98話 救いの言葉
その一言を聞いた瞬間、ずっと張りつめていたものが一気にほどけた。
もう我慢なんてできなかった。次から次へと涙が溢れて、息を吸おうとするたびに喉がひくっと震える。声を抑えようとしても無理で、私はその場にしゃがみ込んだまま、子どもみたいに泣いた。
安心したのか、怖かったのか、それとも今まで一人で抱えていたものが全部いっぺんに溢れただけなのか、自分でも分からない。ただ、ずっと怖かったんだと思う。
「ノアさん、これを」
シリルさんがすぐに白いハンカチを差し出してくれた。
受け取った私は、もう遠慮なんてしている余裕もなく、何度も目元や鼻元へ押し当てながら泣き続けた。そんな私の背中に、シリルさんの手がそっと触れる。
「大丈夫です。ゆっくりでいいですよ」
しゃくり上げるたび、大きな手が同じ速さでゆっくりと背中を撫でてくれる。何かを聞かれることも、泣き止むように言われることもなく、ただ側にいてくれた。
どれくらい泣いていたのか分からない。
ようやく少しまともに息ができるようになった頃には、泣きすぎて鼻の奥がじんじん痛く、頭もぼーっとしていた。深く息を吸おうとしても途中でまだひくっとしゃくり上げてしまうし、お酒が残っているのか、泣き疲れただけなのか、それすらもうよく分からない。
手元を見ると、さっきまで綺麗だった白いハンカチが、すっかりぐしゃぐしゃになっていた。
「ご、ごめんなさい……ハンカチが……」
「そんなの、いいですよ」
本当に気にしていないみたいに、シリルさんが少し笑う。
「ずっと一人で悩んでいたんですね」
その声に、また涙が滲んだ。
もう泣きたくないのに。
鼻をすすりながら、ようやく少しだけ顔を上げる。シリルさんはさっきまでと何も変わらない顔で、ただ心配そうに私を見ていた。
「もう大丈夫です」
その言葉に、また一粒だけ涙が零れる。
シリルさんの指が伸びてきた。
親指が頬に触れ、その涙をそっと拭う。
そのまま両手で頬を包まれて、思わず息が止まった。
さっきまで泣くことで精一杯だったのに、急に距離の近さが気になる。ぼんやりしていた頭とは反対に、心臓だけがどくんと大きく鳴った。
「もうひとつ、まだ聞いていませんでした」
「……?」
「さっき、恋をしちゃだめだとおっしゃっていましたよね」
私は小さく頷いた。
「その理由は、今なくなりました」
静かな声が、ゆっくり胸の中へ落ちてくる。
私みたいな人は、今までにもいた。
この世界で暮らしている人もいて、その先に家族を残した人もいる。
それだけ考えたところで、また頭がぼんやりした。
そんな私をしばらく見つめていたシリルさんが、静かに口を開く。
「その相手は……誰ですか?」
「……っ」
びくっと肩が跳ねた。
急に心臓が大きく鳴る。
名前なんて言えるわけがない。
頬を包まれたまま、思わず視線を逸らす。けれど完全に顔を背けることもできず、ただ目だけを伏せた。
何も言えないまま、沈黙だけが長くなる。
やがて、シリルさんが小さく息を吐いた。
「……質問を変えます」
その一言で、また心臓が跳ねた。
シリルさんはすぐには続きを言わなかった。
ほんの少し息を吸って、ゆっくり吐く。頬を包む手はそのままなのに、表情だけが張りつめていく。
私がまた視線を逸らそうとすると、シリルさんは追い詰めるようにではなく、どうにか確かめようとするみたいに私の目を追ってきた。
逃げても、また視線が追ってくる。
とうとう目が合った。
シリルさんは逸らさなかった。
けれど、さっきまでみたいな余裕のある顔でもない。
もう一度だけ、静かに息を吸う。
「その相手は」
一度、言葉が止まった。
頬を包む手に、ほんの少しだけ力が入る。
「俺ですか?」
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