台(アレ)か!」


 翠眼が見開いて、獲物の在処を睨み据える。

 乱雑に散らばる蓋の開いた長持ちに囲まれた荷車があった。

 むき出しの持参金がうず高く積もった荷台の上に、蝋灯を持った黒いローブの男がひとり。

 

 そして、男の足元に、奇妙に膨(・)れ(・)上(・)が(・)っ(・)た(・)麻(・)袋(・)がひとつ——結び口からは、生白い二本の華奢な子供用の靴を履いた足が力なくはみ出ていた。

 探していたものは、確かにあった。

 盗品に入り混じり、打ち捨てられているようにして、そこに居た。

 

 黒茶の尾の毛が、剣山の如くぼわりと開いた。

 気づけば、硬直した脹脛(ふくらはぎ)がジュダの腹を叩いていた。

 

「うあああ、若! だめだってあああああっ!」


 イゾールの情けない必死の制止を振り払って、青毛の馬体が荷台に向かって駆け出した。だが――。


「行かせるかぁ!」


 ユーリウスの前に、敵の大将首が乗ったムタルカが立ちふさがった。

 二本角の間から見える獅人(カスラル)の大男が、血走った眼を三日月に歪め、黄ばんだすきっ歯を覗かせた。

 

 「よくもおれの可愛い子分たちをぶっ殺してくれたなぁ! てめえのもういっこの目ぇ潰しても足りねえぞ! その顔ごと焼いて湖に捨ててやるよぉお! 死ねやぁぁぁああああ!」


 大岩のように進路を塞ぐ大男は、侮蔑の言葉をここぞとばかりに並べ立てながら武器を構える。

 王家の血筋に連なる者に対する不敬など知ったことではないと、ムタルカの上から大言壮語を吐き捨てた蛮勇の歪んだ顔が、ユーリウスを睨んだ。

 

 ユーリウスは黙ったまま、怒りに満ちた目で睨み返した。ジュダも同じだ。眼前の大岩を前にしても、その剛脚は止まらなかった。

 馬の首の後ろに、身を隠すように低く上体を屈める。手綱が緩み、そして黒革手袋からするりと抜けていく。手に持った鞭が、青毛の馬体を叩いた。

 それを合図に、ジュダは「全速力」で突進した。

 

 荒くれの流浪騎兵(モグザ・ガル)が好んでやりたがる捨て身の戦法。

 ユーリウスの意図を知った大将首は焦った。

 

 「こ、こいつ、 イカレか――」

 

 迎撃態勢を取る間もなかった。ジュダの脚のほうが速かった。

 

 ゴオォーン——巨木がぶつかり合うような大きな音。

 火花を散らせそうな勢いのムタルカ同士の「角突き合い」。

 二本角のムタルカは、欠けた一本角の気迫に押されて、嘶きながら上体を空へと舞わせた。

 大岩が泥地に滑り落ち、汚れた飛沫を跳ねさせる。


「ぐっ! ……くそっ! あんな小枝みてえなクソガキに! ぶっ殺してや——あ、あぁ?」


 馬上から振り落とされた屈辱を晴らさんと、その巨体を素早く起こし、真っ先にジュダへ目が向けられる。

 だが、居るはずの鞍(そこ)には、誰もいなかった。


 「片目なしめ、どこに行きやがった!」

 

 空馬を残して消え去ったユーリウスを見つけようとあたりを見まわした瞬間——なぜか、男の視界がぐるりと回った。

 

 両足が宙に浮く。息つく間もなく、あっという間に地面に背中を叩きつけられた。

 

 尾の根が巨体の重さに押しつぶされ、雷に打たれたような痛みが全身を襲った。カシラはひっくり返された虫のような歪な姿勢で体を硬直させた。

 その一瞬の隙をついて、硬い膝頭が太い首の喉笛を的確に捉えて、ギリギリと力強く圧迫した。

 強い痺れに解放される間もなく、気道を押さえられた息苦しさに、カシラは死にかけの魚のようにのたうち回った。

 カシラは自分の状況を理解できずに——正確には理解したくなかった——苦痛と屈辱で顔を歪ませながら、薄眼を開いた。

 

 翠の左目が、道糞を見るように見下ろしていた。

 猛禽の鋭い眼光に似た目に睨まれて、カシラはひっと喉奥から可愛らしい音を零した。

 小枝と罵った痩躯の、一体どこから発せられているのかと疑いたくなるほどの圧倒的な力を前に、巨体はただ石のように寝転がるしかなかった。

 かぎ爪代わりの曲剣(スフシュカ)が、地面に突き立てられる。切っ先が、獅人(カスラル)の耳先をほんの少し斬った。

 子鹿のような泣き声が、情けなく響き渡った。


 「チッ、ドブクサが……バベク小隊長! こいつを縛っておけ!」

 「はぁ、はぁ……若様! さすがに無茶し過ぎです! イゾール殿がゲロ通り越して血を吐きそうになってますよ」

 

 小隊長のバベクが、古傷だらけの尻尾を振り乱しながら駆け寄って押さえ役を代わる。

 小さな丸耳を後ろに倒しながら、息子ほど年の離れた主君の無鉄砲さに諫言(かんげん)を呈した。

 少し離れた所では、顔面蒼白のイゾールが興奮して角を振り回すジュダを必死に宥めている最中であった。血を吐きそうという証言はあながち間違いでもないようである。ユーリウスは悪びれることもなく、ふんっ、と鼻息を荒く鳴らすだけに留めた。

 

 大立ち回りですっかり乱れた癖毛の前髪をかき上げ、それが合図のように意識を「双尾の奪取」へと切り替えたユーリウスは、すくりと立ち上がった。賊を捕らえながら、バベクの目は自然と主君の挙動を追いかけた。

 

 髭も生えていない、眼帯に覆われたその顔は、冷たくカシラを見下ろしている。つい先ほどまでの荒ぶりはどこへやら、自分の倍もある大男を制圧したばかりだというのに、その目はすでに昂奮から抜け出し、耳も尾も揺れることなく平静を取り戻している。

 血気盛んな若者にあるまじき、完璧な感情の管理(コントロール)。歴戦のバベクも、舌を巻くどころか、少し気味が悪いとさえ思った。

 末恐ろしい御方だ、とバベクはその丹力と無鉄砲さに息を飲んで見上げた。

 ユーリウスはその畏敬の眼差しがさも当たり前のように受け流して、何も言わずに曲剣(スフシュカ)を鞘に収めた。

 

(……アレを探すか)


 ほんの一瞬のゆとり。

 振り返ったユーリウスが駆け出そうとした——が、ニ、三歩進んだところで、すぐに足が止まった。

 その場にいた者たちは、みなはっとして、思わず息を飲んだ。

 

 翠の片目が、赤熱する光に染まっていく。

 ユーリウスの呼吸が、止まった。


***


 簀巻きにした神の御子の傍で腰を抜かすローブの男は、かちかちと歯を震わせていた。

 尾は股座に隠れ、後ろに伏せた耳は、ぼさぼさの髪の中に情けなくうずまっている。


 (遅延連絡は確かに受理されたはずだ……いや、事が露見したにしても、早すぎるっ……なぜ、ミルエティ要塞の警備部隊ではなくグレベト公が——あのユーリウスが、ここにいるのだ!)

 

 厳格なまでに規律を貴(たっと)ぶことで恐れられる男が、軍事の不文律(ルール)を破り、領主自らが率いて双尾(はなよめ)を奪い返しに来た。想定外の出来事だった。

 このままでは計画が頓挫するどころか、上位階の司祭たちまで巻き込む大騒動に発展しかねない。

 捕まれば、尋問され罪に問われるのは目に見えている。たとえ神に仕える者として酌量され、生きて帰れたとしても、五体満足で人並みの生活を送れる保証はどこにもない。どのみち、双尾を連れて帰らなければ、自分がその責を問われて、異端審問に掛けられる可能性もある。

 進退両難。女神に忠誠を誓う男にとって、考えうるなかで最悪の状況だった。

 

 目の前で繰り広げられる阿鼻叫喚の喧騒のなかで、男の目は片角のムタルカに跨るユーリウスから目を逸らすことが出なかった。

 一刻も早く立ち去るべきだと頭では理解しても、足が思った通りに動かないのだ。

 ついにユーリウスの隻貌がこちらを捉えた時、ローブの男は慌てて顔を隠すように頭巾(フード)を被って、体を震わせた。

 

「ひいぃっ……まずい、こんな所で捕まったら、わ、わたしは……っ」

「邪魔だ! どけ!」


 双尾を連れ出せとの命令を受けた賊が、荷台の男を退けようと腕を伸ばす。しかし、遠方から放たれた矢が、容赦なく賊の頸動脈を射貫いた。

 首に矢が刺さったまま、賊は荷台の上に骸となって転がった。


「ひっ……い……!あ、あ、アアアア……!」

 

 人の息絶える瞬間を目の当たりにして、ローブの男は激しく取り乱した。なかば転び落ちるように荷台から逃げ出だした。

 だが、振り向きざま、もぞもぞと毛虫のように動く麻袋を目にして、男の足は主(・)命(・)を思い出して立ち止まった。


(い、いやダメだ……双尾(ふたさび)さまだけは、なんとしてでも連れ帰らなければ! ……今ならまだ、ここから抜け出せるはずだ……神に誓って、わが命に代えても必ず御子をお連れする!)


 神の子を世俗の政に巻き込んだ王家への、正義の怒りと使命感が湧き上がり、ローブの下で縮こまっていた尻尾が逆立った。

 男は意を決して麻袋に手を伸ばした。

 

 だが、ほんの瞬き——片角のムタルカとの「角突き合い」に敗北して、カシラを振り落としたムタルカが、暴れまわって荷車へと頭ごと突っ込んできた。

 凄まじい衝撃音と共に荷車が車輪ごと大きく横倒しになった。地面に捨てられていた腐った葡萄酒の素焼き壺も、混乱するムタルカが蹴りあげていった。

 

 積まれていた嫁入り道具の数々が宙を舞う。

 麻袋に入ったままのエルルカも、低い放物線を描きながら放り出される。

 葡萄模様の壺、子供用のタラカ、毛皮、装飾品——そして深縹(こきはなだ)の革本と一緒に、幼身は泥地の上に叩きつけられた。

 

 「ひっ……ひいぃああぁ!」

 

 剣戟(けんげき)の音、荒馬の嘶(いなな)き、賊たちの悲鳴、頭上から押し潰さんと迫る荷車――戦場の空気に慄いて、ローブの男はたまらず尻尾を巻いた。

 そのまま双尾の娘を置いて、湖の方角へ、林の闇の中へと逃げていく。焦って手から滑り落ちた蝋灯(ランタン)にも、気づかないままに。


 落下の衝撃で、横倒しになった蝋灯(ランタン)の蓋が開いた。受け底に溜まっていた油が零れて、黒蛇のように泥の上を這った。

 その行く先には、真っ黒に染まった美しい絹織物の塊があった。割れた葡萄模様の壺からばら撒かれた蜜のような粘る液体が、大量の綾絹をぐっしょりと濡らしていたのだ。

 黒蛇の頭が絹に触れようとしたその時、油の筋を舐めるように伝ってきた蝋灯の火が、濡れた絹に燃え移った。

 火は、粘る油を糧にして、たちまち真っ赤な悪魔へと成り果てた。

 荷車や散らばった嫁入り道具を食らって、勢いを増していく火は、暗闇の孤立林を赤々と照らし出した。


 星が瞬き始めた空の下、火花が舞い上がった。

 そして火は、やがて大火となった。

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