週末の期待
木曜日の昼下がり。オフィスの窓から差し込む陽射しはどこか優しく、心なしか風も軽やかだ。パソコンの画面を叩きながら、私の頭の中は仕事のタスクではなく、今日の帰り道にあるスーパーのレイアウトで埋め尽くされていた。
なぜなら、今週末はようやく、待ちに待った「惣太くんが帰ってくる金曜日」なのだから。
(何を作ろうかな。やっぱり、彼が大好きなハンバーグかな。それとも、久しぶりに二人でつつくお鍋? ううん、もっと特別感のあるものがいいかも……)
そんなことを考えているだけで、キーボードを叩く指先まで弾んでしまう。
定時を告げるチャイムと同時に、私は誰よりも素早くデスクを片付け、バッグを抱えてオフィスを飛び出した。
最寄り駅の近くにある、いつものスーパー。
自動ドアをくぐると、色鮮やかな野菜たちが私を迎えてくれる。一人暮らしのときは「どうせ使い切れないし」と避けていた、丸々と太った立派なトマトのパックに、今日は迷わず手が伸びた。
「今夜はトマトの冷たい和風お浸しを作ろう。惣太くん、酸っぱくてさっぱりしたものが好きだもんね」
トマトを丸ごと湯むきして、白だしと少しの薄口醤油、そして刻んだ大葉をたっぷり合わせた特製のお出汁に、一晩じっくりと漬け込むのだ。口に入れた瞬間に、ひんやりとしたお出汁とトマトの果汁がジュワッと弾ける、夏の終わりのごちそう。
「トマト、三一個入りのパックで四百八十円かぁ……。少し高めだけど、週末の特別メニューだし、奮発しちゃえ!」
新婚の家計簿を脳内でパチパチと弾きながら、私はウキウキとカゴにトマトを滑り込ませた。
そのまま、お浸しの下ごしらえのために、一刻も早くキッチンへ立ちたくて、小走りでマンションへと帰る。
お気に入りのエプロンを身にまとい、調理台の前に立つだけで、一週間分の仕事の疲れがすうっと消えていくようだった。
「まずは、お湯を沸かして……と」
トマトのヘタをくり抜き、お尻の方に包丁で薄く十字の切れ込みを入れる。
沸騰したお湯に、そっとトマトを沈める。十秒ほど数えると、切れ込みを入れた部分から、赤い皮がツルリとめくれていく。
「よし、今!」
すくい網で手早く冷水にとる。指先で優しく撫でるだけで、トマトの皮はまるで薄紙のようにきれいに剥がれて、ツヤツヤとした美しい赤色の肌が露わになった。湯むきされたトマトは、まるでガラス細工のように繊細で美しい。
「うふふ、完璧。ここに、丁寧にとった和風出汁と、大葉を合わせて……」
タッパーの中に、お行儀よく並んだ三つの赤い球体。その上から、黄金色のお出汁をひたひたになるまで注ぎ込む。最後に細切りにした大葉を散らすと、赤と緑のコントラストが、目にも鮮やかで涼しげだ。
「これを冷蔵庫でしっかり冷やせば、明日の夜には最高に味が染み込んでいるはず」
タッパーにパチリと蓋をして、冷蔵庫の特等席へ。
早く惣太くんに見せたくて、まだ味見もしていないのに、私の心はすでに明日の夕食のテーブルへと飛んでいた。
「あ、でも、漬けたての味も確認しておかなくちゃね」
私はタッパーから、少し小さめのトマトを一つだけ、スプーンですくい上げた。
お皿に移し、お箸でそっと割る。まだ芯までは冷え切っていないけれど、お出汁の優しい香りがふわりと鼻腔をくすぐった。
一口、口へ運ぶ。
「んん……っ、美味しい……!」
湯むきしたことで、お出汁の旨味がトマトの酸味をまろやかに包み込んでいる。大葉の爽やかな香りが、後味をどこまでも上品にまとめてくれる。
「完璧。これ、惣太くん絶対に『うまい!』って言って、スープまで飲み干しちゃうやつだなぁ」
一人、キッチンでスプーンを握りしめたまま、私は幸せな予感に胸を膨らませていた。
明日、惣太くんがこのドアを開けて、「ただいま」と言ってくれる。
そして、このテーブルを二人で囲んで、同じものを食べながら、一週間の出来事を語り合うのだ。
その瞬間のことを想像するだけで、お腹の底からじんわりと温かい温度が広がっていく。
片付けを終えて、私はリビングのソファに腰掛けた。
まだ惣太くんから連絡は来ていない。仕事が長引いているのだろうか。
私はスマートフォンを引き寄せ、今日作ったばかりの、タッパーの中で美しく整列するトマトの写真を添付して、メッセージを送った。
湯子:『明日帰ってくるの、楽しみにしてるね。惣太くんの好きなトマトのお浸し、冷え冷えにして待ってるよ!』
いつもならすぐに既読がつくはずの画面は、静かなままだ。
「きっと、今が一番忙しい時間なんだよね。頑張れ、惣太くん」
私はスマートフォンの画面をそっと閉じ、胸の前に抱きしめた。
明日になれば、この静かな部屋に、彼の大きな笑い声が戻ってくる。
明日になれば、私はもう、「ひとりぶん」の寂しさを誤魔化さなくていい。
そんな愛おしい期待に胸を躍らせながら、私は冷蔵庫の中で静かに眠る、赤いトマトたちのことを想っていた。その冷たさが、明日の二人の時間をどれほど温かく彩ってくれるかを信じて、私はゆっくりと、幸せな眠りへと落ちていった。




