表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
名前を忘れた私ですが、たぶん異世界で石鹸屋をはじめます。〜いい人しかいないんですが、罠ですか?〜  作者: まの月


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
9/40

9話 「これくらい」を卒業します

宿の仕事を終えた夕方。


私は厨房の隅にある小さな机へ向かい、腕を組んでいた。


目の前には、柔らかい石鹸の入った瓶が置かれている。


自分で使い、エマにも試してもらった。宿を訪れた旅人も、リラも、よく泡立って使いやすいと言ってくれた。


洗ったあとの手はつっぱりにくく、少し取るだけでふわふわと泡が立つ。この柔らかさなら、髪を洗うときにも使いやすそうだ。


決して悪いものではない。


むしろ、使えば使うほど便利に思えてくる。


それでも私は、瓶の中身をじっと見つめていた。


「どうして固まらなかったんだろう……」


作ろうとしていたのは、手で持って使える固い石鹸だ。


柔らかいままでも使えるからといって、固まらなかった理由をそのままにしておくのは、なんとなく悔しい。


「何かが違ったんだよねぇ」


瓶を少し傾けると、白い石鹸がゆっくりと形を変える。


「便利なんだけどなぁ」


瓶に入れておけば使いやすい。


けれど持ち運ぶには重いし、倒せばこぼれてしまう。宿の洗い場に置くならともかく、旅人が持ち歩くには向いていなかった。


「固いものも作れたら、使い分けられるのに」


手や体を洗う固い石鹸。


髪を洗いやすい柔らかい石鹸。


どちらも作れるようになれば、きっと便利だ。


問題は、今の私には柔らかくなった理由さえ分からないことだった。


「うーん……」


木べらで中身をゆっくりとかき混ぜる。


もちろん、今さら混ぜたところで固まるはずはない。


「石鹸に穴が開くほど見つめても、答えは出ないよ」


背後から声をかけられ、振り返る。


エマが呆れたように笑っていた。


「分かってるんだけどさぁ」

「その割には、ずいぶん熱心に見つめてるじゃないか」

「見てたら、急に固まり方を思い出すかもしれないでしょ」

「石鹸の方から教えてくれるのかい?」

「泡では応えてくれるよ」

「またそれかい」


エマは声を立てて笑った。


つい最近リラにも同じことを言ったばかりだけれど、私はわりと本気だった。


石鹸は正直だ。


うまくできれば泡立つし、何かを間違えれば固まらない。


ただ、どこを間違えたのかまでは教えてくれない。


「もう一回、作ってみようかな」


そうつぶやくと、エマが首をかしげた。


「今度は何を変えるんだい?」

「え?」


思わずきょとんとする。


「何かが違ったんだろう?」

「うん」

「じゃあ、今度は油を増やすのかい? 灰汁を濃くするのかい? それとも、混ぜる時間を変えるのかい?」

「それは……」


何も答えられなかった。


前回は、前世の曖昧な記憶だけを頼りに作った。


油は、このくらい。


灰汁も、おそらくこのくらい。


混ぜる時間は、なんとなくとろみが出るまで。


全部が感覚任せだった。


「昨日と同じことをして、違う結果を待ってても仕方ないだろう?」

「……たしかに」


エマの言葉に、私は腕を組んだまま黙り込んだ。


同じものを作りたいと思っても、前回何をしたのか自分で説明できない。


それでは、たとえ次にうまくいったとしても偶然だ。


「ちゃんと記録しよう」

「記録?」

「何をどれだけ入れたか。どれくらい混ぜたか。天気とか、火の強さとかも書いた方がいいかもしれない」

「ずいぶん本格的になってきたねぇ」

「だって、同じものを作れなかったら困るもん」


私は急いで自分の部屋へ戻り、机の引き出しから紙と木炭を取り出した。


紙は決して安くない。


だから端まで無駄なく使うつもりで、小さな文字を書き始める。


『石鹸 一回目』


『油――』


そこで、手が止まった。


前回、どれくらい入れただろう。


鍋の底が隠れるくらいだった気もする。


もう少し多かった気もする。


悩んだ末、紙へ書いた。


『油 これくらい』


書き終えた文字を見つめる。


「……これくらい?」


自分で書いておきながら、思わず声に出してしまった。


エマが紙をのぞき込み、吹き出す。


「それじゃあ、次も『これくらい』になるねぇ」

「だよねぇ」

「灰汁は?」

「……これくらい」

「混ぜた時間は?」

「長いこと」

「火の強さは?」

「いい感じ」


私は木炭を机へ置き、両手で顔を覆った。


「何にも分からない……」

「よくそれで石鹸になったねぇ」

「ほんとだよ」


もう笑うしかなかった。


前回の石鹸が使えるものになったのは、もしかするとかなり運がよかったのかもしれない。


そのとき、厨房から一定の音が聞こえてきた。


とん、とん、とん。


包丁がまな板を打つ音だ。


顔を上げると、大きな作業台の向こうで一人の男性が野菜を刻んでいた。


宿の主人であり、エマの夫でもあるトムだ。


毎日の食事は主にトムが作っている。


口数は多くないけれど料理の腕は確かで、宿泊客の中にはトムの料理を目当てに訪れる人もいるほどだった。


私がこの宿で働き始めた頃から、必要なことを静かに教えてくれた人でもある。


トムは包丁を動かしたまま、ちらりと紙を見た。


「記録するのか」

「うん 次はちゃんと同じものを作れるようにしたくて」

「いいんじゃないか」


短い返事だった。


いつものトムらしい。


私は紙を持ち上げた。


「でも、前に作ったときのことが全然分からないの 油も灰汁も『これくらい』しか覚えてなくて」

「それじゃ同じものは作れないな」

「やっぱり?」

「料理も同じだ」


トムは刻んだ野菜を木皿へ移し、次の野菜を手に取った。


「塩を『これくらい』で入れても、毎回同じ味にはならない」

「でも、トムはいつも量ってないよね?」


そう聞くと、トムは小さくうなずいた。


「今はな」

「今は?」

「最初は量った 塩も、水も、火にかける時間も」


包丁の音が、再び一定のリズムで響き始める。


「何度も作って、同じ味になるまで繰り返した」

「それで、量らなくても分かるようになったの?」

「ああ」


トムは手元を見たまま答えた。


「最初から勘で作ってるわけじゃない」


私は黙ってその言葉を聞く。


「量って、記録して、何度も同じことをする そうして手が覚えたものが、あとから勘になる」


その言葉が、胸へすとんと落ちた。


前世では、料理のレシピを見れば材料の量も作り方も最初から書いてあった。


けれど今は、頼れる本も、詳しい作り方を知る人もいない。


自分で試し、自分で記録し、自分で作り方を見つけるしかないのだ。


「職人は、勘で作るんじゃないんだね」

「積み重ねたものが、勘に見えるだけだ」


トムが静かに答えた。


私は書きかけの紙へ視線を戻す。


『油 これくらい』


さっきまで以上に、その文字が頼りなく見えた。


「私も、ちゃんとした石鹸職人になれるかな」


思わず口にすると、トムが少しだけ手を止めた。


「なるつもりなのか?」

「え?」

「石鹸職人に」


そこまで深く考えて言ったわけではなかった。


ただ、もっといい石鹸を作りたい。


自分だけでなく、いろいろな人に使ってもらいたい。


リラのパン屋でも、宿の洗い場でも、旅の途中でも使えるものを作りたい。


それを続けていく人を、石鹸職人と呼ぶのなら。


「……なりたいかも」


口にした途端、胸の奥が少し熱くなった。


トムは大げさに驚くことも、笑うこともしなかった。


ただ、いつもの落ち着いた声で言った。


「じゃあ、まずは『これくらい』を卒業だな」

「うっ」


私は紙を胸元へ隠した。


「見られてた?」

「ちゃんとな」

「恥ずかしい……」

「油、これくらい 灰汁、これくらい 火加減、いい感じ」


トムが淡々と読み上げる。


「もうやめて!」


厨房にエマの笑い声が響いた。


「トム、あんた意外と意地が悪いねぇ」

「事実を言っただけだ」

「それが一番恥ずかしいの!」


頬を膨らませたものの、すぐに自分でも笑ってしまった。


失敗した理由は、まだ分からない。


けれど、次に何をすればいいかは少し見えてきた。


 ◇


翌朝。


朝食の片付けを終えると、私は厨房の棚を端から順に眺めていた。


鍋。


木皿。


保存瓶。


調味料の壺。


「何を探してるんだい?」


食器を拭いていたエマが尋ねる。


「量れそうなもの」

「昨日の続きかい?」

「うん 同じ石鹸を作るなら、毎回同じ量にしないと駄目でしょ?」

「そうだねぇ」


エマは少し考えたあと、調味料を置いている棚へ向かった。


奥から取り出したのは、大きさの違う小さな木の匙が数本。持ち手には浅い切れ込みが入っていた。


「これは?」

「塩や香辛料を量る匙だよ こっちが一杯、こっちはその半分くらいだね」

「貸して!」

「石鹸をすくったものを料理に戻すんじゃないよ」

「分かってるよ 石鹸用にする」

「それなら、古い方を持っていきな」


エマは少し色の濃くなった木の匙を私へ渡した。


私はそれを宝物でも受け取るように両手で受け取る。


「ありがとう!」


もちろん、木の匙だけでは大量の油や水を量るのは大変だ。


「大きい量を量る器も必要だなぁ」


そうつぶやくと、仕込みをしていたトムが口を開いた。


「同じ大きさの器を決めればいい」

「同じ器?」

「油はこの杯で何杯 水はこの壺で何杯 毎回同じ器を使えば、重さが分からなくても量はそろう」

「あっ」


思わず目を輝かせる。


「それならできる!」

「ただし、杯いっぱいの入れ方も毎回同じにしろ」

「山盛りと、すり切りじゃ違うってこと?」

「そういうことだ」


私は早速、使っていない古い木杯と、小さな水差しを選び出した。


「これは油用 こっちは水用 匙は灰を量るのに使えるかな」


机の上へ一つずつ並べ、紙にも丁寧に書き込んでいく。


『油用の木杯』


『水用の小さな水差し』


『灰用の木匙』


「名前もつけておこう」

「器に名前をつけるのかい?」

「間違えて使わないようにだよ」


エマが笑う。


「ノアなら、そのうち木杯に話しかけ始めそうだねぇ」

「石鹸作りを手伝ってくれる大事な仲間だからね」

「ほら、もう始まった」


トムが小さく笑った。


私は気にせず、木杯を両手で持ち上げる。


「今日からよろしくね」

「鍋にも同じことを言ってなかったかい?」

「鍋は先輩 この子は新人」

「ずいぶんにぎやかな職場だねぇ」


エマの言葉に、三人の笑い声が重なった。


改めて、机の上に並べた道具を見つめる。


前回は、何も分からないまま作った。


次は違う。


入れた量を書く。


混ぜた時間を書く。


火の強さも、出来上がりも、全部残す。


固い石鹸ができても。


また柔らかい石鹸になっても。


どちらにも、必ず理由があるはずだ。


「今度こそ、固まる石鹸を作ってみせる」


そう言ってから、少し考え直した。


「ううん 固まっても、固まらなくても、ちゃんと理由が分かるようにする」


トムが満足そうにうなずく。


「その方がいい」


私は木炭を握り直し、新しい紙の一番上へ大きく書いた。


『石鹸 二回目』


その文字は、一回目よりもずっと力強かった。

これくらいでほぼシャンプーが…

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ