第9話 勝てる盤面
そのとき、レイチェルが
茶を持って入ってきた。
「どうぞ。
ハーブティーです」
ふわりとした香りが広がった。
見事に彫られた杯が、
一人ひとりの前に置かれていく。
レイチェルはカイの隣に
すばやく腰を下ろした。
そして自分の杯を手に取り、
ふうふうと息を吹きかけながら
茶を飲み始めた。
ネオが低く言った。
「レイチェル。
我々は今、話の最中だ。
少し二階で待っていなさい」
レイチェルは唇を尖らせた。
「むう。
私だって、もう十七なんですから」
彼女は不満げな顔で言った。
「バン兄さんとハキ兄さんだけ話に入れて、
私だけ仲間外れにしないでください」
バンがすぐに言った。
「レイチェル。
おじいさまの言うことを聞きなさい」
短い一言だった。
それでも効果は大きかった。
レイチェルはすぐに口を結び、
しぶしぶ席を立った。
階段を上がっていく後ろ姿を見ながら、
カイはまた首をかしげた。
(どう見ても
十三歳くらいにしか見えないんだが……
十七なのか?)
彼が少し考え込んでいるのに気づいたのか、
バンが再び呼びかけた。
「カイ様」
カイが視線を向けた。
「先ほどおっしゃっていた、誤解の件です」
バンの声は硬かった。
「我々の状況に
大きく影響する話なのでしょうか」
カイはゆったりと答えた。
「あなたたちにとっては、
むしろ悪い話ばかりではありません」
「そうですか。
それなら安心……」
バンが言い終える前だった。
「俺は、ファイダルの君主に仕える
魔法使いではありません」
その瞬間。
部屋の中を、
冷たい風が通り抜けたようだった。
ネオ、バン、ハキの表情が
同時に固まる。
つい先ほどまであった温もりが、
一気に冷めていった。
カイはのんびりとした表情で、
茶の杯を持ち上げた。
少し前に、
ピコがこの家の中に残っていた音の痕跡を
すべて分析してくれていた。
(俺がいない間に、
ずいぶんいろいろ話していたな)
カイは心の中で笑った。
(あいつらは俺のことを知らない。
だが俺はもう、
あいつらの内情をほとんど知っている)
カイは口元を少しだけ上げた。
「では、あなたはいったい
何者なのですか?」
ネオが勢いよく立ち上がった。
しかしカイは、もともと背が高い。
ネオが急いで立ち上がっても、
目線の高さは大して縮まらなかった。
カイは慌てて立ち上がったネオを見下ろし、
小さく笑った。
「むしろ、あなたたちにとっては
そのほうが都合のいい話かもしれませんよ」
カイはわざと
余裕のある仕草で足を組んだ。
「俺は、バシュ商会を率いています」
彼は軽く続けた。
「せっかく手を貸すと決めたんです。
派手にやりましょう」
カイの視線が、
三人を順に見渡した。
「あなたたちが必ず勝てる盤面を
作ってあげます」
部屋の中が、
一瞬静かになった。
カイはすぐに、
バンへ視線を向けた。
「お前たちの計画を話してみろ」
バンは息を整え、
口を開いた。
「討伐軍が編成されるとしても、
帝都からここへ来るまでには
最低でもひと月はかかるはずです」
「確信は?」
カイはすぐに問い返した。
「俺なら近くの兵力を集めて、
そのまま一気に潰すが」
横で聞いていたネオが、
すぐに言葉を引き取った。
「帝国の指揮系統上、
地方軍が反乱の鎮圧に投入されることはない」
彼は落ち着いて説明した。
「これは中央軍の管轄だ」
カイはネオを見た。
ネオは続ける。
「軍部には、こちらの人間が何人かいる。
おかげで動向はある程度つかめる」
「軍の動向を?」
「そうだ。
その者たちが確認してくれた」
ネオは低く言った。
「すでに招集命令は下っているそうだ。
そうして集められた者たちが、
討伐軍として編成される」
カイはゆっくりとうなずいた。
「なるほど」
彼は杯を置いた。
「情報があるから、
そこまで余裕を見せていたわけですね」
カイの目が、
少し冷たくなった。
「そこまではわかりました」
だが。
「討伐軍がひと月後に来ようが、
ふた月後に来ようが、
今の状態では防げませんよね?」
部屋の中が静まり返った。
カイはためらわずに言った。
「武装は粗末。
訓練もできていない。
ただ人数を集めただけの烏合の衆じゃないですか」
その言葉に、
バンは答えられなかった。
「この状態でぶつかったら、
どうなるかわかりますか?」
カイの声は淡々としていた。
「男たちはほとんど死ぬ。
女たちは討伐軍に蹂躙されるでしょう」
ハキとバンが同時に
唾を飲み込んだ。
その落ち着いた声が、
なおさらぞっとさせた。
「帝国はこの地域全体を
見せしめにするでしょう」
彼は静かに付け加えた。
「草一本残さないように
するかもしれません」
その言葉を聞いたハキが
かっとなった。
「そんなクズみたいな貴族どもが来たら、
そのまま叩き潰せばいいでしょう!」
彼は拳を握りしめた。
「一気に蹴散らせば終わりじゃないですか!」
部屋の空気が、
微妙に変わった。
ネオは目を閉じた。
バンは首を
ほんの少し横に振った。
カイはハキを、
呆れたように見た。
それから視線を
バンへ移す。
「まさかお前も、
あんな無鉄砲な考えを持っているわけじゃないよな?」
カイは低く言った。
「中央軍は、お前が相手にしてきた
地方領主の兵とは違うはずだ」
彼は指先で、
軽く卓を叩いた。
「それに帝都の精鋭騎士団まで付くだろう」
バンはゆっくりとうなずいた。
「その通りです」
彼は壁際へ行き、
地図を持ってきた。
卓の上の茶の杯を脇へ寄せ、
大きく地図を広げる。
「こちらをご覧ください」
カイが身を乗り出した。
バンの指が、
イーストン地方の入口を示す。
細い峡谷がひとつ、
目に入った。
「ここがキャノン峡谷です。
天然の要塞です」
バンは地図を指しながら続けた。
「過去の戦争でも、
帝国が最後までこの地域を完全に征服できなかった
要となる地形です」
カイは地図を見下ろした。
バンが説明を続ける。
「我々は敵を、
できるだけ峡谷の中ほどまで誘い込みます」
その指が、
峡谷の内側へゆっくりと動いた。
「そうすれば、敵は総攻撃に移り、
我々を峡谷の奥へ押し込んでくるでしょう」
狭い峡谷。
その中へ押し寄せる兵力。
カイは頭の中で、
その光景を描いてみた。
バンが言葉を続ける。
「その瞬間、
峡谷を塞ぎます」
その言葉のあと、
バンはほんの一瞬だけ口を閉ざした。
カイはその間を見逃さなかった。
(峡谷を塞ぐ、という部分で
何か隠しているな)
だが今は、
あえて問いたださなかった。
バンは説明を続けた。
「峡谷が塞がれれば、
討伐軍は混乱するはずです」
彼は落ち着いて言った。
「農奴の反乱程度と見て侮って来たのに、
足止めされることになりますから」
バンは指先で地図をなぞった。
「そうなれば、選択肢は
二つにひとつです」
その指が、
峡谷の後方と、脇に広がる森を順に示した。
「撤退するか。
迂回するか」
カイが尋ねた。
「撤退はしないだろうな?」
「ええ」
バンはすぐに答えた。
「帝国の面子がかかっていますから」
彼は峡谷の左側に広がる森を指した。
「ですから討伐軍は、
迂回を選ぶはずです」
バンの指が、
地図上の森を押さえる。
「ハイウェヌの森です。
あなたを最初に見つけた場所ですね」
カイはそこでようやく、
その森がどれほど広いのかを
地図の上で確認した。
バンは続けた。
「反対側のキリークの森とは違い、
こちらには帝国側へつながる脇道があります」
その声が、
少し低くなる。
「小規模な兵力なら、
動かせます」
「奴らがそれを知っているのか?」
「反乱の際に逃げた行政官たちがいます」
バンが答えた。
「討伐軍は彼らを
道案内に使う可能性が高いでしょう」
しばらく言葉が止まった。
そのときハキが、
待っていたように口を挟んだ。
「森の中なら、
奴らは俺たちの相手じゃありません!」
彼は椅子から身を乗り出した。
「来る連中を片っ端から
蹴散らせばいいんです!」
バンが額に手を当てた。
だがハキは止まらなかった。
「全員の首を刎ねてやれば、
最後にはあいつらも怖じ気づいて
帝都へ逃げ帰るでしょう!」
カイはその言葉に、
小さく笑った。
「ハキ」
急に名を呼ばれ、
ハキがびくりとした。
部屋の空気が、
再び張り詰める。
カイはゆっくりと口を開いた。
「戦略はバンが、
戦闘はお前が担当するんだろう?」
ハキはすぐには答えられなかった。
カイはハキを見つめたまま、
ゆっくりと尋ねた。
「まず、キャノン峡谷の件から聞こう」
その声は低かった。
「それを、どうやって崩す?」
ハキの顔が固まった。
カイは止まらない。
「その後、森へ入ってきた
帝国の騎士や兵士たちは、
どうやってそんなに簡単に殺すつもりだ?」
彼は少し首をかしげた。
「さっきはずいぶん自信満々だったが」
ハキは唇を動かした。
だが、すぐには答えられなかった。
カイはその様子を見て、
小さく笑った。
「まさか、こうじゃないよな?」
彼は片手を上げ、
空中でひらひらと振った。
「崩れろ、峡谷よ」
カイはわざと
大げさな声で言った。
「そうすれば峡谷が
どどっと崩れる」
今度は指を、
森のほうへ向けた。
「そして森に入ってきた奴らには、
俺の首を取りに来たのか?
なら先に、お前の首を差し出せ」
彼はハキを見つめ、
冷ややかに言った。
「そう言えば、
奴らが勝手に死んでくれるのか?」
カイは首を横に振った。
「俺には理解できないな」
その目が細くなる。
「口先だけの大言壮語を並べる連中とは、
取引できない」
カイは指で、
茶の杯の縁を軽く叩いた。
「いくら俺が魔法使いでも、
商人でもあるんだ」
彼は冷たく言った。
「採算の合わないことに
投資はできない」
カイの目が、
さらに細くなった。
「このままなら、
さっき言ったことは
全部取り消すことになるな」
ハキはしばらく、
何も言えなかった。
何か言い返そうとした唇が、
何度か動く。
だが結局、
うつむいただけだった。
その沈黙を破ったのは、
バンだった。
バンは何かを決意したように、
低く硬い声で言った。
「峡谷を崩せる武器があります」
「バン!」
ネオが慌てて
片手を上げた。
軽率に言うな、という合図だった。




