おふたりさま
金曜日の夕暮れ時。私はスーパーの精肉コーナーの前で、パックに入った合挽き肉を手に持ったまま、凍りついたように立ち尽くしていた。
冷気が私の頬を容赦なく撫でていく。スマートフォンの画面には、数分前に届いたばかりの、惣太くんからの短いメッセージが光っていた。
惣太:『湯子、本当にごめん。工場のラインで急な機械トラブルがあって、どうしても現場の立ち会いが必要になっちゃった。今日そっちに帰れなくなった……本当に申し訳ない』
「そっか……。お仕事、だもんね。仕方ない、よね……」
小さな呟きは、スーパーの喧騒にかき消されて消えた。
惣太くんが悪いわけじゃない。誰よりも悔しくて、今頃仕事場で頭を下げているのは彼の方なのだ。それは痛いほどよく分かっている。
分かっているけれど。
冷蔵庫の中には、昨夜から冷え冷えに冷やして、美味しくお出汁を吸い込んでいるはずの「トマトのお浸し」のタッパーが入っている。
惣太くんが「うまい!」と喜んでくれる顔を思い浮かべながら作った、私の週末の希望。それが、行く宛を失ってひっそりと佇むしかなくなってしまった。
私はゆっくりと、棚に戻そうとした合挽き肉のパックを、どうしても戻せなかった。
気づけば、それをカゴの中に滑り込ませて、トボトボとレジへと向かっていた。
(今夜は、ハンバーグにしよう。お肉をこねている間だけは、余計なことを考えなくて済むから)
マンションへ帰り、明かりのついていない冷たい部屋の電気を点ける。
お気に入りのエプロンを結ぶ手が、いつもより少しだけ重い。
窓の外を見上げると、いつの間にか重苦しい灰色の雲が空を覆い尽くし、ぽつ、ぽつと、不穏な雨がガラスを叩き始めていた。
「ハンバーグは、牛と豚の『黄金比・七対三』。つなぎのパン粉は牛乳にしっかり浸して、玉ねぎはみじん切りにしてからバターでじっくり飴色になるまで炒めて、ちゃんと冷ましてから合わせる……」
私は呪文のように、頭の中のレシピを口ずさみながら手を動かした。
冷たいひき肉をボウルに入れ、炒めた玉ねぎ、卵、塩、コショウ、それからほんの少しのナツメグを加える。手の熱がお肉の脂を溶かしてしまわないよう、指先をすぼめて、手早く、だけど均一になるようにこねていく。
ペチ、ペチ、と両手の間でお肉のキャベツボールをするようにして、中の空気を抜いていく。
そのとき、私は自分の手のひらの上で、ふっくらときれいな小判型に成形された肉だねが、いつの間にか「二つ」並んでいることに気がついた。
「……あ」
私は苦笑を漏らし、お肉のついた手で自分の額を軽く叩いた。
「だめだなぁ、私。一人分なら、小さめのを一個だけ作ればよかったのに。何が『スマートな新婚妻』よ。体の方が、すっかり二人分の分量を覚え込んじゃってるじゃない」
フライパンに火をかけ、薄く油を引く。
じゅう、と心地よい音を立てて、二つのハンバーグが並んで並べられた。
強火で両面に美味しそうな焼き色をつけ、肉汁をぎゅっと閉じ込める。その後、赤ワイン、ケチャップ、ウスターソース、そして少しの醤油を加えて蓋をし、弱火でじっくりと蒸し焼きにする。
フライパンの隙間から、お肉の焼ける甘い香りと、デミグラス風ソースのコクのある酸味が、ふわりと立ち上る。
いつもなら、この匂いを嗅いだだけで、リビングのソファから「おっ、今日のメインはハンバーグ!?」と、嬉しそうな声が飛んでくるはずだった。
「できたよ……」
完成したのは、ふっくらと丸みを帯び、艶やかなソースをまとった見事なハンバーグが二皿。
私はそれを、ダイニングテーブルの、いつもの席と、その向かい側の席へとそれぞれ運んだ。
外は、いつの間にか激しいゲリラ豪雨へと変わっていた。
バリバリと窓を叩く雨の音と、時折遠くで響く雷の音が、部屋の静けさをより一層引き立てる。
私は自分の席に座り、桜色のお箸を手にとった。
対面の席には、藍色のお箸は並んでいない。ただ、誰も座っていない椅子の前に、もう一皿の、湯気を立てるハンバーグがぽつんと置かれているだけ。
「いただきます……」
お箸の先で、ハンバーグをそっと割る。
中から、じゅわっ、と透明できらきらとした肉汁が溢れ出し、特製ソースの海へと溶け出していく。
一口、口に運ぶ。
「うん……美味しい。お肉の焼き加減も完璧だし、ソースもコクがあってお店の味……なのに」
咀嚼するたびに、胸の奥がツンと痛む。
どんなに完璧に作れても、お肉の旨味が私の味覚に届く前に、心の中の寂しさに吸い込まれて消えていってしまうような気がした。
ふと視線を上げると、対面の席のハンバーグから、少しずつ湯気が薄れていくのが見えた。
あんなに温かそうだったデミグラスソースが、室温に押されて、端の方から少しずつ白く固まり始めている。
誰も触れることのない、冷めていくごちそう。
「やっぱり、一人のご飯は、あんまり美味しくないよ……」
ぽつり、と溢した独り言が、激しい雨音にかき消される。
その瞬間、私の目から、我慢していた温かい涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
涙は頬を伝い、ハンバーグのソースの上に落ちて、小さな波紋を描いて消えていく。
付き合っていた頃から、寂しいときはいつも「大丈夫だよ」と笑ってきたはずなのに、結婚して「家族」になったからこそ、一人でいる夜の孤独が、これほどまでに私の心を締め付けるのだと初めて知った。
私はお箸を置き、テーブルに伏せて、激しくなる雨音に身を委ねるようにして、静かに泣き続けた。
――ピンポーン。
突然、リビングに響き渡った甲高い電子音に、私は肩をびくりと揺らした。
時計の針は、夜の九時半を回っている。こんな時間に、一体誰だろう。
私は慌てて涙を拭い、少し警戒しながら玄関へと向かった。
「はい、どなたですか……?」
インターホンの画面を覗き込む。そこに映し出されていたのは、歪んだ魚眼レンズ越しでもはっきりと分かる、見慣れた、愛しい夫の顔だった。
「湯子! 俺! 開けて!」
私は驚きのあまり息を呑み、鍵を外して勢いよくドアを開けた。
「惣太、くん……!?」
そこに立っていたのは、息を切らし、前髪から肩、スーツのジャケットに至るまで、ぐっしょりと水滴を滴らせた惣太くんだった。
手には泥の跳ねたビジネスバッグを強く握りしめている。
「はぁ、はぁ……間に合っ、た……。新幹線が、大雨で遅れててさ、駅からずっと走ってきたんだ」
「な、なんで!? お仕事は!? 来週まで帰ってこられないんじゃ……」
「トラブル、死ぬ気で片付けたんだよ! 明日の立ち会いは、他のメンバーが『新婚なんだから早く帰れ!』って背中を押してくれてさ。……湯子の、手料理が食べたくて。湯子を一人にしちゃいけないと思って、最終の新幹線に飛び乗ったんだ」
惣太くんは、濡れた顔をくしゃりと歪めて、子供のように笑った。
彼の肩から滴る雨水が、玄関の床に小さな水たまりを作っていく。
そのずぶ濡れで不格好な姿が、私の目には、世界で一番格好いいヒーローのように見えた。
「もう……バカだよ、惣太くん。傘も持たないで走るなんて、風邪ひいちゃうじゃない!」
私はまた涙が溢れてくるのを堪えながら、彼の手を引いて家の中へと招き入れた。
「ほら、早くお風呂に入って! 風邪ひいたら絶対に許さないからね!」
「あはは、分かった、分かったから! あ、でも湯子、お腹減りすぎて倒れそうなんだ。ご飯、ある?」
「あるよ、世界一美味しいハンバーグがある。温め直しておくから、早く行って!」
惣太くんを浴室へと追い出し、私は急いでキッチンへと戻った。
ダイニングテーブルの上で、すっかり冷めて固まってしまった二皿目のハンバーグ。
私はそれを、フライパンへとそっと戻した。
「一度冷めちゃったハンバーグを、そのまま電子レンジでチンしちゃダメ。お肉の繊維が縮んで、せっかくの肉汁が全部逃げちゃうから」
私はコンロに極弱火を点けた。
フライパンの底で、固まっていたデミグラスソースがゆっくりと熱を得て、再びトロリとした液体へと戻り始める。
そこに、少量の赤ワインと、少しのケチャップ、そして小さなバターをひとかけら、おまじないのように足してやる。
スプーンを手に取り、フライパンに溜まった熱いソースをすくい上げ、ハンバーグの頭から何度も、何度も、優しく回しかけていく。
ゆっくりと、じっくりと、お肉の芯まで熱が伝わっていくように。
「温かくなあれ。一番美味しくなあれ」
お風呂場から、微かにシャワーの音が聞こえてくる。
その音を聞きながら、温め直す私の心も、料理と一緒にじんわりと、確かな熱を取り戻していくのが分かった。
キッチンに再び立ち上る、甘くて、少し酸っぱくて、最高に温かいデミグラスソースの香り。
「よし、ふっくら感、完全復活!」
お皿に盛り付け直した瞬間、お風呂上がりの、頭にタオルを乗せた惣太くんが、パジャマ姿でキッチンを覗き込んできた。
「うわあ……めちゃくちゃ良い匂い。湯子、ただいま!」
「おかえり、惣太くん。早く席について、冷めないうちに食べよ?」
テーブルを挟んで、私たちは向き合った。
手元には、引き出しの奥で眠っていた、お揃いの藍色と桜色のお箸。
並んだ二皿の、ほかほかと温かい湯気を立てるハンバーグ。
「「いただきます!」」
声を揃えて手を合わせ、お箸を手にする。
惣太くんは、待ってましたとばかりにハンバーグを大きく一口、頬張った。
彼の目が、こぼれ落ちそうなくらい丸くなる。
「うっっっま!!! なにこれ、本当に温め直したの!? 信じられないくらい柔らかくて、肉汁が口の中で爆発してる!」
「ふふ、湯子特製の、復活の温め直し術だよ。……美味しい?」
「世界一うまい! 湯子のハンバーグ食べたら、今週の疲れなんて一瞬で吹き飛ぶよ。やっぱり、これだよ。俺の胃袋には、この味が一番馴染むんだ」
惣太くんは、お茶碗の白米を猛烈な勢いでかき込みながら、本当に幸せそうに破顔した。
その嵐のような、だけど愛おしい食べっぷりを見つめながら、私も自分の分のハンバーグを口に運んだ。
はむり、と咀嚼する。
「あ……美味しい」
さっき、一人で泣きながら食べたものと同じはずなのに、全く違う。
お肉の旨味はより深く、ソースのコクはより甘く、口の中から体全体へと、優しい温もりが広がっていく。
誰かと「美味しいね」と言い合いながら囲む食卓が、どれほど私の心を救ってくれるか。
私の右手は、二人分の分量を作り続けていて、本当に、間違いじゃなかったのだ。
「惣太くん、昨日仕込んだトマトのお浸しも冷蔵庫にあるよ。冷え冷えで、すごく味が染み込んでるの」
「マジで!? 食べる、絶対食べる! 湯子、おかわりもある?」
「ふふ、もちろん。今日は『ふたりぶん』、たっぷりあるからね」
外の雨の音は、いつの間にか静かな秋の夜の音へと変わっていた。
電波を通したスマートフォンの画面越しではなく、今、私の目の前で、大好きな人が私の作った料理を食べて笑っている。
その当たり前で、何よりも特別な奇跡が、私の胸をいっぱいに満たしていった。
翌朝。
遮光カーテンの隙間から、爽やかで眩しい、まっすぐな朝日がキッチンの床を白く照らしていた。
私は朝早くに目が覚めて、ウキウキとした足取りでフライパンを火にかけていた。
ジュウジュウ、とウィンナーが弾ける元気な音。
横のコンロでは、卵焼き器できれいな黄色の卵焼きが、くるり、くるりと丁寧に巻かれていく。
今日は、卵を贅沢に四個使った、甘めの卵焼きだ。
「今日は、正真正銘、二人分の朝ごはんだね」
これからは、多く作りすぎて困ることなんて、きっとない。
だって、私の隣には、私の「つくりすぎ」を全部、世界一の笑顔できれいに平らげてくれる、愛しい相棒がいるのだから。
背後から、すっと温かい腕が私の腰に回され、まだ少し眠そうな惣太くんが、私の肩に顎を乗せた。
「ん……いい匂い。湯子、おはよ」
「おはよ、惣太くん。もうすぐできるから、お顔洗ってきて」
「湯子、いつもたくさん美味しいご飯を作って待っててくれて、本当にありがとう。これからは、毎週意地でも帰ってくるからね」
「もう、無理はしちゃダメだよ。……でもね、帰ってきたときは、私のつくりすぎた愛情レシピ、全部残さず食べてよね?」
「当たり前じゃん。一生かけて、全部きれいに平らげるよ」
朝の光の中で、私たちは顔を見合わせて、クスリと笑い合った。
テーブルの上に並ぶ、ほかほかの朝ごはん。
ふたつのごはん茶碗と、お揃いの藍色と桜色のお箸。
おふたりさまの、温かくて美味しいこれからの日々が、今、ここから静かに始まっていくのだ。
ハンバーグうまそー
こんばんは、小林一咲です。
久しぶりのグルメ、いかがだったでしょうか。短編とはなりましたが、なかなか感動するし、お腹減るし、って感じだったのではないでしょうかね。(ハナホジ)
ではまた。




