↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
青い星のエルルカ  作者: 高芦ノリベン
第1章【花嫁行列襲撃事件】

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

13/19

1-7 目覚めぬ悪夢

※子供への暴力表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。

 雪薔薇の王子はぼろ布のマントを掴み、勇猛なる男の行く手をさえぎってこう言った。

「行ってはいけない。影の王国に足を踏み入れた生者は、みなことごとく影の王の従属者になり果てました。あなたも影の住人になってしまう」

 なれど、黒鋼の手甲がその手を払い、扉の前に立ちふさがって声高らかに叫んだ。

「たとえこの扉のさきに、万の怪物が待ち構えていようとも、我は恐れぬ。すでに復讐の呪いに染まったこの身、影の王の呪いなど恐るるに足るものか」

 漆黒の兜をかがやかせた青影騎士は、一角獣(トールカ)に跨って、銀水晶の剣を頭上に掲げた。

「この剣は勇気ある者に力を与えるのだ」

 青影騎士は影の世界の扉を開いた。夜の闇より暗く、冬の寒さより冷たき影の世界。騎士の勇気に心打たれた優しき王子は、自らの供である白いロバに跨った。

「悲しきさだめを背負いし旅人よ、勇敢なる我が朋友よ。供することをお許しあれ。この身、盾となることをこの剣にかけて誓いましょう」

「冷たき薔薇王の子よ、慈愛深き我が朋友よ。汝の気高き勇気は百万の怪物にも勝ろう。いざ、共にゆかん」


 【ロミオ・アラミアン著 青影騎士物語 第四記 薔薇の王、影の城 より】


***


 どれくらいの時間が過ぎただろうか。気づけば暴嵐のような騒々しさはおさまり、あたりは不気味なほど静まり返っていた。


 (……静かに、なった……?)

 

 諳んじるのをやめたエルルカは、暗闇の中で身を起こした。灰色のベルベット生地は、すっかり砂泥の汚れにまみれている。

 白いウィンプルの下、猫の耳とちいさな三角眉は不安そうに下がったままだ。


 (……おわった、の? あの騎士の人は? ほかのみんなは? あの侍女は? )

 

 恐る恐る床から顔を離して閉じられた扉を見上げると、かすかな話し声が扉の向こう側から聞こえてきた。


「……おい、例のガキはここなのか?」

「……ええ、そうよ。あなたたちが行ったら怯えて出てこなくなるわ。私が行く。余計なことはしないでちょうだい」

 

(この声……!)


 聞き馴染みのある声に、それまで足の間におさまっていた空色の尻尾がにょきっと這い出た。双尾がゆらりと揺れる。


「おい、コ(・)レ(・)をどかせ」


 聞き覚えのない野太い砂利声が冷たく言い放った。

 どさり、と重たい何かが泥土の上に落とされる音が聞こえたのちに、間もなく扉が明けられた。

 顔を煤と土に汚した侍女が姿をあらわした。


 「——……あぁ、お嬢様!」

 

 エルルカの姿を見るなり、大げさに赤茶色の耳と眉尻を垂れ下げ、猫撫で声で駆け寄ってきた。人がまるで変わった態度に、エルルカは思わず身を固めた。


「ご無事でしたか! よかった! どこもお怪我はごさいませんか?」


 侍女は我が子を慰めるような手つきでエルルカの顔を撫でまわし、その身に傷がついていないかを確認する。驚きで橙の目を見開く少女はされるがままだ。

 しかし、恐怖と寂しさで凍えていた幼子に、女の柔らかい手はあまりに温かかった。

 抑圧していたひと肌恋しさを思い出して、エルルカは思わず侍女にひしりと抱きついた。だが直後に、「はしたない!」と叱られる未来を想像した体が、反射的に離れようとする。

 しかし、侍女の細腕は、逆にエルルカをぎゅっと抱き寄せた。


「もう大丈夫ですからね。盗賊が襲ってきたんですが、騎士たちがみな追い返してくれましたよ」

 

 そう言いながら、侍女は小さな背をあやすように撫でつけた。

 侍女の言葉にエルルカはほっと胸を撫で下ろす。いつぶりかの撫で心地に、無意識に体を預けた。

 

 (ああ、よかった。この人が無事でよかった。騎士のひとたちも、あの男の人も生きてるんだ。みんなが悪い人たちを追い払ってくれたのね! すごい……! 本当に、物語みたい……!)


 三角耳の男のいたずらっ子の笑顔が思い浮かぶ。もしかしたら、花嫁を助けたご褒美で罰を受けなくてよくなるかもしれない——などと、蒙昧な想像で頭の中がいっぱいだ。

 侍女の胸元に埋めていた顔を上げる。初めて見る優しげな侍女の顔に、自然と頬が綻んだ。されてきた仕打ちもすっかり忘れて。

 侍女が煤に汚れた手で、花嫁のウィンプルを目深に整えなおした。女は小さな白い手を握りしめる。


「さあ、ここから出ましょう。大丈夫……すぐにお迎えがきますからね」


 白布で覆われた視界のまま、エルルカは侍女の誘導だけを頼りにして、ゆっくりと体を動かした。

 開かれた扉の先に目をやる。すっかり暗くなった世界に、いくつかぼんやりと松明の火が見えた。うるさい物音と男たちの大声が聞こえてくるが、エルルカの足が立ちすくむことはなかった。

 外へ出ることの戸惑いはもうない。

 嵐を越えて、エルルカはすっかり凱旋(がいせん)する青影騎士になりきっていた。

 車室から身を乗り出し、小さな階段(ステップ)をゆっくり踏みしめて降りていくと、一陣の冷たい風がウィンプルを揺らした。

 暗灰色の泥地に足を下ろした瞬間、風に乗って、何かが小さな鼻腔を掠めた。


 (あれ……でも、この匂いは……——)


 嗅ぎ慣れたその臭いの正体に気付いたのと、侍女の手がエルルカの手首をがっと強く掴み直したのは同じだった。

 先ほどまでの労わるような優しさとは違う。痛いほどに腕を強く引っ張られたあと、今度は後ろから両肩をがしりと強い力で握り掴まれる。

 まるで人形のように振り回されて、視界を覆っていたウィンプルがずり落ちた。


「……ほら、連れてきたわ。これが、エルルカ・シヴィーカ……双尾(ふたさび)の娘よ」


 侍女が冷淡な声色で言い放った。優しい仮面を捨てたその顔は、白粉がひび割れるほどに歪んでいる。 

 偽りの優しさに裏切られた悲しみに浸る間などなかった。

 エルルカは「ひ」と小さく喉を鳴らした。耳も尾も怯えて、めいいっぱい隠れ伏せている。


(……なに、これ)

 

 目の前の光景が——血の澱(よど)みの上に横たわる見知った屍たちと、下劣な笑みを浮かべる見知らぬ血まみれの男たちが、何も知らない少女の本能に警鐘を激しく鳴らさせた。

 開けた視界(現実)が、正体を現した。


*** 


 泥地の孤立林の街道だけが、すっかり影の帳(とばり)に覆われていた。

 強襲(しごと)を終えた賊たちが、松明を持って、馬車の周囲をうろつく。

 その足元には、こと切れたシヴィーカの騎士と流浪騎兵(モグガ・ザル)たちの亡骸(なきがら)が無残に散らばっていた。

 

「……何人か逃がしたな。追いかけなくていいのか? 援軍を呼ばれたらやばいだろ」

「お頭(かしら)が追うなとさ。警備兵が来る前にさっさととんずらするんだと。早くこの上等な荷をまとめるぞ。おい、長持ちは捨ててけよ! 中身だけ出して、荷台にありったけ詰めこめ! サ(・)ル(・)バ(・)バ(・)したやつは耳(・)斬(・)り(・)だからな!」

「アクバルのやつ、こんなことでおっちんじまうなんて、馬鹿な奴だ……お。この兜野郎、良い短剣(サンチャル)持ってんなぁ……バレないようにっと」

「うほー、こりゃすげえ。シャバーラの絹織りに、銀と紅玉(ルビー)の首飾り、こっちは葡萄酒(グヴィン)の素焼き壺がたんまりだ。こんだけありゃ当分は……ん? にしてもこの酒、なんか変な匂いがするぜ? 腐ってんのか?」


 シヴィーカの家紋が施された長持ちの中身を漁り、金目の物を次々と取り出していく者。仲間の死を弔うこともなく、戦利品をくすねる者。

 返り血と泥汚れにまみれた賊たちが、騒々しく後始末をしているのを横目に、汚れた馬車の前では「本命の取引」が行われていた。

 

「へえ、これがあの狂領主の娘かよ。てっきり、骸骨みたいな化け物を想像してたんだが……げへへ、ずいぶんな上玉じゃねえか」


 松明の灯りに照らされて、血走ったギョロ目を三日月に歪めた顔が浮かんだ。

 垢まみれの太い指がエルルカの細顎を乱雑に掴む。猫耳の先から顎の付け根まで嘗め回すような視線を這わせ、青白く震える細面を覗き込んだ。

 眼前で大岩のようにエルルカを見下ろす獅人(カスラル)の大男は、全身から鉄さびと泥と獣臭さが混ざった強烈な腐臭を漂わせる。

 エルルカは男の手を払いのけて鼻を塞ぎたかったが、侍女に肩を強く掴まれてはそれも叶わない。声を上げる代わりに、橙の瞳が濡れて揺れるしかなかった。


「? なんだこのガキ、口(・)き(・)け(・)ず(・)か? 」


 世間知らずの貴族娘が子鹿のように泣き喚くのを期待していた男は、がっかりしたような口調で不遜な言葉を投げた。

 侍女がすかさずに訂正する。


「口きけずじゃないわ。喋れはするわよ。でも、何かあるといつもこんな風に貝みたいに口を閉じるの……ま、わたしもこの娘の声をまともに聴いたことなんて一度もないけど」

「ああ、そういうやつね。可愛いねえ……どれ、じゃあ次は尻尾だ。ちゃあんと、二本あるのか確認させてもらうぜ。替え玉でしたじゃあ、シャレになんねえからな」


 おい、と毛むくじゃらの顎を上げた。片耳が欠損した手下がそばに寄ると、侍女は顔をしかめながら、エルルカの体をちょうど男たちに背を向けるようにぐるりと回した。


「脱がせたほうが手っ取り早いんだが、雇い主に止められてるんでな。服の上から確かめろ」

「へいっ」


 手下の男が無造作に花嫁衣装(サヴァカ)のスカートをたくしあげる。布の下に隠れ潜む二本の細長い尾が姿を現した。

 双尾(ふたさび)は毛を逆立たせ、震えながら少女の足の間に潜ろうとする。空色の柔毛が、ぶわっと広がった。


 「……やっ!」

 

 手下の男の手が伸ばされ、エルルカは小さく悲鳴をあげた。

 幾重にも重なった服の一番下——本来なら身内以外には見せることのない——絹の下着(シュミーズ)の尾孔(テールスリット)のあるところにまで、無遠慮に汚い手が迫った。

 男はまるで家畜相手にする手つきで、服の上からエルルカの腰をまさぐった。そして尻尾の付け根あたりにその手がたどりつくと、執拗に生(・)え(・)際(・)の感触を確かめていた。

 そこは、決して触らせてはいけない聖域。たとえ、親兄弟の間柄であっても、許可なく尾(・)の(・)根(・)を見ること、まして触ることは暗黙の禁忌だ。この地に住まう者たちはみな、そう幼い頃から厳しく教えられている。とくに女人であれば、戒律はさらに厳格になる。許しなく触れることができるのは、産婆と医者くらいだ。

 父の狂愛の元で育ったエルルカもその例に漏れず、よほどのことがなければ他者に触れさせることはなかった。

 だがその聖域を、見知らぬ人間に、不躾に触られるという未知の脅威。肌の下にナメクジが這うような気持ちの悪い感覚。サヴァカの下の細い体は小刻みに震え続けている。

 エルルカは恐怖から逃れようとして、目の前の侍女のサラカに縋りついた。


 (やめて、やめて、こわいよ、さわらないで……! たすけて……っ)


 涙をためた橙の瞳が見上げた——かがり火に照らされた侍女は、化け物を見るような目つきでエルルカを見下げていた。

 すうっと血の気が引いて、縋っていた手が離れていく。

 自分は、巣穴の外に放り出された。エルルカはようやく事態を理解して——本当はとっくに気づいていたのを知らないフリをして——唇を噛み締めた。

 途方もない絶望に暮れる幼い花嫁をよそに、大人たちは淡々と事を進めていく。

 

「……おカシラ。こいつはホンモンだ。ちゃんと、尾の根から二本生えてる。ためしに尻尾のさきを少しちょん切ってみても——」

「それはやめて。双尾(ふたさび)は傷ひとつ付けずに引き渡すように言われてるのよ。私が証人になるんだからそれでいいでしょ? 」


 頭上で交わされているのは、まるで羊を売り買いするような怖気立つ会話だ。

 痛みに喚く鳴き声と赤い血を本物の証としようとする手下の提案に、侍女は眉を吊り上げ拒否する。エルルカの肩を掴む手にぎゅっと力が入り抱き寄せる形になる。そこに車室で見せた慈愛はない。

 肩の痛みに耐えながら、エルルカは自分の尻尾を守るように、尾の先をぎゅっと掴んだ。

 

 涙で滲んだ橙の目が、ふと横に流れた。

 エルルカは息をのんだ。——馬車の階段(ステップ)の下、歪な恰好で横たわる、胸から木の棒を数本生やしている三角耳の狗人(ザルハン)。

 あの時、手を伸ばしてくれた騎士が、すでに生者でないことを、泥の中に沈むぴくりとも動かない尻尾が物語っていた。

 

 「ふんっ、まあいいか……おい、そんなとこに隠れてないで、あんたも確認してくれよ。ダンナ」


 カシラと呼ばれた大男が、すっかり暗くなった林の方へと声を投げる。草やぶが茂る木陰から、片手に蝋灯(ランタン)を持った人影が現れた。

 油溜まりの受け底から伸びる油蝋の灯りに照らされて、全身を覆い隠す黒いローブ姿を確認すると、カシラが手下を引き下がらせた。

 人目を気にするように頭巾(フード)を目深に被った男——ダンナと呼ばれた黒ローブの男は、ひどく青ざめた顔を布の下から覗かせると、おそるおそるギョロついた目をエルルカへと向けた。

 毛を逆立ててぶるぶると震える空色の双尾と、無残に下衣を晒される少女の姿を視界にとらえた瞬間、男は「ひっ」と小さく悲鳴にも似た声を上げた。

 その手が震えながら、祈りの手を組んだ。


「……確かに、双尾(ふたさび)様で間違いないでしょう。報告にあった通りの空色の長尾(ちょうび)、年の頃も合っています。ああ、女神よ……御子の尊き聖体への粗略な行い、罪深き子らを許したまえ……」


 祈りの手を組んだまま、男は影のように俯いたエルルカに近づく。

 赤茶耳を後ろに伏せた侍女は、喜びが混じった震え声で話しかけた。


「この通り、双尾様(ふたさびさま)をお連れしましたわ……これで、お約束は果たしていただけます……のよね?」

「え……ええ、わが主も、さぞお喜びになりましょう……しかし、私はあくまで使いの身なれば……。成果をお示しになられるなら、その、証を持ち帰られることをおすすめします……」

「証……なら、これでもいいわよね」


 そう言って、侍女はエルルカの花嫁衣装(サヴァカ)の腰に巻かれた銀細工の飾りベルトの留め具に手をかける。

 それは花と矢のモチーフをあしらった、シヴィーカ家の女だけが着用できる誂えの装飾ベルト。証とするには十分である。

 エルルカは抗うことなく、黙ったままベルトが外される音を聞いていた。重たく身を締め付けていたものが取り外されると、皮肉にも少し体が軽くなった感覚を覚えた。

 しかし、いまさらだ。いまさら、枷(かせ)を外されたところで、その身軽さは凍った心を溶かすまでにはいたらない。

 運命を受け入れた仔羊の眼(まなこ)に似た虚ろ顔が、ゆっくりと首をもたげた。

 松明の火が揺らめく中で、花嫁の荷を貪(むさぼ)るハゲワシたち。

 そのうちの一人が、長持ちの中から大人が両手で抱えるほどの一冊の「本」を取り出した。

 深縹色(こきはなだいろ)を基調として、古金細工の厳かな装丁が施された美しい革装本だった。

 それが赤橙の炎の前に掲げられた時、橙の目は大きく見開いた。

 

 それは暗い思い出の故郷から、たったひとつだけ持ち出したエルルカの宝物。

 それは誰から贈られたものなのかもおぼろげな、手垢がたくさんついた古びた絵物語。

 それは孤独だった少女に勇気を教えた『青影騎士物語』。

 

 大切なものが、賊の手に渡ろうとしている——その卑劣な行いが、凍りついていた体の奥に熱を灯した。

 

 融解した心の臓が、今度は沸騰するような熱さに襲われた。

 悲しみとも、恐れとも、嘆きとも違う。

 冷たさとは反対側にある熱情。

 浮き立つように血が巡る。

 枷の外された体が、足が、羽のように軽くなった。

 空色の柔毛が、ぼわりと逆立った。

 

 (それは……それだけは……!)


 熱さは立ち向かう勇気となって、耳と尻尾に共鳴する。

 貝の口が、がばりと開いた。


 「……だめっ!」

 

 「はっ?」と侍女が驚いた声を上げた。

 赤茶耳は確かに、はっきりと「その声」を聴いた。

 その腕の中に捕えていたエルルカを、信じられないという目で見た瞬間だった。

 エルルカが肩を掴む手を振りほどいて走り出した。

 「こら!」と捕まえようと手を伸ばすも、あっという間に届かなくなる。

 暗灰色の泥が跳ね返ってサヴァカが汚れるのも気にも留めず、エルルカは無我夢中で走り出した。その姿はまるで、我が子を守らんと逆毛を立たせた母イノシシのようにも見えた。

 今にも転びそうな拙い足取りで、まっすぐに本のもとへ駆けたかと思うと、エルルカは本を片手に掴んでいる男に向かって、野兎のごとく飛び掛かった。


「うわっ! なんだこのガキ!」


 いきなり飛び掛かられた男は、驚きのあまり身を引いてしまう。鍛え上げた剛腕が、悠々と大きな本を片手で持って頭上に掲げた。

 エルルカは男の手から本を引き離そうと、足りない背丈で必死に手を伸ばした。


 (返して! 返して! 返して!)

 「かえ……! ……して! かえして……!」


 口を動かすたび小唇に塗りたくった濃紅がよれ、跳ねるたびに空色のまとめ髪が崩れていく。立て板のように頼りない体躯は、重たかったはずの飾り袖を激しく揺らした。

 

「ええい、くそ、羽虫みてえに邪魔だなぁ……おかしら~、どうにかしてくれよ~」

「バカヤロウ、それくらい自分でどうにかしろよ」

「ガキに手出したら腕切り落とすって言ったのはあんただぜぇ? たのむよ~このままじゃ仕事できねえよ~」

「はあ……まったく手のかかるかわいい子分だぜ……まってな」


 言いつけを律儀に守る素直さに呆れながら、半笑いのカシラは尻尾を揺らして、子分のもとへと大股で歩いて行く。

 可愛い子分の腰元にまとわりつくエルルカ(羽虫)の後ろ側にのしりと立った巨体が、ごつとした手で首根っこを掴み上げて、部下の体から容易く引き剥がした。


「やっ……!だ、めっ……!」

 

 引き離されてもなお、エルルカは抗おうとして手足をバタつかせた。宝物を取り返したい——たったそれだけのために、掠れ声をあげて、手を伸ばした。

 エルルカを見つめるカシラの耳がぶるりと震える。野兎のようにバタバタと足掻く姿が、獰猛な狩人の琴線に触れた。

 カシラはうなじから手を離し、今度はサヴァカの胸あたりを乱暴に掴みあげてぐいっと持ち上げる。

 つま先立ちになったエルルカは息苦しさにもがいた。もがきながら、目の前の男を無視して、その目と手を「本」に向けた。

 

「やっ……かえし……て——」


 視線の端に、振り上げられた片手をうつしたその一瞬だった。

 パシィンッ、と、乾いた音があたりに響いた。

 

 (――――ぅ……っ)

 

 その音を聞くのと同時に、エルルカの頭の中は強い衝撃で揺らされ、意識が遠のいた。

 白くなった視界に、耳鳴りだけがつんざく。

 しばらくして、ゆっくりと視界のピントが合わさり、ぼやけていた音がひとつになる。

 右の頬が、焼かれるような熱を持ち始めた。


 「ガキの躾にはこれが手っ取り早い——とくに、貴族娘にはな」


 振り下ろした片手で自分の無精髭を撫でながら、狩人が見下ろしている。

 白蕾(しろつぼみ)の片頬が、白粉の下からじわじわと赤く腫れあがった。そして、感じたことのない強い痛みが遅れてやってきて、大きく見開かれた目から、大粒の涙がこぼれていく。

 小動物が、平手ごときの暴力で屈する様を見て、男はふたたび血走った眼を三日月にゆがめた。

 

 生まれてはじめて「体罰」にさらされたエルルカの体は、鋼のように硬直していた。

 父親の狂愛によって「体の痛み」から隔絶されていた少女は、心の痛みに耐える術は持っていても、他者から与えられる「体の痛み」を受け止めるやり方は知らない。

 皮膚が腫れ上がる痛みを、エルルカは今身をもって初めて体験したのだ。

 

 頬の痛みに泣き喚く意思さえねじ伏せられ、エルルカはふたたび口を閉じた。

 崩れたまとめ髪から生える猫の耳は恐怖に伏せ、双尾はサヴァカの下に逃げ隠れている。

 燃え上がるほどの勇気は、たった一発の平手でたやすく手折られてしまった。

 

 喚いていた少女がぴたりと静まり返った姿を見て、カシラは「つまらん」と吐き捨てながらエルルカの細い首根っこを人形のように掴み直す。

 一連の様子を見ていた侍女と黒ローブの男は唖然とした。ことに、黒ローブの男は慌てて走り寄り、唾を飛ばす勢いで頭を責め立てはじめる。


「ば、あばば、き、貴様っ! なんと愚かなことをしてくれた! 双尾様のご尊顔を、た、叩くなどっ、無礼にもほどがあるぞっ!」

「ああん? ……おっとつい。手癖が悪いもんでね。でも別に構わねえだろ。そこの女が言ってたじゃねえか。 "双尾"には傷一つつけるなって。ほれ、俺は尻尾に指一本だって触れてねえぜ? ダンナだってこいつには静かにしてもらったほうが好都合だろ? 騒がれて、万が一にでもセヴェリの連中に見つかったら、タダじゃすまないもんなぁ」

「なっ……! そ、それとこれとは話が――」

「ゴタゴタうるせえな。それ以上俺サマに指図するなら、お前もこのガキみたいに口が聞けなくしてやってもいいんだぞ? あぁっ?」


 ギョロリと睨みを利かせ低い唸り声で脅しを掛けてくる大男の威圧に、冷や汗を垂らした黒ローブの男は尻尾を縮こませ、ただ口を噤むしかなかった。

 遠巻きに見ていた侍女の赤茶の尾も、男の恐怖感に共鳴して内側に巻き込まれる。しかし、頬を腫らして呆然とするエルルカを見つめるその顔には、わずかに喜色が滲む。

 ざまあみろ。今度はお前の番だと、言わんばかりに。

 幼子への仕打ちに対する罪悪感が、すっぽり抜け落ちたかのようである。

 頭は首根っこを押さえたエルルカを近くにいた手下へ投げ渡す。

 撤収の号令が、無情に響き渡った。


***


 右の頬から伝染するように、顔全体がずきずきと、ぶたれた側の歯の奥まで痛む。

 雪解け風が吹くと、それがさらに刺すような痛みに変わって、さらに涙がぽろぽろと溢れた。

 エルルカは声を出せなかった。口周りの筋、いや体中の筋が固まって思うように動かないのだ。

 止まらぬ涙を流し続けて、しかし心の中では「いたい、いたい」と、焼けるような痛みに泣き叫んでいた。

 

「おい! 暴れないように、このガキの手しばっとけ。麻袋被せたら、荷台に積んどけよ」

「轡も嵌めときますかい?」

「いや、どうせ口きけずだ。いらんだろ。また騒いだらぶん殴っとけ。加減はしろよ? やりすぎると、ガキはすぐに壊れちまうからなあ」

 

 頭の指示を受けた手下が、立ち尽くすエルルカの腕をぐいっと引っ張った。足がもつれて転びそうになるのも構わずにどこかへ連れていかれる。引かれながら、光をなくした瞳の視界の端には、横たわる騎兵の屍や舌をだらりと垂らすムタルカの死骸がうつった。


(みんな、しんじゃった……)

 

 ひとくくりにされた両手を縄で硬く縛られる。

 ぽてりとした少女の手首を、荒縄がギチギチと締め付けた。

 

(ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい)


 頭から大きな麻袋を被せられる。真っ暗な視界のまま、足が宙に浮いた。まるで麦袋を担ぐように、簀巻きにしたエルルカを手下の一人が肩に乗せた。

 舌の上に広がる苦味と突き上げるような揺れが腹の底を気持ち悪くする。


「おカシラ、あの二人はどうするんで?」

「あのダンナには俺たちと一緒に例の隠れ屋まで来てもらう。女の方は——」


 猫の耳が無意識に、男たちの会話を拾う。遠い所で、女が布を裂いたような叫び声をあげたような気がした。


 (……エルのせいだ……)

 

 遠くで、女が叫んだ。

 ——お前のせいだ! ——


 (エルが、お外に出たいって願ったから……)


 頭の中で、誰かが吐き捨てた。

 ——許さない——

 

 男が戦利品の積もった荷台の上に麻袋を転がした。鈍い痛みがじわりと、未成熟の骨と肉を巡った。

 痛みに小さく呻いていると、すぐそばで人の気配を察した猫の耳が立ち上がった。

 

 「……恩寵(おんちょう)の御子(みこ)よ……かかる仕打ちをお許しあれ……これもすべて御身の為……主の聖導をもって、御身を清浄の地にてお迎え奉らん……女神と星の光のもとに、祝福を乞い願う……」


 顔の見えない男が、弱々しく贖罪の言葉を唱える。

 言い訳じみた謝罪の意味を理解できるはずもなく、エルルカは何も返さなかった。

 指先さえぴくりと動かない。

 この世でたったひとつの「青影騎士物語」(たからもの)を取り返そうとした気力も、勇気も、まるで体からすっぽり抜け落ちてしまったようだ。

  無力さを思い知らされて、悲しみが大波のように押し寄せる。涙がとめどなく溢れ出て、腫れた頬を濡らしていく。涙が沁みて、またヒリヒリとした痛苦が繰り返される。

 痛みから逃れるためには、もう現実から逃げるしかない。エルルカは瞼を閉じた。

 

(……きっと、まだ悪い夢を見てるんだ……だいじょうぶ……目が覚めたら、シヴィーカのお屋敷で、また読み書きのお勉強をして……して……——)

 

 目が覚めたら、またあの狭い屋根裏で生きるの? だったら、この悪夢から目覚めなければいいのに——それ以上考えることをやめたエルルカは、瞼を開けた。

 

 麻袋の細かな編み目からわずかに漏れ出す橙の光。暗闇のなかで点々と差し込む光が、夜空の星のように瞬く。

 いまだ姿は見えぬ、北の空に一等輝く青い星を思い出して、意識が朦朧としていたエルルカは譫言(うわごと)のように願った。

 

 あるいは、誰でもない、誰かに。

 あるいは、北の地で待つ、顔も知らないそのひとに。


 

 ……たすけて……。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。