94話 もう一杯
「シリルさんって、冒険者になりたての頃も、今みたいになんでもできたんですか?」
お酒をちびちび飲みながら聞いてみると、シリルさんは少し考えるようにグラスを傾けた。
「なんでもはできませんよ。失敗も結構してます」
「えー、意外です。なんかないんですか? これは恥ずかしかった、みたいなやつ」
「恥ずかしかった……」
しばらく考えたあと、シリルさんが自分の髪にちらっと触れた。
「馬に髪を食べられたことならあります」
「……え?」
「冒険者になって間もない頃です。馬の世話をしてたら、後ろから急に」
「髪を食べられたんですか!?」
「はい。結構しっかり」
さらっと言われたけど、想像した瞬間もうダメだった。
今の綺麗な銀髪を、後ろから馬がもしゃもしゃしている。
「ぶちっといって、ちょっと禿げたんですよね。この辺が」
シリルさんが耳の少し上あたりを指さした。
「ぶちっと!? 禿げたんですか!?」
「少しだけですよ」
「少しでも禿げてるじゃないですか!」
こらえきれずに吹き出す。
「あはははは! なんで食べられたんですか!」
「それが分からなくて。気付いた時にはもう口に入ってました」
「牧草と間違えたんですかね?」
「さすがにそれはないと思いますけど」
「でもシリルさん銀髪ですし。草原でこう……いい感じに馴染んでたとか」
「銀色の牧草なんて見たことないですよ」
「決めました」
「何をですか?」
私はグラスを置いて、びしっとシリルさんを指さした。
「今日からシリルさんに『草原のシリル』という二つ名を与えます」
「いりません」
「即答!」
「あはははは!」
もう笑いが止まらない。
「草原のシリル……っ、だめ、お腹痛い……!」
「そんなに面白かったですか?」
「だってぇ……今のシリルさんから全然想像できないんですもん。馬に髪食べられて、一部だけちょっと禿げてるシリルさん……」
「お願いですから、その部分は忘れてください」
「無理です。草原のシリルはもう一生忘れません」
「話すんじゃなかった……」
「大丈夫です! アラボンにしか言いません!」
「それ、全然大丈夫じゃないですよ」
シリルさんまで笑い出して、余計におかしくなる。
「あはははは!」
何がおかしいのか途中から自分でもよく分からなくなってきた。でも、笑えてしまう。
笑いすぎて頬が痛い。
「はぁー……楽しい! お酒最高!」
「気に入りました?」
「はい! おいしいし、楽しいし、草原のシリルまで誕生しましたし!」
「最後のは今すぐ忘れてください」
「無理でーす」
また笑いながらグラスへ手を伸ばす。
そんな私をシリルさんがじーっと見ていた。
「……ノアさん、酔ってるでしょ?」
「酔ってるでしょ?」
同じ言葉をそのまま返しながら首を傾げると、シリルさんは小さく息をついた。
「どう見ても酔ってます」
「おぉー!」
思わず目を丸くする。
「これが酔うってことですか! 人生初体験!」
「そんなに嬉しそうに言うことですか?」
「だって初めてなんですよ!」
また笑いが込み上げてくる。
「あはははは!」
「飲ませすぎたかな……」
「シリルさんが選んだんですよぉ」
「最初の一杯は、ですけどね」
そうだったっけ。
何杯飲んだかは、もうよく覚えてない。
楽しいから、まあいいか。
グラスへ手を伸ばしたところで、ふと少し離れた席に座る若い男女が目に入った。
二人は肩を寄せ合いながら、楽しそうに話している。男の人が何か言うと女の人が少し照れたように笑い、それを見た男の人も嬉しそうに笑っていた。
さっきまであんなに笑っていたのに、不思議なくらい気持ちが落ちる。
――いいなぁ。
今日、何度目だろう。
からくり時計で見た家族も、街を歩いていた親子も、夕食を食べていた家族も、なぜかずっと目に残っている。
今度は恋人同士。
みんな当たり前みたいに誰かと一緒にいて、隣にいることがすごく自然に見える。
なんで、こんなに気になるんだろう。
……寂しい、のかな。
そこまで考えた途端、さっきまでふわふわしていた気分が少しだけ重くなった。
なんか。
きっつ……。
これ以上考えるのやめよ。
私は目の前に残っていたお酒を持ち上げ、そのまま一気に飲み干した。
「ノアさん、それ一気に――」
「……よし!」
勢いよく立ち上がる。
「帰りましょ! シリルさん!」
そう言って一歩踏み出した瞬間。
「わっ……」
足元がふらりと揺れた。
倒れそうになった体を、シリルさんが素早く支える。
「危ない」
気付けば肩をしっかり抱えられていた。
近いところで目が合う。
シリルさんは少し呆れたように私を見つめたあと、小さく笑った。
「めちゃくちゃ酔ってるじゃないですか」
「だ、大丈夫です!」
「大丈夫じゃありません。今、完全に倒れかけてましたよ」
「ちょっと床が動いただけです」
「床は動いてません」
「……ほんとに?」
「はい」
足元を確認する。
……動いてないな。
「いいですから、もう一度座ってください」
「えぇー」
「お願いします」
「……はぁい」
いつもより少し低い声で言われると、なんとなく逆らえない。
大人しくソファーへ座り直すと、シリルさんがテーブルの水を私の前へ寄せた。
「とりあえず、これ飲んでください」
「お水ですかぁ……」
「はい。お酒はもう終わりです」
「まだ飲めますよ?」
「飲めるかどうかじゃなくて、もう終わりです」
「厳しい……」
「誰のせいだと思ってるんですか」
少し考える。
「……お酒?」
「ノアさんです」
「私かぁ」
またちょっとおかしくなって、ふふっと笑ってしまった。
「笑ってないで飲んでください」
「はぁーい」
渋々コップを持ち、一口飲む。ひんやりした水が喉を通ると、ほんの少しだけ頭がすっきりした気がした。
「もう一口」
「まだ飲むんですか?」
「飲んでください」
「シリルさん、急に厳しくなりましたねぇ」
「明日の朝、頭が痛いって言われても困りますから」
「それは困りますね」
「でしょう?」
言われるがまま、もう一口。
シリルさんは私がちゃんと飲んだのを確認すると、店員へ小さく声をかけた。
「すみません。お会計お願いします」
「かしこまりました」
店員が伝票を持ってくると、シリルさんは静かに支払いを済ませる。
私はソファーに座ったまま、その後ろ姿をぼんやり眺めていた。
さっきまであんなに楽しかったのになぁ。
草原のシリルを思い出すと、まだちょっと笑える。
なのに、あの恋人たちを見た瞬間だけ、急に変な気持ちになった。
寂しい。
そうなのかな。
……やっぱり今は考えるのやめよ。
酔っ払った頭で考えても、ろくな答え出なさそうだし。
支払いを終えて戻ってくるシリルさんを見ながら、私はもう一口だけ水を飲んだ。




