95話 夜風
バーを出ると、夜風が火照った頬を優しく撫でた。
「歩けますか?」
「……たぶん」
心配そうに顔を覗き込まれ、そのままそっと手を取られる。
温かい。
歩き始めると、シリルさんは私に合わせるように少しだけ速度を落とした。急かすことも、引っ張ることもない。私がふらつけばすぐ支えられるくらいの距離を保ったまま、当たり前みたいに隣を歩いている。
私は繋がれた手へ目を落とした。
大きな手。
昼間もこうして手を引いてもらった。人が多いから、はぐれないようにって。
それだけ。
分かってる。
でも今は、お酒のせいなのか、その温かさが妙に気になった。
少しだけ、指先に力を入れてみる。
するとすぐに、シリルさんの手も握り返してきた。
「……」
たったそれだけなのに、胸のあたりがきゅっとなる。
泣きそうになって、慌てて俯いた。
「ノアさん?」
「……大丈夫です」
顔を上げられないまま答えると、シリルさんはそれ以上何も聞かなかった。ただ、繋いだ手だけは離さずに歩いてくれる。
……いいなぁ。
今日、何回そう思ったんだろう。
からくり時計で見た家族も、街を歩いていた親子も、夕食を食べていた人たちも、さっきの店にいた恋人同士も。
みんな、誰かが隣にいた。
楽しそうに笑って、当たり前みたいに手を繋いで、一緒に帰っていく。
私はもう一度、隣を歩くシリルさんをちらりと見る。
夜の街灯に照らされた横顔は、いつもと変わらず穏やかだった。
なんでこの人、こんなに優しいんだろう。
馬車では肩を貸してくれて、王都ではずっと案内してくれて、時計塔では私を抱えて走って、夕食までご馳走してくれた。
今だって、酔っぱらった私の手を引いて歩いてくれている。
でも。
きっと、私だからじゃない。
シリルさんは優しい人だから。
いつかこの人にも恋人ができるんだろうな。
その人と手を繋いで歩いて、一緒にご飯を食べて、くだらないことで笑って。
そのうち結婚して、今日からくり時計で見たみたいに家族が増えていくのかもしれない。
そう考えたら、胸の奥がずんと重くなった。
……いいなぁ。
羨ましい。
その相手が、じゃない。
そんな未来を普通に望めることが。
私はずっと、考えないようにしていた。
この世界に来たばかりの頃は、それどころじゃなかった。記憶もない。身元も分からない。知っているはずのことと、この世界の常識が噛み合わない。
自分がおかしいって思われないようにするだけで精一杯だった。
それに。
私は、この世界の人間じゃない。
どうしてここへ来たのかも分からない。間違って入り込んでしまっただけなのかもしれない。
もし、この世界にはない何かを持ち込んでいたら。
知らない病気とか。
私自身では気付けない何かがあったら。
そんなことを考えたら、誰かと深く関わること自体が怖かった。
恋愛なんて、もってのほか。
そう思っていたはずなのに。
気付けば、お店を持っていた。
毎日笑って、みんなとご飯を食べて、友達もできて、夢まで見つけた。
幸せだった。
幸せすぎて、忘れてた。
自分だけは、最初から少し違うってことを。
もう一度、繋いだ手に力が入る。
シリルさんは何も言わず、また握り返してくれた。
その優しさが、今度こそ本当に泣きそうなくらい痛かった。
私は顔を見られないように、さらに俯く。
「……ノアさん、本当に大丈夫ですか?」
「はい」
少しだけ声が震えた。
「ちょっと酔ってるだけです」
「そうですか」
それ以上は聞かない。
そのまま隣にいてくれる。
……ずるいなぁ。
こんな人と、恋愛してみたかった。
そう思った瞬間、足がほんの少し止まりかけた。
あ。
今。
なんて思った?
恋愛してみたかった?
シリルさんと?
頭の中で言葉にした途端、それまでぼんやりしていたものが急に形を持った。
だから今日、家族や恋人ばかり気になったのかな。
だからシリルさんが誰かと一緒になる未来を想像しただけで、こんなに嫌だったのかな。
だから手を握り返してもらっただけで、泣きそうになったのかな。
……あーぁ。
気づきたくなかった。
気づかなければ、このままでいられたのに。
私はずっと、優しい人だと思ってた。
一緒にいると安心する人。
顔が良すぎて困る人。
時々びっくりするくらい過保護で、でも頼りになって、なんでもできるパーフェクトヒューマン。
それだけだったはずなのに。
欲張りになっちゃった。
今までみたいに会えたらいい、じゃ足りない。
この手を、いつか別の誰かが握るのは嫌だと思ってしまった。
そこまで分かってしまったら、もう誤魔化せなかった。
隣を歩くシリルさんを、そっと見上げる。
何も知らない顔で、私に合わせてゆっくり歩いている。
ねぇ。
シリルさん。
私――。
好きです。




