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青い星のエルルカ  作者: 高芦ノリベン
第1章【花嫁行列襲撃事件】

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1-6 狩る者、追う者、隠れる者

「なんだぁ。隠しとくには勿体ない上(・)玉(・)だな」


 車室の中にいたエルルカを見るなり、三角耳の男は目をぱちくりとして、そしてにやけ面で不躾(ぶしつけ)な褒(・)め(・)言(・)葉(・)を呟いた。

 

 (じょうだま……?)


 普通の娘なら「無礼者」と頬をひと叩きしているところだが、エルルカは頭を少し傾けるだけだった。

 タラカを泥まみれに汚した男が少し近づくと、車室のなかに獣臭さが漂った。嗅いだことのない臭さに鼻の奥をツンっと刺激され、エルルカは反射的に飾り袖の裾で小鼻を隠す。双尾も柔毛を逆立たせて、スカートの中へと引っ込んだ。男は苦笑いを浮かべると、何日も洗っていない頭を下げ、一応の貴人への礼を示す。


「このような汚い恰好でお目通りしたこと、どうかお許しください。罰はあとでいくらでも受けますから、それでひらにご容赦を。それよりも、ひとつあなた様にお願いがあるのですが、お聞き届けいただけますかね?」


 男はわざとらしく片目の短く開閉する。これで落ちなかった女はいなかったと言わんばかりに。だが、齢十歳の少女にはあまり意味がなかったらしい――と、すぐに気づいて男は肩を落とす。

 エルルカの表情は、ひどく強張っていたのだ。

 

(やっぱり、扉を開けないほうがよかったんだ……ど、どうしよう。知らない人に顔を見せちゃいけないって言われてたのに、言いつけを破っちゃった。あの侍女(ひと)は絶対にシモン叔父さまに言いつけるもの。どうしよう、どうしよう……わたしのせいで、この男のひとがひどいめに……)


 無垢に男を見上げていた瞳は、動揺して震えていた。

 記憶の隅々にまで「罰を受けた者の悲鳴」がこびり付いているエルルカにとって、 「罰」という言葉は体を凍らせる恐怖の呪文だ。父が死に、その弟が当主の跡を継いでから手ひどい罰はなくなったと、侍女たちの陰口から聞き知っていてもだ。

 エルルカの脳裏には狂った父親(オベロス)の所業が再生(フラッシュバック)していた。

 呪われた娘に関わったものは、みな不幸の末路を辿った。エルルカのいた石塔(せかい)では、それが普通だった。「高貴たる者」からすれば、取るに足らない野良屑者の命は羽のように軽い。この男も二度と剣が握れない体にされるだろうと、エルルカは名も知らぬ男の未来を予知して身を縮こまらせた。

 

 そんな少女の心の内など知る由もなく、「怖がらせてしまったか」と三角耳の男は見当違いをして、決まりが悪そうにする。空気を変えようとして、ごほんっとひとつ咳払いをすると、無精ひげの目立った口元をできるだけゆるめた。子供に好かれそうな胡散臭い笑顔を添えて、男は精一杯にあまい声を作った。


「へへへ、参ったな……ええっと、別に取って食おうってわけじゃないですぜ? 馬車(ここ)から降りて、外に出てもらいたいだけなんですよ」


 橙の瞳の揺らぎが、ぴたりと止んだ。

 細身の震えも止まった。エルルカは耳をピンと張って、男の話に傾聴しているような仕草をした。


「あんた……ヒメさまも、こんな泥んこの馬車なんていやでしょう? この道の先にきれいな馬車を用意してあるから、それに乗り換えて――……」


 引っ掛けたと思い込んだ男は、意気揚々と口を回す――実際には、ほとんどの話をエルルカは聞いていなかった。

 「外に出てもらいたい」――何の気なしの言葉が、そのあとに続いた男の話を猫の耳から遠ざけたからだ。


 開いた扉から風が入り込み、サフラン紅で彩られた丸い頬をそっと撫でる。風に乗って運ばれた外の世界の匂いが鼻腔をくすぐる。小鼻を覆い隠していた飾り袖の裾が、ゆっくりと降ろされた。

 

「……――それにこのあたりは、首無し騎士の幽霊が出るってんで有名なんですよ。ね? 俺たちがお化けから守ってあげますから、だから外に――」

「そこの野良屑(のらくず)! 今すぐ馬車から降りなさい!」

「げ、ヒ(・)ス(・)女(・)に気づかれたっ」

 

 子供だましの怪談話でさらに気を引こうとしていた三角耳の男が、背後から聞こえてくる侍女の金切り声に気づいて、まずそうな顔をした。男は慌てて汚れた革手袋をはめたまま、右手をずいっとエルルカに差し出した。


「さあ……大丈夫、美人な顔とその尻尾はちゃあんと隠してやるからさ」


 差し出された手を、エルルカはじっと見つめた。空色のふたつの尻尾は、ゆらゆらと揺れる。

 エルルカの橙の瞳にじっと見つめられた三角耳の男は柄にもなく見とれた。そして、傷一つない白蕾顔(しろつぼみがお)の前に差し出した自分の革手袋の汚さに気づいて、男は「いけね、いけね」と急いで手を引っ込めて革手袋を外す。爪の間に垢が溜まった、おおよそ綺麗とは言えない傷だらけの戦士の右手の平を、もう一度差し出した。


「ちょっと! 誰か! 花嫁さまからあの無礼者を引き離して――」

 

 馬車の外では、男の愚行に気づいた侍女が悲鳴にも似た抗議の声をあげていた。だが、帽子の中の薄い猫の耳には届いていない。沸き立つ何かが、無意識に金切り声をかき消していた。音として聞き拾ったその声は、エルルカの心を蝋のように固めるには遅すぎたのだ。

 ――少女は暗澹(あんたん)な過去をその幼い身に刻んでいる。このまま目を閉じて、口を噤(つぐ)んで、耳を塞げばいい。飛べない小鳥(エルルカ)は、空を求めてはいけない。そうすれば、だれも傷つかない。少女の心の中で、たくさんの声が飛び交った。


「…………」

 

 明けない靄(もや)の中で、忘れたはずの声がやさしく囁いた。

 ――飛びましょう! エルルカ――。

 空色の尻尾が、灰色の背中をトンッと押した。

 その瞬間は、一時だった。


「…………ぁ」


 声帯を震わす。言葉とも吐息とも言えない、小さな囁き。唇をぎゅっと結んだまま、おずおずと手を伸びる。

 双尾は背の影に隠れながら、小ぶりな手の行く先を見守っていた。

 

(ニトさま……エルを、おゆるしください……どうか……どうか、この男(ひと)に、わたしの祝福をおあたえてください)

 

 声の出し方を忘れたエルルカは、やはり心の内でつたない祈りの言葉を唱えるしかなかった。与えられるものを知らない少女の、精一杯の贖罪(しょくざい)だった。

 誰かの手を取ることの罪深さを知っていても、それでもエルルカはその手を取りたかったのだ。


 武骨な男の手のひらに、好奇心に震える子どもの手が重なった――いや、重(・)な(・)ら(・)な(・)か(・)っ(・)た(・)。

 

 ――ヒュンッ!


 どこからともなく、風切り音が鳴った。

 鞭が空を裂く音にも似た音。誰も気付かない小さな音を拾った薄い猫耳が、勝手にびくりと震えた。エルルカの手が、跳ね橋のように男の手から離れた。

 心ならずも、帽子の中の両耳が正面に立つ。三角耳の男の向こう側。開いた扉から見える木立の暗闇の先から、なぜか目をそらすことができなかった。

 三角耳の男は不思議そうに首をかしげて口を開いた。

 

「……? おい、どうし――」


 なにかを言いかけて、男は急に黙った。

 外に目をやっていたエルルカは、静かになった男に視線を戻した。さきほどまでペラペラと絶えず動いていた口は、奇妙に半開きのままで固まっている。黒目を大きく丸めて右手を差し出したままの姿は、まるで本物の蝋人形のようであった。

 

 どうしたの? ――無邪気な問いかけを口に出せない代わりに、動かなくなった右手に今度こそ、自分の手を重ねようとした時だ。

 

 女が足を延ばせるほどの広さしかない狭い車室の床に、三角耳の男が雪崩れ込むように倒れた。

 男の背の真ん中から、羽飾りのついた細木の棒がまっすぐ伸びている。おろしたてだったタラカに、真っ赤な染みがじわじわと広がっていく。

 嗅ぎ慣れた死の臭いが、小鼻の奥を掠める。幼子の指先にまで通う血が、冷たく凍っていった。

 ――――え。

 

 エルルカの口から、吐息とも声ともわからぬ音が漏れた。


***


 戦端の幕紐は、一本の矢によって落とされた。

 一瞬の静寂の後、泥地は怒号と叫び声が飛び交う戦場へと成り果てた。

 

「て、敵襲ぅー! 敵襲だぁー! 林の中にいるぞ! 」

「火種、火種! 俺の火銃(トュフェク)はどこだ!」

「物見は何やってたんだぁ! くそっ、急いで防御陣を張……がっ! 」


 困惑する男たちに矢の雨が降り注ぐ。

 幾人かの男たちがその身を射貫かれ、悲痛の声を上げる間もなく倒れていく。矢雨はムタルカたちにも容赦なく振り注ぎ、矢じりの刺さった何頭かは暴れ出してその場から走り去ってしまった。


 阿鼻叫喚。エルルカは状況を理解できずに固まっていた。

 目の前で倒れたまま、ぴくりとも動かない三角耳の男を、橙の瞳が呆然と見つめる。めいいっぱい見開かれた双眸は、恐怖に支配され震えていた。

 ついさきほどまでの喧騒とは違う、明らかに殺気立つ外の空気に飲まれた細身の体は、ただすくむしかない。

 

「……ぁ……ぁ」


 震える唇から漏れる、か細い呼吸音のような悲鳴。その時、ビュンッ! と一本の矢が、灰色の帽子の上をわずかに掠めた。

 矢が当たった衝撃で帽子がころり、と床に落ちる。ウィンプルから飛び出た空色の猫耳が露わになった。

 エルルカは飛んできた矢に気づかず、床に落ちた帽子を真っ先に気にした。

 

(あ、帽子!)


 思わず拾おうとして手を伸ばす。すると、横から伸びた「大きな手」が細腕を掴み、ぐいっと力強く地面に向かって引いた。突然のことにエルルカは反射的に目を瞑った。


「……う……っ」


 硬い物に体を打ち付けた鈍い痛みに呻き声をあげる。おくるみのように細身に巻かれたサヴァカが、いくらか衝撃を和らげていた。

 顔の周りを覆っていた真っ白いウィンプルが、衝撃でばさりと着崩れ、空色の薄い猫の耳と、艶光るまとめ髪が露わになった。

 白粉《おしろい》の乗った瞼を押し上げ、視界の先に見慣れた床板が見えたとき、エルルカはようやく、自分が足元の床に突っ伏していることを理解した。

 

(……あのひとは?)


 ぼやける視線の先で、同じように床に臥しているはずのあの男を探す。

 

 すると、またしても奇妙なことが起こった。

 ついさっきまで、人形のように固まっていたはずの男が、背から生やした「木の棒」を震える手で手折り、ゆらりゆらりと身を起こしていたのだ。

 顔を上げた男と目が合う。大量の脂汗を噴き出し、口の端から赤い血を流すその顔は、笑っているようにも、怒っているようにも見えた。


(だめ、おねがい、いかないで)

 

 心の内で、必死で願いを叫んだ。濡れた目で訴えた。

 死に体の男は何も言わず、残された力を振り絞って馬車の戸を力強く閉めた。

 真っ暗な車室に、エルルカはまたひとり取り残される。


(おねがい…………ひとりに、しないで……)


 手前勝手な願いは聞き届けられなかった。

 悲鳴と怒声。嘶(いなな)きと破壊の音。泥水を踏む足音。何かがぶつかり激しく揺れる馬車。

 空色の猫の耳が、震えながら後ろへと伏せられる。空色の双尾が、毛を逆立たせて足の間に仕舞い込まれる。

 エルルカはウィンプルを手繰り寄せた。白い布で頭を覆い隠し、目を強く瞑り、厚手のサヴァカに包まれた身を縮こまらせる。その姿は雷に怯えて布団にくるまる子供だ。


(……のだ……びらのさきに、まんのかいぶつがまちかまえていようとも、われはおそれぬ……)

 

 エルルカは音なく口を動かした。何度も読み返して覚えた、青影騎士物語の一節をまじないのようにそらんじる。


 (このつるぎはゆうきあるものに、ちからをあたえるのだ。あおかげきしは、かげのせかいのとびらを――……)

 

 夕暮れの日差しさえ届かなくなった檻の中で、エルルカはただひとり嵐が過ぎ去るのを待つ。

 二本の尻尾だけが、震える少女の胸元にぴたりと寄り添った。

 

***

 

 ——矢雨が止んだ。

 今度は木立の暗がりから地響きを立てた「何か」が迫り来きて、泥だらけの護衛騎士たちは一様に耳を立てて身構えた。

 地鳴りを思わせる蹄の音と、山猿の威鳴(いな)きに似た喊声(かんせい)が轟く——姿を現したのは、粗野な武装をしたおよそ二十人ほどの山賊たちだった。


「男は根切りだ野郎ども! 女とガキは殺すなよぉ! いけいけいけぇー!」


 集団の中で一番体の大きい男が馬上から声高々に叫んだ。

 弓矢、短剣(サンチャル)、曲剣(スフシュカ)、そして火銃(トュフェク)。その手に得物を携えながら、峰角馬《ムタルカ》の手綱を器用に操って足場の悪い林木の間を駆け抜けてくる。

 銀兜を振り乱しながら、隊長は統率を失いつつある行軍を立て直そうと声を荒げた。

 

「うろたえるな! 花嫁を、花嫁をお守りするのだ! 剣を抜け騎士たち! 盗賊ごときなにするものぞ! イシドール! 馬車から花嫁さまを引きずり出して、ムタルカに乗せよ! 一刻もはやくここから離れて——」


 隊長の銀兜が高く飛んだ。大将首めがけて駆けてきた敵のムタルカの巨躯に、その身が弾き飛ばされる。兜が取れた顔面は、大きく窪んでいた。

 

「た、…………隊長ぉぉ! 貴様らよくも、よくも! ぎゃあっ……!」


 イシドールという名の部下が復讐を果たさんと曲剣(スフシュカ)を構えようとして、しかしその喉に短剣が突き立てられる。男は誂え物の鎧と共に、泥地の上にべしゃりと倒れた。

 百戦錬磨の流浪騎兵(モグガ・ザル)たちは辛うじて剣を結び合う。だが、それでも歩兵と騎兵の有利差を埋めることはできない。防戦一方だった。

 奮戦する丸耳の男は馬車に目をやった。車室の扉に背を預けている三角耳の男は、胸から数本の矢を生やしてへたり込んでいた。

 捨て場のない憤りの感情が短い尾を震わせる。くそっ、と吐き捨てた。


 (くそっ、くそっ、くそっ! やっぱり罠だった! なぜ早く気づかなかった! こんな馬鹿げたことで、死んでたまるか!)


 急襲を仕掛けてきた賊の人数はさほど多くない。練度も装備も言ってしまえば自分たちよりも見劣りするものばかりだ。もしもここではなく、別の場所でなら——犠牲は多少出ただろうが——確実にこの不(・)意(・)打(・)ち(・)を切り抜けられただろう。全員が確信していた。だが、天運の星は彼らに味方しなかった。

 

 行程の最終日じゃなければ。

 馬車が立ち往生しなければ。

 冷たい泥水に足を取られなければ。

 花嫁をさっさと馬に乗せておけば。

 あのヒス女の言いなりにならなければ。

 ——呪われた、双尾の娘に関わらなければ。


 誰も彼もが詮無い「もし」を浮かべる。もしかしたら、この仕事を請け負った時点で「詰み」だったのかもしれない。そんな風に考えながら死にゆく者もいた。

 

(主が、天罰をお下しになったのだ)

 

 恐れにひれ伏した耳元で、誰かが——あるいは自分が——ささやいた。

 花嫁を守る騎士たちもわずかな従者も、男たちはなす術なく、またひとり、またひとりと敵の凶刃に倒れていく。劣勢と見るや逃げ出す者も出始めた。放った火銃の音に怯えて脱兎のごとく逃げ出す様を見て、賊がケタケタと笑っていた。

 

 そこはもう、戦場ではない――強き者が弱き者を食らうための狩り場だ。

 丸耳の男は胸元の火薬筒を手に取り、火銃に火薬を装填する。震える指先で引き金を引いた。

 

 「ちくしょう、ちくしょう……! うああああっ! 」


 山の頂に夕陽が掛かろうとしている。

 高木の影の中で、銃声が鳴り響いた。


***


【同時刻――パニヴァ街道・パニヴァ湖入口付近】

 

 湖面の先にある山の頂に夕陽が差し掛かろうとしていた頃、橙色に染まる街道を立派な角鎧を取り付けたムタルカの一群——ミルエティ要塞を発ったセヴェリ家の先遣隊が、土煙をあげながら街道を駆けていた。

 

「……おい、煙だ! 林のほうから煙が上がっているぞ!」


 若い私兵の一人が叫んだ。

 その声につられて、皆が空を見上げた。先頭を駆けるユーリウスも、左の目で空を見据える。


「……チッ」


 ユーリウスは激しく舌を打った。

 それが「合図の狼煙(のろし)」であることは、ここにいる者たちの目に見えて明らかだった。

 ダーンッ……ダーンッ……。間をおいて、二発の銃声が鈍く響いた。驚いた鳥たちが、木々から飛び去っていく。各々がぶるりと耳を立たせ、戦火の匂いに尾を震わせた。

 

 (……どっちが撃った、いや、撃たれたのか)

 

 ユーリウスの狼耳はしっかり立って音を聞いていた。遠くの孤立林を見据えた鋭い眼差しは、まっすぐ街道に向けたままだ。ハミに余計な力が伝わらないように、ユーリウスは奥歯を噛みしめて平静を保つ。

 併走していたイゾールが、「若っ!」と馬上で叫んだ。


「どうもきな臭すぎる! ここは一度帰還して、ミルエティの兵を借りて態勢を立て直しましょう! ――というか、若は要塞に戻ってください! あとは俺たちがやりますから!」

「ここまできて馬鹿か貴様! 悠長に事を構えていたらあ(・)れ(・)を持ち去られる! このまま突っ込むぞ! はぁっ!」


 ユーリウスは副官の諫言(かんげん)を無視し、あろうことかジュダの腹を足で叩いて、駈足(かけあし)の速度を上げ始めた。これにはたまらず、イゾールの下がり眉も吊り上がらざるをえなかった。

 

(馬鹿はあんただよぉー! このまま敵地ド真ん中に、はいどうぞって大将を投げ込めるかっての!)


「ったくもお、若イノシシめ……! 王太子(アニキ)といい、これだからトゥリアダド家の人間ってのは無茶苦茶だ……!」

 

 イゾールは苦々しく口走った。

 ユーリウスは睨み返しもしなかった。苦言も軽口も、風と鼓動が掻き消した。

 彼はただひたすらに、ムタルカの脚の速さに身を任せていた。


 ――ユール――


 ――あれは、俺たちにとって、吉兆の青い星になる――

 

 ――絶対に手にいれろ。なにがあっても、必ず――


 あの揺るぎない琥珀の眼を、失望させたくない。

 

(奪わせるものか。絶対に――)

 

 ジュダ(愛馬)の手綱を握る手に、無意識に力が籠った。

 険しい山路も三里の長路も駆け抜ける剛脚の蹄の音が、夕闇染まるパニヴァ湖に響き渡った。

火銃(トュフェク):筒状の銃身に装填した弾丸を、火薬を爆発させた時の威力で発射する火器。起源は諸説あるがクフスカース地方に持ち込まれた火銃はそのほとんどが西方の帝国伝来である。至近距離では高い殺傷能力を持ち、大砲のような大きな音で敵を威嚇することができ、なにより騎乗での戦闘と相性が良い。しかし、射程距離が短かさや精密射撃の精度の低さ、着火装置や火薬が濡れる荒天の時は使えないなど欠点も多い。

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