胃袋に刻まれた
「あさりの砂抜きって、どうしてこう、毎回ハラハラするのかな」
木曜日の夕暮れ。私はキッチンのシンクにステンレスのボウルを置き、じっとその中を見つめていた。
ひたひたの塩水に浸されたあさりたちは、まだ警戒しているのか、硬い殻をぎゅっと閉ざしたままだ。
「水一カップに対して、塩は小さじ一。だいたい三パーセントの、海と同じ濃さ。これで合っているはずなんだけど……」
新聞紙をふわりとボウルの上に被せ、あたりを暗くしてやる。こうすると、彼らは自分が海にいると錯覚して、安心して管を伸ばし、砂を吐き出すのだ。
なんだか、まんまと騙されているあさりたちが少し愛らしくもあり、同時にちょっとだけ申し訳ない気持ちになる。
今日の主役は、あさりとキャベツ。これで冷えた白ワインをドボドボと注ぎ、一気に蒸し上げるのだ。
「でも、あさりってどうしてパック単位でしか売ってないのかなぁ」
私は新聞紙の隙間からボウルを覗き込み、小さく溢した。
「一人分にはどう考えても多すぎるのよね。余らせて冷凍するのも、砂抜きした後に水気を拭き取ったりして結構面倒だし……。やっぱり、一パック全部使うしかないか」
そんな風に「仕方がない」と言い訳をしながら、私の手はすでに、もう一つの主役であるキャベツを手に取っていた。
キャベツは包丁で切るよりも、手で大胆にちぎった方が断面が不揃いになり、あさりの旨味たっぷりのスープをよく吸い込んでくれる。バリ、バリ、と小気味よい音がキッチンに響く。
フライパンにオリーブオイルを大さじ一。そこにスライスしたニンニクと、種を抜いた赤唐辛子を放り込む。
弱火でじっくり温めていくと、やがてオイルの湖から小さな泡が立ち上り、ふつふつと食欲をそそる芳ばしい香りが漂い始めた。ニンニクがうっすらときつね色に色づいた、ベストタイミング。
「よし、あさり投入!」
しっかり水気を切ったあさりを一気に滑り込ませる。ジッと激しい音がして、ニンニクの香りが一気に弾けた。すかさずキャベツの山をその上に被せ、お気に入りの辛口白ワインを惜しみなく回しかける。
ジュワァァァ……
沸き立つアルコールの甘やかな湯気が立ち上る。すかさず蓋をして、火を強めた。
ここからは、フライパンの中で繰り広げられる「貝たちのオーケストラ」に耳を澄ます時間だ。
カタ、カタ、とアルミの蓋が小さく震える。
しばらくすると、パチン、パチン、と、あさりたちが殻を開く小気味よい音が聞こえ始めた。
「よしよし、みんな開いたね」
蓋を取ると、そこには白濁した濃厚なスープの海に浸かり、ぷっくりと身を膨らませたあさりたちと、スープを吸って鮮やかなエメラルドグリーンに変化したキャベツが美しく収まっていた。仕上げに醤油をほんの一たらし。和風の香ばしさが加わり、味がきゅっと引き締まる。
「できた。あさりとキャベツの白ワイン蒸し」
深めのお皿に盛り付けると、潮の香りとニンニクの匂いが部屋いっぱいに広がった。
ダイニングテーブルへと皿を運ぶ。
今日も私の目の前には、桜色のお箸が一膳だけ。
対面の椅子は、夕暮れの薄暗い光の中に、ぽつんと静まり返っている。
「いただきます」
お箸で、まずはスープをたっぷり吸ったキャベツを口に運ぶ。
噛んだ瞬間、あさりの濃厚な出汁と、白ワインのフルーティーな酸味、そしてキャベツ自身の優しい甘みがジュワッと溢れ出した。
「んん……! 美味しい……っ」
ニンニクのパンチとピリッとした唐辛子の辛みが、全体の味を絶妙に引き締めている。あさりの身もぷりぷりとしていて、噛むたびに海の旨味が弾けるようだ。
「やっぱり、大成功。……だけど」
ふと、お箸を動かす手が止まる。
食べるそばから、お皿の端に積み上がっていく、あさりの貝殻。
その灰色の殻の山を見つめていると、胸の奥が少しだけ、ちくりと痛んだ。
以前、これと同じものを二人で作ったときのことだ。
惣太は、あさりの身を器用に殻から外しては私の小皿に分けてくれ、自分はスープが滴るキャベツを嬉しそうに頬張っていた。
『湯子、この残ったスープさ、絶対に旨味の塊だよな。これでパスタ作ったら、絶対ヤバいよ』
そう言って、彼はまだ食事の途中だというのに、早くも「次の美味しさ」に目を輝かせていたのだ。
彼のそんな、子供みたいに素直な食い意地が、私はたまらなく愛おしかった。
「一人だと、パスタまでたどり着けないよ……」
山盛りのキャベツとあさりを一人で黙々と食べ進める。お腹は満たされていくのに、胃のどこかに冷たい風が通り抜けていくような、奇妙な感覚。
結局、スープを少し残した状態で、私はごちそうさまをした。このスープは、明日まで冷蔵庫で大切にとっておこう。彼の言った通り、明日はこれでパスタを茹でるのだ。一人分だけど。
パジャマに着替え、すっかり静まり返ったリビングでソファに身を沈める。
テレビのバラエティ番組の笑い声が、どこか遠くの出来事のように響く中、スマートフォンを手に取った。
ピコン。
惣太:『ただいま! 今日は得意先の接待で、焼き鳥をたくさん食べてきたよ。でも、やっぱりなんか物足りないなー』
画面の向こうの惣太からのメッセージ。私は少しだけ悪戯心を込めて、写真を一枚送った。
湯子:『お疲れ様! 私はこれ。あさりとキャベツの白ワイン蒸し。一人で全部食べたよ(笑)』
すぐに、惣太からビデオ通話の着信が入った。画面をタップすると、ホテルのベッドに寝転がった惣太の、少し赤い顔が映し出される。
『うわー、湯子! ずるい! それ俺が一番好きなやつじゃん!』
「ふふ、焼き鳥食べてきたんでしょ? 贅沢言わないの」
『だってさ、焼き鳥も旨いんだけど、やっぱり湯子のあの、ちょっと醤油をたらした和風のスープが恋しいんだよ。あのスープに、パスタ絡めて食べるのが世界で一番好きなんだから』
画面越しの惣太は、本当に悔しそうに眉を下げて、お腹をさするジェスチャーをしてみせる。
彼の言葉に、私の胸の奥に溜まっていた小さな寂しさが、春の雪のように柔らかく溶けていくのが分かった。
「……うん。ちゃんとスープ、残してあるよ。明日、一人でパスタにして食べるね」
『ええーっ! 抜け駆けだ! でも、美味しそうだな……。あーあ、早く帰って湯子のご飯が食べたいよ』
「私も、早く惣太くんに食べてほしいな」
そう口にすると、画面の向こうの惣太が、少し照れたように、だけどとても温かい目をして私を見つめた。
『うん。来週末は、絶対に帰るからね。待ってて』
「うん、待ってる」
通話を切り、静かになった部屋で、私はキッチンの方を見やった。
冷蔵庫の中に眠る、旨味たっぷりのスープ。
明日、それを使って作るパスタは、きっと今日よりも、ほんの少しだけ美味しく感じられるはずだ。彼の「美味しい」という記憶が、ちゃんとこの部屋の中に満ちているのだから。




