1-5 愚者と前兆(1)
震える手から取り外した絹の手袋に、火種がうつるのを見届けながら、そっと薄く土をかぶせる。
時間がたてば裏地に縫い込んだ硝石の粉末に燃え移って、勝手に合図の煙を上げるだろう。それまでの時間をもう少し稼がなければならない。
ああ、顔から吹き出る汗がうっとうしい。
……この行いは、主君と、そして神への明確な「裏切り」だ。明るみに出ればまず無事ではすまない。それでも、やらなければならない。
この仕事が成功すれば、新しい縁談をもらえることになっている。「大公の口添えさえあれば大貴族になることもできる」と、あの男は言っていた。こんな危ない橋を渡ったのだから、せめて城持ちくらいでないと割にあわない。
シヴィーカ家の縁戚という理由で、自分を捨ててた憎たらしいあいつを見返すためなら、なんだってやる。復讐を果たして、そうしてようやく人並みの人生を送れるのだ。
ここにいる者たちは、みな口の聞けない死人にされる。娘も、きっとどこかへ売り飛ばされるのだろう。
気に病むことはない。こうなったのも全部、あの娘のせいなのだ。自分はなにも悪くない。なにも――悪くない。
神よ、どうかこの罪をお許しください。
――そうして罪深き者は、林の外へと消えていった。
***
「もう一度だ! 息合わせろー! いくぞ! せぇの! いけー! 押せ、押せー、引っ張れー!」
銀兜を被った兵士の音頭取りに合わせて、男たちが唸り声を上げながら、泥濘んだ地面から重たい馬車を引き上げようとしていた。
車輪は輪の中ほどまで泥の中に深く沈み込んでおり、シヴィーカの紋章が刻まれた白い車室は、跳ね返った茶色い泥に塗れてその美しさは見る影もない。
エルルカは、車室の中でひとり長椅子の真ん中で小さく身を縮こめていた。外から聞こえてくる男たちの怒号と時々揺さぶられる強い振れに時折身を固くしながらも、事の成り行きを静かに観察していた。
(……怖い……まだ行かないのかな……)
ちらりと、横を見やる。侍女が座っていたはずのそこには、今は誰もいない。馬車が立ち往生してからすぐに、侍女はエルルカを置いて外へ出てしまったのだ。「外には絶対に出ないでください」と言い残して。
物心ついた頃から孤独に慣れていた少女も、見知らぬ土地で狭い箱の中に閉じ込められて一人きりになることには、言い知れぬ寂しさを感じずにはいられなかった。エルルカは不安を紛らわせるように二本の尻尾を抱き締める。切り捨てようとした尻尾の毛ざわりが、今はひどく頼もしかった。
何度目かの揺れがおさまった。周りの大人たちの落胆したような声があちこちから聞こえてくる。
結局、なにも変わらなかったらしいと、察した空色の猫耳が後ろに伏せた。外の世界の消沈した空気がうつって、エルルカも短いため息を吐いてしまう。
「はぁ……」
目隠し布の隙間から差し込んでいた白い陽光は、今はもう夕暮れを知らせる橙色に変わっている。小窓から見えたキラキラ輝く湖面の景色はすでに木々の茂みの向こう側に隠れ、笛の音のようなあの鳥のさえずりも聞こえてこない。
エルルカは、はしたないとわかっていて椅子の上に両足を乗せると、尻尾と一緒に両ひざを抱え込むような体勢をとった。
(たのしくない。もうやだ。おうちに帰りたい、帰りたいよ……)
閉じた瞼を空色の尻尾に押し当てた。帰るべき家などないとわかっていても、この檻から早く解放されたいという純粋な渇望が目の奥をぎゅっと締め付けた。
長旅の疲れが、エルルカの心も体も蝕んでいたのだ。
その時、扉の向こうから複数の野太い話し声が聞こえてきた。濡れ跡のついた尻尾から顔を離したエルルカは、話し声のするほうへ視線をうつす。帽子の中の猫耳がピンと立ち上がって、聞き耳を立てた。
「……――ダメだ。輪木にヒビが入ってる。馬車を引き起こしても、これじゃあミルエティまで持たないぞ。どうする?」
「……荷馬車の車輪と取り換えるか? そうすれば少しは走れるはず……」
「……それでは時間がかかりすぎる。見ろ、太陽がもうあんなに傾いちまってる。山向こうまで日が落ちたらここらへんは夜みたいに真っ暗になるんだ。あまり長居するわけには……」
「おい誰か! ミルエティへ伝令に行ってくれるか! 代わりの馬車の手配を――」
扉越しにくぐもってはいるが、人の足音の機微を聞き分ける耳ははっきりと男たちの会話を拾っていた。だが、世界を知らない少女はやはり大人たちが話している言葉の意味は何一つわからない。
それでも、一体何が起こっているのか知りたい――焦燥と不安と、ささやかな探求心が入り混じった言葉にできない不思議な感覚が少女の好奇心を揺り動かした。
侍女が戻ってくる気配はない。抱き締めていた尻尾から手を離し、重たい花嫁衣装の飾り袖を引きずって、エルルカは侍女が座していた側にある小窓のほうへと向かって、のそのそと移動した。
遠慮がちに伸ばされた白い細指が、黒い布の端にかかった。
(……お外に出なければいいだけだもの)
エルルカは息を潜めて、昼間ぶりにふたたび仕切り布を開けた。
「……あ……」
大きく見開かれた橙色のつぶらな瞳がとらえたのは、斜陽に照らされた泥まみれの男たち。叔父から言いつけられた花嫁のしきたりを守って、道中口を利くことのなかった護衛の騎士たちだった。
その出で立ちは、大好きな騎士物語に出てくるような清廉潔白な騎士とは程遠く、どちらかといえば野盗の類にしか見えなかった。驚きのあまり、エルルカは濃紅の唇から、小さく吐息まじりのかすれ声を漏らした。
輝く湖面に浮かぶ白い山、緑の天幕からのぞく青い空——絵物語の彩られた世界ではなく、夕暮れと泥の中で大人たちがてんやわんやしている光景に、空色の双尾はゆらゆらと揺れていた。
***
東へ伸びた木の影が連なる街道を、ミルエティへの伝令役を乗せた峰角馬が駆け抜けていった。三角耳の狗人の男と丸耳の獅人の男は、馬尻が見えなくなるのを見届けると、振り返って立ち往生している馬車のほうへ戻っていく。水を吸って粘り気を増した暗灰色の泥土にまみれた二人の足取りは重たかった。
冬の気配が居残る萌鹿月の風が泥水で湿った足元にこたえるのか、寒さを紛らわすように三角耳の狗人が口を回した。
「あーあ、見ろよ、タラカの裾まで泥んこだ。おろしたてだったんだぜこれ? 靴の中まで水が沁みてきてよぉ、足が凍りそうだ……ミルエティまで目と鼻の先だってのに、こんなところでぬかるみに嵌るなんてマジで最悪だぜ、なあ?」
三角耳の男はすっかり泥汚れが沁み込んだ裾を摘まみながら、隣を歩く同僚に訴えかける。だが、期待した反応は得られなかった。
話しかけられた丸耳の男は、いつにも増して険しく深刻そうな顔で押し黙ったままだった。ようやく口を開いたかと思えば、見当違いの答えを返した。
「……おかしいと思わないか?」
「は? おかしい? なにが?」
「フォタ砦の兵士の話では、ここ数日このあたりは珍しく晴れ続きで、雨は一滴も降らなかったそうだ。実際、ここまでの道中の土はほとんど乾いていたし、多少ぬかるみ道はあっても足が取られるほど荒れてはなかった……なのになぜ孤立林だけがこんな沼地みたいになってる? 」
隣で歩く同僚の返答を待たず、丸耳の男は応えの返ってこない木のうろに向かって話しかけるように続けた。不安を帯びた目で暗灰の泥で汚れた足元を見やり続けたまま。
「雪が残っていた? ……いや、北の方ならともかく、このあたりなら根雪まで溶けているはずだろ。車輪の嵌り方だって変だ、普通はあんな深く車輪が沈むはずない。まるで落とし穴にはまったようじゃないか。たまたまそこに穴があって、その上を通ってしまったのか? わざわざこんな場所で?」
足元に向けていた視線が、双尾の娘が乗っている馬車のほうへとうつる。昨夜から尾を引いた漠然とした不安が、信仰深い流浪騎兵の思考に暗い影を落としていた。
春の太陽は西の地平へどんどん傾き始めている。あと少しもすれば尖った山頂の向こう側へ隠れてしまうだろう。淡く紫がかった空はまだ明るさを保っていても、立木に囲まれたこの地はすでに大きな影に覆われ始めている。
遠目に見える仲間が松明の準備を始めていた。長旅の疲れか、花冷えからくる寒さか。頑強な男たちも、ムタルカでさえもみな疲弊している――疑りに満ちた男の目には、そう見えた。
あきれ顔をした三角耳の男が、たまらず話を遮った。
「おいおい、一人でぶつぶつ喋んなよ。気味悪いぜ。このあたりは高木が多いから普段から日当たりが悪いんだろう? だったら溶け残りの雪があっても別におかしくねえよ。水が溜まったでっかい轍に気づかないで馬車が通るのもよくあることじゃねえか。なにをそんな生娘みたいに怯えてんだ、お前……」
三角耳の男の一理ある言い分。丸耳の男は何も言い返さなかった。かわりにふと、隣の仲間が昼間に口走った言葉が丸耳の男の頭をよぎった。
『伝統に口うるさい古ぼけじいさんたちなら、嫁入り前にかっさらっちまうよな――』
その時は特に深く考えずに聞き流していたことだったが、丸耳の男は今になって現実味を帯びてきているような気がして、さらに不安を募らせていく。
(……聖教院がそこまで乱暴なことをするだろうか……いや、むしろ実力行使に出る理由が一番あるのは奴等じゃないか。だって、馬車にいるのは——)
その時だ。
がさりっ! 草擦れの音が丸耳を伏せさせた。男は肩をびくつかせ、反射的に振り向く。草むらから飛び出してきた野兎の姿を見ると、短剣にかかっていた手がゆっくりと離れた。
丸耳の男は、林の影が体半分のところまできているのに気づいて、短い尻尾をぶるりと震わせた。
自分たちこそが、おめおめと狩り場に追い立てられた野兎ではないかと。
「……考えすぎ、か」
丸耳の男はふっ、と軽く息を吐いた。疑りやすい性分がいき過ぎて悲観的になるいつもの悪い癖だと、無理矢理自分に嘘をついて納得させ、頭を切り替えた。嘘ばかりの人生を歩んできた流浪騎兵の習い性だ。
先ほどまでの怯える仔ムタルカ顔が、いつもの堅物顔に戻ったのを見て、傍らを歩く三角耳の男は、「おかしな奴だな」と小声で呟いた。
二人はそれ以上、言葉を交わさなかった。




