96話 言えない
ホテルへ戻る途中、人通りの少ない道へ入った。
大通りの賑やかさはもう遠く、聞こえてくるのは時折通り過ぎる馬車の音と、どこかの店から漏れる話し声くらいだった。夜風に当たって少しは酔いも冷めた気がするのに、さっき気付いてしまった気持ちは、むしろどんどん鮮明になっていく。
「ノアさん」
不意にシリルさんが足を止めた。
私もつられて立ち止まり、顔を上げる。いつもの柔らかな笑顔はなく、銀灰色の瞳が真っ直ぐ私を見ていた。
「……どうしました?」
シリルさんが一歩近づく。なんとなく落ち着かなくて私も一歩下がると、さらにもう一歩距離を詰められ、また下がろうとしたところで背中に硬い感触が当たった。
壁だ。
もう下がれないことに気付いた途端、急に距離の近さを意識してしまう。
「ノアさん。僕、何かしましたか」
「え?」
「今日、気のせいかとも思ったんです。でも、時々何か思い詰めたような顔をしてましたよね。僕が何か気に障ることを言いましたか?」
「ち、違います」
「じゃあ、何かあったんですか?」
慌てて首を振ったものの、それ以上の言葉が出てこない。
「教えてください」
「……何もないよ。酔ったからかな」
誤魔化すように笑ってみたけれど、自分でも分かるくらいうまく笑えていなかった。シリルさんはしばらく私の顔を見つめたあと、少しだけ声を落とす。
「僕には言えませんか」
「……」
責められているわけじゃない。それなのに、その声が少し苦しそうに聞こえて、余計に何も言えなくなった。
「お願いです。一人で抱え込まないでください」
「……言えない」
小さく首を振ると、シリルさんは一度目を伏せ、ゆっくりと息を吐いた。
「……そうですか。ごめんなさい。困らせたいわけじゃないんです。ただ、今日ずっと何か抱えてるのは分かってたから」
「……」
「ノアさんが言いたくないなら、無理に聞くつもりはありません」
そう言ったのに、シリルさんは歩き出さなかった。
少し俯いたまま唇を噛み、何かを飲み込もうとしている。しばらくして顔を上げたその表情を見た瞬間、胸が詰まった。
怒っているんじゃない。
悔しそうだった。
どうして自分じゃ駄目なんだとでも言いたげに眉を寄せて、それでも私を責めるような目だけはしていない。
「でも……僕じゃ、駄目ですか」
「え……?」
「頼ってもらう相手には、なれませんか」
「違う、そうじゃ……」
「じゃあ、どうして何も言ってくれないんですか」
声が少し震えていた。
何か言わなきゃと思うのに、うまく言葉にならない。私はただ首を振ることしかできなくて、それを見たシリルさんの表情がさらに苦しそうに歪んだ。
次の瞬間、私のすぐ横の壁に手がつかれる。
「……そんなに、俺じゃ頼りにならないですか」
大きな声ではなかった。でも、抑え込んでいたものが滲むような声だった。
「違う……」
「じゃあ、何なんですか。何があったのか分からないまま、ノアさんが苦しそうにしてるのを見てるだけなんて……俺には無理です」
そんな顔しないで。
違うの。
シリルさんが悪いんじゃない。
「俺じゃ、駄目ですか」
今度はもっと小さな声だった。
その一言で、張り詰めていたものが一気に崩れた。
「そうじゃないです!」
大きく首を振った瞬間、涙が溢れた。
「じゃあ、どうして何も言ってくれないんですか!」
「言いたくても……言えないよ……」
喉が詰まって、声がうまく出ない。頬を伝う涙を拭う余裕もなく俯いていると、少しの沈黙のあと、シリルさんの掠れた声が落ちてきた。
「……俺は、何を聞いても、ノアさんを見る目は変わりません」
言いたい。でも怖い。ずっと隠してきたことを口にするのが怖くて、それでも、もう一人で抱えているのも苦しかった。
誰か助けて。
シリルさん……。
「わた……わたし……」
声にした途端、頭の中で何かが必死に止める。
言うな。
それだけは言っちゃだめ。
「私は……だって……」
喉が震える。涙で視界が滲んで、目の前のシリルさんの顔さえよく見えない。
言ったら駄目。
この世界の人間じゃないなんて知られたら、もう今までと同じではいられないかもしれない。怖がられるかもしれない。気味悪がられるかもしれない。
シリルさんにも。
嫌だ。
それだけは嫌なのに、もう止められない。
「私は……宇宙人かもしれないから……」
しゃくり上げた拍子に膝から力が抜け、その場にしゃがみ込む。
「だから……恋なんか……しちゃだめなの……」
涙が止まらない。息もうまく吸えなくて、しゃくり上げるたびに肩が震えた。
「……は?」




