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名前を忘れた私ですが、たぶん異世界で石鹸屋をはじめます。〜いい人しかいないんですが、罠ですか?〜  作者: まの月


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10話 この世界の石鹸

それから数日。


私は宿の仕事の合間を縫って、何度も石鹸作りを繰り返していた。


二回目、三回目、四回目。


油や灰汁の量を少しずつ変え、混ぜる時間や火の強さも試してみる。出来上がるたびに結果を確かめ、それも細かく紙へ書き残した。


『二回目 柔らかい 前より泡が少ない』


『三回目 少し固まったが、形を保てない』


『四回目 表面だけ固い 中は柔らかい』


最初の紙に書いた『これくらい』という言葉は、もうどこにもない。


油は木杯で何杯、水は小さな水差しで何杯、灰は木匙ですり切り何杯。混ぜる時間も、厨房の砂時計を借りて量るようになった。


石鹸作りに使う道具にはすべて紐で印をつけ、料理用のものと混ざらないようにしている。


「ずいぶん道具が増えたねぇ」


エマにそう言われるたび、私は胸を張った。


「石鹸職人の道具です」

「まだ石鹸職人になったばかりだろう?」

「気持ちは立派な職人だよ」


そう言いながらも、肝心の石鹸はなかなか思いどおりにはならなかった。


柔らかすぎることもあれば、泡立ちが弱いこともある。表面だけ固まって中は柔らかい、なんてこともあった。昨日よりよくなったと思えば、次の日には前より悪くなることさえある。


それでも、前回と違う結果が出るたびに紙へ書き込んだ。


もう、ただ『失敗した』では終わらせない。この量では柔らかくなる。この火加減では表面だけが固まる。そうやって、一つずつ分かることを増やしていった。


 ◇


そして、その日の夕方。


私は机の上へ新しい紙を広げた。


『七回目』


今までの記録を一枚ずつ見比べながら、材料を量っていく。油は木杯で決めた量を入れ、灰汁は前回よりほんの少しだけ濃くした。混ぜる時間も、砂時計を何度も返しながらきっちりと量る。


「今回は、前より固まるはず」


鍋の中身は、混ぜ続けるうちに少しずつ重たくなっていた。木べらを動かすたび、白っぽい表面に筋が残り、ゆっくりと消えていく。


「いい感じ……だと思う」


そこまで口にして、はっとした。


慌てて紙を引き寄せ、木炭を走らせる。


『木べらの跡が少し残るまで混ぜた』


「“いい感じ”は禁止だった」


自分で言って、少し笑う。


鍋の中身をバットへ流し入れると、木べらを使って表面を平らにならした。白く柔らかな石鹸が、ゆっくりと四角い容器の中へ広がっていく。


「今度こそ」


小さく息を吐き、上から埃よけの布をかけた。


ここまできたら、あとは待つしかない。


 ◇


翌朝。


朝食の片付けを終えると、私はほとんど駆けるように裏の作業場へ向かった。


昨日のバットは、そのままの場所に置かれている。


少し緊張しながら布の端をつまみ、そっと持ち上げた。


「……あっ」


中を見た瞬間、思わず顔が明るくなった。


昨日までとは違う。


表面がしっかりと固まっている。試しに木べらで軽く押してみても沈まない。


「やった!」


思わず声を上げた。


ようやく、手で持てる石鹸になったかもしれない。


期待しながら端へ木べらを差し入れ、そっと持ち上げようとした。


その瞬間。


ぼろっ、と石鹸の角が崩れ落ちた。


「あ……」


そのまま動きを止める。


恐る恐る指先で触れてみると、表面がほろほろと砂のように崩れていく。もう少し力を入れただけで、大きな塊までぱきりと割れてしまった。


「……今度は固すぎたかぁ」


崩れた欠片を拾い上げ、手のひらに載せる。


昨日までの石鹸とは違い、確かに形はある。けれど、これでは手で持って使うたびに崩れてしまいそうだった。


「柔らかすぎるより近づいたと思ったのに」


ここまで何度も作ったし、今回はかなり期待していた。


だから悔しくないわけではない。


それでも、私は机に突っ伏す代わりに紙を手に取った。


『七回目』


その下へ、今の状態を書き足していく。


『表面も中も固まった』


『ただし、触ると崩れる』


『灰汁が多すぎた可能性あり』


書き終えてから木炭を置き、もう一度崩れた石鹸を見つめた。


「でも、固まったんだよね」


使えるものではないけれど、前より確実に一歩近づいている。


六回目は柔らかすぎた。


七回目は固すぎた。


だったら、その間に答えがあるのかもしれない。


「次は、六回目と七回目の間かな」


新しい紙を引き寄せたところで、背後からエマの声がした。


「朝から難しい顔をしてるねぇ」


振り返ると、エマが作業場の入口に立っていた。


「今日はどうだった?」

「固まった!」

「お、それはよかったじゃないか」

「でも、崩れた」

「……なるほどねぇ」


エマはバットをのぞき込み、欠けた石鹸を一つ手に取った。指で軽くつまむと、端がほろりと落ちる。


「見た目は、ずいぶん石鹸らしくなってきたよ」

「そうなんだけどねぇ 毎回、少しずつ量を変えてるのに、思ったとおりにならないの」

「でも、今回は固まったんだろう?」

「崩れたけどね」

「前より進んでるじゃないか」

「うん……」


そう言われると、少しだけ気持ちが軽くなった。


それでも、どうしても引っかかることがある。


私は欠けた石鹸を指先で転がしながら、首をかしげた。


「記録もしてる 量も前よりずっと正確にしてる それなのに、同じように作っても出来上がりが少しずつ違うんだよね」


エマはしばらく考えていたけれど、やがてふと何かに気づいたように口を開いた。


「本当に同じなのかい?」

「え?」

「油も灰汁も、前とまったく同じものなのかい?」

「同じ店で買った油だよ 灰も、厨房のかまどから取ったものだし」

「同じ場所から持ってきたからって、中身まで同じとは限らないだろう?」


思わず目を瞬かせた。


「油はともかく、灰は燃やした薪によって違うんじゃないかい?」

「……あ」


言われて初めて、そのことに気づいた。


前回はどんな薪を燃やした灰を使っただろう。乾いた薪もあれば、細い枝もあったし、料理の火に使ったものも混ざっていた。


今まで私は、それらを何も分けず、全部まとめて『灰』として扱っていたのだ。


「灰そのものが違う……?」

「私は石鹸のことは分からないけどね」


エマは肩をすくめた。


「同じように見えるものでも、本当に同じとは限らないってことさ」


その言葉が、頭の中に引っかかった。


 ◇


その日の夕方。


私は崩れた石鹸と記録用紙を持って厨房へ戻った。


トムは夕食の仕込みの真っ最中で、小麦粉を入れた大きな器へ水を加え、手早く生地をまとめている。


邪魔にならないよう作業台の端へ紙を置き、声をかけた。


「トム 同じ店で買った油でも、中身が違うことってあると思う?」


トムは生地をこねる手を止めることなく答えた。


「あるだろうな」

「やっぱり?」

「小麦もそうだ」

「同じ小麦なのに?」


不思議に思って器の中をのぞき込むと、トムは生地を押して折り返し、また押しながら話を続けた。


「畑が違えば、水の吸い方も変わる 去年と今年でも違う 乾いている粉なら水を多く使うし、湿っていれば少なくする」

「いつも同じ量じゃないの?」

「基本の量はある だが、材料を見て最後は調整する」


私は黙ってトムの手元を見つめた。


確かにトムは、ただ決められた量を入れているわけではなかった。指先で生地の柔らかさを確かめながら、必要に応じて粉や水を調整している。


「記録して同じように作れば、同じものができると思ってた」

「記録は必要だ」


トムは静かに答えた。


「だが、材料まで毎回同じとは限らない」

「同じ名前でも?」

「中身は違うことがある」


エマが言ったことと同じだった。


私は作業台の端に置かれた油の瓶へ目を向けた。


この街で手に入れた油。


厨房で薪を燃やして出た灰。


自分が前世で知っていたものと、見た目や名前は似ている。


けれど、本当に同じものなのだろうか。


そう考えた瞬間、記憶の奥にぼんやりとした映像が浮かんだ。


透明な容器に入った黄金色の油。その向こうには、以前にも見た四角い画面がある。


誰かの手が何種類もの油を並べながら、説明していた。


『油の種類によって、石鹸の硬さや泡立ちは大きく変わります』


「そうだ……」


思わず声が漏れた。


油なら何でも同じというわけではなかった。


柔らかくなりやすいものもあれば、固まりやすいものもある。泡立ちや洗い上がりにも、それぞれ違いがあったはずだ。


そこまでは思い出せる。


なのに、一番知りたい部分へ手を伸ばそうとすると、映像は霧がかかったようにぼやけ、そのまま消えてしまった。


「そこが一番知りたいのにぃ……」


思わず両手で頭を抱える。


トムが生地をこねながら、ちらりとこちらを見た。


「思い出せないのか」

「あと少しで思い出せそうなの でも、肝心なところで消える」

「なら、今ある材料で試すしかないな」

「簡単に言うねぇ」

「簡単ではない」


トムは出来上がった生地を器へ戻すと、表面を軽く整えた。


「だから職人がいる」


その言葉に顔を上げる。


「教わったものを、そのまま作るだけじゃない 材料が変われば、作り方も変える」


そう言って、トムは器に布をかぶせた。


「前と同じものを探すより、今あるもので一番いいものを作る方が早いかもしれないぞ」


私は何も言わず、崩れた石鹸を手のひらへ載せた。


前世の石鹸を作りたかった。


記憶の中にある、固くてきれいな石鹸。髪を洗ってもきしみにくく、香りもいい。そんなものをこの世界で再現できればいいと思っていた。


けれど、この世界には、この世界の油がある。


この世界の木があり、その木を燃やした灰がある。


前世とまったく同じ材料がないのなら、同じ作り方にこだわる必要もないのかもしれない。


私は手のひらに載せた石鹸を見つめた。


柔らかすぎたもの。


固まらなかったもの。


ようやく固まったと思ったら、今度は崩れてしまったもの。


今までは前世の記憶にある『正解』へ近づこうとしていた。


でも、そうじゃない。


「前の世界の石鹸を、そのまま作るんじゃない」


小さくつぶやくと、エマとトムが黙ってこちらを見た。


私は手の中の石鹸を握り直す。


「この世界の材料で、この世界で一番いい石鹸を作る」


口にした瞬間、それまでぼんやりとしていたものが、少しだけ形になった気がした。


前世と同じものを作れなくてもいい。


この世界にある材料を知って、それに合った作り方を探せばいいのだ。


そう思うと、手の中にある崩れた石鹸も、もうただの失敗作には見えなかった。


柔らかすぎた石鹸も、固すぎて崩れた石鹸も、全部が答えへ近づくために必要だったのかもしれない。


「まずは、油と灰を分けて記録しないと」


私は新しい紙を取り出し、思いついたことを書き始めた。


『油を買った店』


『油の色と匂い』


『灰に使った薪』


今までは材料の量ばかり気にしていたけれど、これからは材料そのものについても残しておく。


「灰を作るところからやるつもりかい?」


エマが呆れたように尋ねる。


「だって、そこが違うかもしれないんでしょ?」

「また仕事が増えたねぇ」

「楽しいからいいの」


顔を上げて笑い、もう一度紙へ向き直った。


一番下に、新しい文字を書き加える。


『八回目』


その下にはもう、『これくらい』も『いい感じ』も書かれていなかった。

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