新婚、なのに“ひとり飯”
私の右手は、どうやら一ヶ月前までこの家に暮らしていた男の胃袋の大きさを正しく記憶しているらしい。
テフロンのフライパンから、頼もしくも、いささか暴力的な音が響く。
薄切りの豚肩ロース肉が熱せられたフライパンの上で身を縮め、きらきらとした黄金の脂を滲み出させていく。
「うん、やっぱり生姜焼きは肩ロースに限るよね。ロースより脂が乗っていて、バラより肉感が残る。新婚の家計には少しだけ優しくないけれど……ここだけは、湯子お姉さん譲れません」
誰に言い訳するでもなく、私は菜箸をリズミカルに動かしながら鼻歌を交える。
今夜の生姜焼きは、私の脳内レシピにおける最高傑作になる予定だった。
タイミングを見計らい、あらかじめ合わせておいた特製タレを一気に回しかける。すりおろした黄金生姜に、醤油、みりん、そして隠し味のハチミツ。
ジューーーッ!!!
途端、キッチンに白い爆煙が立ち上る。醤油が焦げる香ばしい芳香と、生姜のツンと鼻を抜ける爽やかな薫風。この匂いだけで白米が三杯はいける。
「よしよし、そこにタマネギを投入」
あらかじめ電子レンジでしんなりとさせておいたタマネギの細切りを、フライパンの肉の海へ滑り込ませる。生のまま炒めると肉が硬くなるし、タマネギの水分でタレが薄まってしまう。この「レンチン」というひと手間が、タレを均一に吸わせ、タマネギを飴色のトロトロに仕上げるための極意なのだ。
フライパンをあおりながら、私はふと、薄暗い換気扇のフィルターを見上げてため息をついた。
「それにしても、タマネギってどうしてあんなに自己主張が激しいのかしら。一個丸ごと使うと多すぎるのに、半分だけ残して冷蔵庫の片隅に置いておくと、いつの間にかカサカサのミイラみたいになっちゃう。近所のスーパーも、もう少し『半分野菜』のバラ売りを増やしてくれたらいいのに。独り身……じゃないや、ひとり暮らしの味方にさ」
そんな些細な小言を換気扇に吸い込ませながら、私はお気に入りの大皿を引っぱり出した。
純白のお皿の中央に、包丁の背でトントンと叩いてふんわりと仕上げた千切りキャベツを、夏の入道雲のごとく山盛りにする。
そのお隣へ、ツヤツヤのタマネギをまとった肉厚な豚肉を、これでもかと盛り付けていく。仕上げに、フライパンに残った極上のタレをご飯にかけるソースのように回しかけた。
「できた! 湯子特製、タマネギたっぷり生姜焼き!」
完璧だった。お肉の布団の上で、飴色のタマネギたちが照明を浴びてキラキラと輝いている。
出来立ての皿を両手で持ち、弾むような足取りでダイニングテーブルへと運ぶ。
そして、引き出しからお箸を取り出そうとして――私の指先が、ぴたりと凍りついた。
引き出しの中で静かに並んでいるのは、二膳のお箸。
私の手が無意識につまみ上げようとしたのは、少し大ぶりな藍色のお箸だった。
「……あ」
私は細い息を吐き出し、つまみ上げたお箸をそっと引き出しに戻した。代わりに、少し小ぶりな、桜色のお箸を一膳だけ取り出す。
「そうだった。惣太くん、今週は帰ってこられないって、お昼に連絡が来てたんだった」
リビングの掛け時計がコチコチと秒針を刻む音が、やけに大きく鼓膜に届く。
テーブルの上には、どう見ても二人前はある、大盛りにして山盛りの生姜焼き。
対して、そこに用意されたのは、桜色のお箸がたったの一膳。
「また、やっちゃったなぁ……」
ぽっかりと空いた私の向かい側の席。誰も座っていないその椅子を見つめながら、私は寂しげな苦笑を浮かべるしかなかった。
私たち、長谷中夫婦は、結婚してまだ三ヶ月。
「新婚」という響きが、まだ真新しい靴のように足元でくすぐったく跳ねる時期だ。
それなのに、夫の惣太は結婚式が終わってわずか二週間後、会社の非情な人事発令によって、片道三時間はかかる地方の営業所へ単身赴任となってしまった。
お互いに「まさかこのタイミングで」と頭を抱えたが、仕事とあっては仕方がない。平日は東京のマンションで私がひとり暮らしをし、週末に惣太が帰ってくる――そんな「おふたりさま」の週末婚生活が始まったのだ。
だが、私の身体は、未だに「ひとりぶん」の感覚を取り戻せずにいる。
“大好きな人が、美味しそうに食べてくれる顔”
それだけをガソリンにしてキッチンに立ち続けてきた私の右手は、料理を始めると、どうしても二人分の分量をフライパンに放り込んでしまうのだった。
「……冷めちゃう前に、いただきます」
私は桜色のお箸を合わせ、小さく手を叩いた。
まずは一番肉厚なロース肉を一枚、千切りキャベツを巻くようにしてお箸で挟み、口へ運ぶ。
はむり、と咀嚼する。
じゅわっと口いっぱいに広がる豚肉の力強い旨味。ハチミツの優しい甘みが加わった醤油ダレが、シャキシャキとしたキャベツの水分と混ざり合って、最高のハーモニーを奏でる。レンチンしたタマネギは、噛む必要がないほどトロトロに甘い。
「んん……美味しい。我ながら、完璧」
我知らず笑みがこぼれる。間違いなく、私の作った生姜焼きの中で、今日が一番の出来栄えだ。
炊き立ての白米を追いかけるように口に放り込む。至福の瞬間。
……のはずなのに。
お肉をごくりと飲み込んだ後、ふっと鼻から抜ける生姜の香りが、なぜだか少しだけ、いつもよりツンと冷たく感じられた。
誰もいないリビング。テレビの音を消しているせいか、外を通る車の走行音や、遠くで鳴く虫の声が、妙に鮮明に聞こえる。
いつもなら、私の目の前で、
「うおお、湯子の生姜焼きは世界一! 白米が無限に消えていく!」
と、額に汗をかきながら、お茶碗を片手に猛烈な勢いで肉をかき込んでくれる男がいる。
「コラ、ちゃんと噛んで食べなさい」と私が呆れると、「だって美味すぎるのが悪いんだよ」と、口いっぱいに頬張ったまま、子供のように破顔するのだ。
あの、嵐のような食べっぷり。
あれこそが、私の料理にとっての一番の「スパイス」だったのだと、一人になって初めて知った。
「美味しいのに……やっぱり、ちょっとだけ味が薄いなぁ」
一人で食べる二人前の生姜焼きは、どれだけ完璧に作っても、心の隙間から美味しさが少しずつ逃げていってしまうような気がした。
結局、半分も食べられないうちに私の胃袋は満腹を告げてしまう。
残ってしまった半分のお肉を、寂しげな目で見つめながら、私は丁寧にお皿にサランラップをかけた。
「明日のお弁当のおかず、決定ね……」
片付けを終え、お風呂を済ませて、パジャマ姿でソファに転がる。
壁の時計は夜の十一時を回っていた。
手持ち無沙汰にスマートフォンを眺めていると、手のひらの中で「ピコン」と小気味よい電子音が鳴った。
画面を見ると、待ちわびていた「惣太」の文字。
惣太:『今、やっとビジネスホテルに戻ってきた! 今日も残業でヘトヘトだよー。湯子は晩ご飯、何食べた?』
その文字を見ただけで、胸の奥に溜まっていた冷たい澱が、すうっと溶けていくのが分かった。
私はすぐに、先ほど撮っておいた「半分残った生姜焼き」の写真を添付してメッセージを返す。
湯子:『お疲れ様! 今日は定番の生姜焼きにしたよ。でもね、やっぱりまた二人分作っちゃった(笑)』
すぐに既読がつく。そして、数秒後に送られてきたのは、大きな文字のスタンプと、興奮した様子のメッセージだった。
惣太:『うわあああああああ美味そう!!! その半分、今すぐスマホの画面から引っ張り出して食べたい! 湯子の生姜焼き不足で、俺のエネルギーメーターが完全にゼロになってる……』
スマホの画面越しに、惣太がじたばたと悔しがっている姿が目に浮かぶようで、私は思わず吹き出してしまった。
湯子:『ふふ。じゃあ、来週帰ってきたら、山盛りで作ってあげるね』
惣太:『約束だからね! 絶対にタマネギ多めでお願い!』
「うん、約束」
私は画面の中の彼に向かって、小さく呟いた。
会えない夜は寂しい。一人で食べるご飯は、やっぱり少しだけ味気ない。
だけど、スマホから伝わってくる彼の温度が、私の明日のキッチンを、また少しだけ温かくしてくれるような気がした。
一人きりの寝室で、私はスマートフォンの画面を胸に抱きしめながら、明日のメニューを考え始める。
明日は、何を作ろう。
今度こそ一人分をスマートに、美味しく。
そんな決意を胸に秘めながら、私の夢は、早くも「二人分」の美味しい匂いに包まれていくのだった。




