1-5 愚者と前兆(2)
泥まみれの馬車から少し離れた所で、野次馬ができていた。
早馬の見送りから戻った二人の足は、自然と野次馬の中に混じる。兵装のタラカを泥で汚した男たちが取り囲む輪の中で、あのシヴィーカの高慢な侍女が、銀兜を泥に汚した隊長と言い争っていた。
楽しげな三角耳の男とは裏腹に、丸耳の男は眉をひそめた。
「あの女……主人を置いて一体どこでなにをしていたかと思えば……また騒いでるのか……?」
ふと、女の手に目がいった。道中、ずっと外さなかった白い手袋が、その手にはめられていないことに気づく。
(確か……馬車から降りた時はつけていたよな? 途中で汚したかなにかで外しただけか……?)
丸耳の男はその小さな異変に少しだけ違和感を感じた。だが、耳をつんざくような金切り声がその違和感を頭の片隅に追いやってしまう。
「つべこべ言い訳を並べる前にさっさと馬車を引き上げて、泥を落としなさい! それでもシヴィーカ家にお仕えする騎士ですか!」
侍女は赤茶の狐耳を後ろに伏せて、やかましく手振りを交えて訴えかけている。まだ肌寒い春先だというのに、額に浮かんだ玉の汗が白粉を溶かし、まだらに崩れた頬に幾筋も伝う。細眉を吊り上げているその顔は、どこか焦った様子であった。
「ですから、それができないと先ほどから申し上げているのです! 花嫁様を乗せたままではこれ以上の引き上げ作業には時間がかかってしまいます。夜になればそれも困難です。であれば、花嫁様にはいったん馬車を下りていただいて、この林を抜けた先にある場所でミルエティからの迎えの馬車を待っていただくべきだと……」
「嫁入り前の娘を衆目に晒すのですか! ふざけたことをいわないでちょうだい! それにこんな汚い場所で花嫁を下ろしたらサヴァカが泥で汚れてしまうでしょ? あれはここにいる者たち全員が一生かかっても払いきれないほど高価な代物なのよ? わかってるの! 」
誰かが小声で「花嫁より服のほうが大事なのかよ」と呟いた。
男と女の押し問答が続く中、三角耳の男が尻尾を左右に振りながら野次馬仲間のひとりに声をかけた。
「おい、早馬を出してきたぜ。なあ、一体なにがあったんだ?」
「ん? ああ、ご苦労さん。……隊長がな、花嫁を馬車から降ろそうとしたら、あの女がまたヒスり始めたんだよ。このまま日が暮れて夜になったら引き揚げ作業なんてとてもじゃないがやってられんだろ? とりあえずムタルカにのっけて別の場所までお連れしようとしたらあのザマだ。いま隊長が必死にじゃじゃ馬を説得してるのさ」
「ふうん。説得ねぇ……良い所出の隊長サマはお優しいことで。俺らだったらぶん殴って黙らせてたぜ。あの調子じゃ、口説き落としてるうちに夜が明けそうだな」
三角耳の男の皮肉に、仲間は「かもな」と同調して尻尾を軽く揺らしながらひそひそと笑った。同意を求める目を向けられた丸耳の男が、返答代わりに呆れたため息をついた時、二人の男の視線は、何かに気づいたように自然と馬車のほうに流れた。
それまで、車室の小窓を頑なに覆い隠していた黒い布の隙間から、ひょっこりと小さな人影が顔を覗かせていた。
それは、三角耳の男が「亡霊」のようだと揶揄った、シヴィーカの花嫁の幼い顔だった。二本の尾を目撃した敬虔な丸耳の男も、ベールを被っていない女神の御子のご尊顔に、思わず視線が釘付けになってしまう。
灰色帽と白いウィンプルに包まれた小さな頭が、白鼬のようにうろうろと動いて外を伺っている。ひゅう、と軽薄な口笛が鳴った。男たちの視線は、まさに鉄檻の中の「珍獣」を見るようであった。
だが運悪く、口笛は侍女の赤茶色の耳に聞かれていたようで、馬鹿にされたと勘違いした侍女が、顔を真っ赤にして怒りの矛先を周りにいる男たちへ差し向けた。
「……ちょっと、なに見てるのよ。ご当主様があんたたちにどれだけ高い給金を支払っていると思っているの! 金さえ払えばなんでもするのが流浪騎兵でしょう! 突っ立ってないでさっさと泥でもかき出してらっしゃい! ……これだから野良屑は……」
そう吐き捨てた侍女は、上等なサラカの裾を上げて、林の中へと身を潜めたかと思うと、ひとり焚き火のそばで暖を取りはじめる。なるべく汚れがかからない場所に逃げたいという魂胆が、態度に見え透いていた。
幼い少女を泥地に埋まった狭い馬車の中に押し込めて、自分は安全地帯からただ偉そうにふんぞり返る。あまりの異様さに、そこにいた誰もが居心地の悪さを感じていた。
流浪騎兵たちでさえ、いい加減に我慢の限界だった。戦士の誇りを一介の侍女如きに、屑拾いより劣ると貶されたことは、騎兵の男の血を汚すのと同義だ。その手を短剣にかけている者もいる。
だが、どれだけなじられても、声をあげる者はいなかった。みな一様に苦々しく顔を伏せた。
狂領主の呪われた娘に関わって不幸になるくらいなら、高慢ちきな侍女の機嫌を損ねないほうがマシだ――そ我が身可愛さゆえの、彼らの処世術だった。
「はぁ……みなの者、すまんがもう少し作業を続けてくれ」
説得を諦めた隊長が投げやりな声色で指示を出した。泥だらけの男たちがため息混じりに返事をする。
丸耳の男も同調して、作業に加わろうと歩き出す。だが、隣にいたはずの三角耳の男の姿が見えないことに気づいてふと辺りを見回した。
それから間もなく、侍女がふたたび、金切り声をあげた。
***
大人たちの喧騒を遠巻きに眺めていた双つの尻尾は、ゆらゆらと水草のように揺れ続けていた。
だんだんと暗がりの濃さが増していく景色の中、怒号のような大声が聞こえてきても、怯えて尻尾を隠すことはない。
むしろ、楽しんでさえいる。
小窓から見える景色を動く挿絵のようにしか捉えられない少女とっては、大人たちのいざこざなど、冒険譚のいち場面にしか過ぎなかったらしい。
ふと、その視線が紫がかった夕暮れの空に向いた時だった。
白蛇か、あるいは白糸のように細長い雲のようなものが森の中から天へと向かって伸びていた。
橙の瞳が、その『雲』を不思議そうにじっと見つめた。
(天国の、はしご?)
いつか聞かされたおとぎ話の一節。死んだ者が、天上の楽園に昇るとき、空にかかるという梯子の名を思い出し、エルルカは心の中でその名を口にした。
一番星が瞬きはじめた空に浮かぶ梯子を小さな隙間から眺めるエルルカは、すっかり絵物語の世界に浸っていた。あの金切り声が聞こえるまでは。
「——嫁入り前の娘を衆目に晒すのですか!」
侍女の怒鳴り声で、無理矢理現実に引き戻された尻尾は、ドレスの中にひっこんでしまう。泥だらけの男たちが暗い顔で霧散していくのを見た途端、エルルカの心どんより曇りがかった。
(……みんなあの人に怒られたんだ……絶対、わたしのせいだ……)
——シヴィーカの館を出立してから五日間。
今は遠いニルサスから付き従う名も知らない侍女は、エルルカの一挙一動を監視し、重箱の隅をつつくような小声を繰り返してばかりだった。とりわけ外の世界に興味を抱くことに対しては強く戒め、寝る時間以外には頑なに扉の閂を触らせようとしなかったのだ。
エルルカ以外の者たちに対しても、侍女は過敏なまでに接触がないように目を光らせていた。
「婚礼のしきたりだから」——その言葉を盾に、時にきつく言い含めながら。
過保護な使用人といえば聞こえはいいが、エルルカにとっては、結局は鳥籠の鳥が外に逃げ出さないための「監視者」だ。それはまるで死んだ父親が、生き人の体を乗っ取って振る舞っているようだった。
「花嫁のため」と付け加えて彼らに対して横暴に振る舞い、そのたびに周りの人間たちが深いため息をつく。そして影で悪態を囁く。
喉が締められるような息苦しさを感じたエルルカは、小窓から顔を離して俯いた。
(わたしのせいで、ごめんなさい……ごめんなさい……)
もう何度言ったかわからない謝罪の言葉。口をつぐんでただひたすらに許しを乞う術しか、エルルカは知らない。いつの間にか這い出ていた双尾が、その小さな背をトントンと優しく叩いた。
エルルカは重たい体を浮かせ、後ろの方へずり下がる。すると、無意識にすぐそこに人の気配を感じ取った猫耳と尻尾が、エルルカの体を止めた。
コンッコンッコンッ。
馬車の戸が突然叩かれた。エルルカは驚いて身を固めてしまった。
(だれ?)
尻尾は足の間に隠したまま、しかし好奇心が勝ったエルルカは、恐る恐るゆっくりと小窓に近づいて音のしたほうを探り見た。
そこにいたのは泥に汚れた三角耳の狗人——兜を被っていない、まるで野盗のような姿の騎士。男と視線がかち合うと、エルルカは思わず、ひゃっ、と掠れた声をあげてしまった。
男はエルルカに気づくと、まるでいたずらっ子のように黄ばんだ歯をにやりとちらつかせながら、気さくに片手を振った。野蛮な見た目だが、不思議と怖さは感じない雰囲気に、エルルカはおびえることなくその男から目を離さなかった。
じっと見つめていると、あげられたその手が扉を指さして「開けてくれ」と言っていた。
(……いいのかな……)
エルルカは迷いながら、閂に目をやった。
もしもここが、暗い森の石塔かシヴィーカ屋敷の屋根裏部屋だったら、エルルカは見知らぬ男の誘いに目と耳を閉じて、決して扉を開けなかっただろう。
もしもいまだ、父が生きていたら、父の寵愛の影に怯えて、繫がりを求めようなどとしなかっただろう。
だが、ここはもう故郷ではない。狂った父は、もう死んだ。
おとぎ話のような彩り豊かな景色の眩しさに、心が浮き立ったのか。それとも、泥と影のなかで戦う彼らの姿に、怪物に立ち向かう青影騎士を重ねて、何かが刺激されたのか。
あるいは、パニヴァ湖から吹きおろす春の雪解け風が、少女の閉ざされた勇気の扉をほんの少しだけ開けたのかもしれない。
飾り袖の中から、細腕が伸ばされた。
閂の抜ける音が、車室のなかで静かに響く。
エルルカの尻尾が、期待に震えるように小さく揺れていた。




