今度こそひとりぶん
金曜日の夜。一週間の仕事の澱を洗い流すように、私はキッチンのシンクにぬるま湯を流し、深呼吸をした。
窓の外からは、帰路を急ぐビジネスマンたちの足音や、かすかな車の走行音が響いてくる。東京の夜は相変わらずせわしないけれど、この狭いキッチンだけは、私だけの穏やかな聖域だ。
「今日こそは。今日こそは絶対に、スマートで完璧な『ひとりぶん』を作るのよ、湯子」
私はエプロンの紐をきゅっと結び直し、調理台の上に食材を並べた。
今夜の献立は、心も体も芯から温まる「豚汁」だ。
冷房の風で少し冷え切った体に、お出汁とお味噌の温もりを注ぎ込みたい。それだけの、ごくささやかで、個人的な欲求。
だからこそ、作る量は厳密に一人分でなければならない。
私はまな板の前に立ち、ゴボウを手に取った。
「まずはゴボウ。泥をきれいに洗い流して、皮を包丁の背でこそげて……よし、ささがきにしよう」
トントン、トントン、と包丁がまな板を叩く軽快な音が響く。水を入れたボウルにゴボウが落ち、透き通った水がみるみるうちに淡い褐色に染まっていく。アクが抜けている証拠だ。
「……で、問題はここからよね」
私は包丁を止め、残ったゴボウの塊を見つめた。
ゴボウという野菜は、実に厄介な規格をしている。一本がとても長い。一人分の豚汁に使う量なんて、せいぜい五センチメートルもあれば十分だ。
「残りのこれ、どうしよう。切り口にラップを巻いて冷蔵庫に入れておいても、数日後にはカサカサに乾いて、哀れな木の枝みたいになっちゃうのよね。きんぴらにするにしても、一人でそんなに何種類もおかずを食べられないし……」
私はうーん、と唸りながら、ゴボウの残骸を見つめた。
そして、誘惑に負けるように包丁を動かす。
「……えい、全部ささがきにしちゃえ。ゴボウはたくさん入っていた方が、出汁に深みが出るものね!」
これがいけなかった。
堤防が決壊するように、私の「もったいない精神」と「美味しさへの妥協なきこだわり」が暴走を始める。
「次は大根。……うん、これも中途半端に輪切りで残すと、次に使うときには表面がすっかり黄色くなって乾いちゃう。だったら、いちょう切りにして全部煮ちゃった方がいいよね。ニンジンも、半分だけ残して野菜室の隅でシナシナにさせるくらいなら、一個丸ごと使っちゃおう。栄養も摂れるし!」
トントン、トントン。包丁の音はどんどん小気味よくなっていくが、比例してまな板の上の“根菜の山”は標高を増していく。
「あ、コンニャク。半分だけ水に浸して保存容器に入れておくと、お水の入れ替えを忘れてすぐにダメにしちゃうんだよね。手でちぎって全部入れちゃえ。味が染みて美味しいし、カロリーはほぼゼロだし!」
極めつけは、お豆腐だった。
「お豆腐一丁。……一人分の豚汁に一丁は、さすがに多い? でも、半分だけ残して翌日の冷奴にするにしても、この冷える夜に冷たい豆腐なんて食べたくない。……よし、使い切ろう。お豆腐は崩しながら入れれば、出汁をよく吸って絶品になるんだから!」
気がつけば、私の目の前には、お肉を炒める前の段階で、すでに小さな山のようになった色とりどりの具材たちが鎮座していた。
「……うん、知ってた」
私は両手を腰に当て、大きなため息をついた。
「汁物っていうのはね、一人分作るのが、宇宙旅行に行くくらい難しいのよ」
そもそも、具だくさんの豚汁を美味しく作ろうと思えば、具材の旨味を引き出すために、それなりの「体積」が必要になる。少量の水でちまちまと煮ても、あの深みのある美味しさは生まれないのだ。料理好きとしてのプライドが、私にミニマムな調理を許してくれない。
「いいもん。豚汁は二日目、三日目の方が味が染みて美味しいんだから」
自分にそう言い聞かせ、私はごま油を熱した両手鍋に豚バラ肉を投入した。
ジューッ! と脂の弾ける小気味よい音が響き、豚肉の甘い香りが立ち上る。
そこへ、水気を切った根菜たちとコンニャクを一気に流し込んだ。
ゴトゴト、ゴトゴト。
お肉の旨味を野菜に吸わせるように、全体をしっかりと炒め合わせる。
水を注ぎ、沸騰して出てきたアクを丁寧に、すくい取る。
仕上げに、我が家お気に入りの仙台味噌をたっぷりと溶かし入れ、崩したお豆腐を加えてひと煮立ち。
「できた……」
完成したのは、一人暮らし用のワンルームには不釣り合いな、なみなみと豚汁が湛えられた両手鍋だった。
まるで、大家族の夕食準備を終えたかのような錯覚に陥る。だが、食卓に用意されたお盆の上には、やはり桜色のお箸が一膳だけだ。
「いただきます……」
私は大きめの汁椀にたっぷりとよそった豚汁に、静かに手を合わせた。
まずはスープを一口。
「ふー、ふー、はふっ……。んんん……!」
ごま油のコク、豚肉の甘み、そしてゴボウや大根から出た大地の旨味が、お味噌の塩気と完璧に融合して、五臓六腑に染み渡っていく。
お箸で大根をすくい、口に運ぶ。
じゅわっ、とスープが溢れ出し、口の中でほろほろと崩れていった。
「美味しい……。大成功。やっぱり、具材をケチらなくて正解だった」
ハフハフと息を吹きかけながら、夢中で食べ進める。冷え切っていた胃の腑が、内側からじんわりと熱を帯びていくのが分かる。
けれど。
半分ほど食べ終えたところで、ふと視線を落とすと、コンロの上には、まだ小高い山を作れそうなくらいの豚汁が、鍋の中で静かに佇んでいる。
「美味しいんだけどね。……これ、明日も明後日も豚汁確定だなぁ。これじゃ長谷中家、『秋の豚汁祭り』開催だよ……」
一人で食べる美味しい豚汁。
美味しい。けれど、やっぱり「美味しいね」と同意を求める相手がいない食卓は、どこか風が通り抜けるように寂しい。
もし惣太くんがいたら、
『うわ、この豚汁、具がゴロゴロで最高! 湯子、おかわり!』
と、大きなお椀を両手で差し出して、何度も鍋とお皿を往復してくれたはずなのに。
「ごちそうさまでした」
私はお椀をきれいに平らげ、手を合わせた。
残ってしまった大量の豚汁。私は鍋に蓋をし、冷ましてから冷蔵庫に入れる準備をする。
片付けを終えて、時計を見ると夜の九時。
ふぅ、と小さく息を吐きながら、リビングのソファに体を沈めた。
すると、テーブルの上でスマートフォンが小刻みに振動した。
ビデオ通話の着信。画面には、待ち望んでいた「惣太」の文字。
「もしもし、惣太くん!」
画面をタップすると、ホテルの窮屈そうなシングルルームのベッドに腰掛け、缶ビールを持った惣太の姿が映し出された。
『湯子! お疲れ様! 今やっと仕事が落ち着いてさ。そっちはもう、夜ご飯食べた?』
「うん、いま食べ終わったところ。今日はね、豚汁を作ったの」
『ええっ、豚汁!? いいなぁ!』
惣太は画面の向こうで、本当に羨ましそうに目を輝かせた。
「でもね、やっぱり『ひとりぶん』が作れなくてさ。見てこれ」
私はカメラをキッチンの両手鍋に向けた。
「お鍋いっぱいにできちゃった。これ、あと三日は豚汁祭りだよ」
画面の中の惣太は、一瞬ぽかんとした後、お腹を抱えて笑い出した。
『あはは! 湯子、それ、どう見ても四人分はあるよ! コンニャクもお豆腐も、全部一気に使っちゃったでしょ』
「だって、中途半端に残すと悪くなっちゃうんだもん。……惣太くんがいたら、一瞬でなくなるのに」
少しだけ拗ねたように呟くと、画面の中の惣太の笑い声が、ふっと和らいだ。
彼は缶ビールを画面のカメラに向け、優しい目で私を見つめた。
『うん。俺がいたら、お代わり三回は余裕だったのにな。……ごめんね、いつも一人で食べさせちゃって』
「ううん、お仕事だもん。仕方ないよ」
『あーあ、早く湯子と一緒にテーブル囲んでさ、同じものを食べて『うまいね』って言い合いたいよ。一人でコンビニ弁当食べてると、湯子の手料理が本当に恋しくなる』
「うん、私も。早く帰ってきてね、惣太くん。温め直して、いつでも食べられるようにしておくから」
『ありがとう。約束な。……じゃあ、画面越しだけど、今週もお疲れ様の乾杯しようか』
「うん。かんぱい」
画面の向こうの缶ビールと、私の手の中のグラスが、電波の海を越えてかすかに重なったような気がした。
通話を切り、再び静かになったリビング。
だけど、さっきまでの寂しさは、もうそこにはなかった。
冷蔵庫の中で眠る大きなお鍋。
明日も、明後日も、私はあの豚汁を食べる。
だけどそれは、ただの「残り物」の消費ではない。彼が帰ってきたときに、もっと美味しい「ふたりぶん」を作るための、私の大切な練習なのだから。
私はお布団に潜り込み、ほんのりと残る豚汁の温もりを感じながら、幸せな夢の中へと滑り込んでいった。




