11話 あと一回分
その日は、宿の買い出しの日だった。
「ノア、悪いけど油を頼めるかい」
「はーい!」
エマから宿の買い出し代を受け取ると、私はいつもの市場へ向かった。
昼前の市場は相変わらず人が多い。野菜や果物を並べる店の前を通り抜け、何度も買い物に来ている油屋へ向かうと、店のおじさんが私の顔を見るなり笑った。
「今日は宿の分かい?」
「はい それと、石鹸用の油もお願いします」
「おっ、ノアちゃんの石鹸用だな」
「はい!」
「おかみさんから聞いてるよ 頑張ってるんだってな」
私は少し照れくさくなって笑った。
「まだ失敗ばかりなんですけどね」
「何度も作ってるってことだろ」
「はい……お金も一緒に飛んでいってます」
財布を取り出してため息をつくと、おじさんが豪快に笑った。
「ははは! 職人の最初はみんなそんなもんだ」
「笑いごとじゃないんですよぉ」
ぼやきながら、棚に並んだ油へ目を向ける。
色の薄いものもあれば、きれいな黄金色をしたもの、少し濁ったものもある。
今まで何度も見ていたはずなのに、油によって石鹸の出来上がりが変わるかもしれないと知ったあとでは、どれも同じものには見えなかった。
私は棚の前でしばらく瓶を見比べてから、おじさんへ尋ねた。
「おじさん 石鹸を作るなら、どの油が向いてるんですか?」
「石鹸か」
おじさんは棚を見渡し、その中から一本の瓶を取り出した。
「石鹸職人がよく買っていくのは、このルミの実の油だな」
「ルミの実の油……」
受け取った瓶を光にかざしてみると、中の油が透き通った黄金色に揺れた。
「詳しい作り方までは知らんが、扱いやすいって話は聞く」
「そうなんですね」
「もちろん、他の油で作る職人もいるだろうが、初めてならこれが無難じゃないか」
私はもう一度、瓶の中で揺れる油を見つめた。
その色を見ているうちに、記憶の奥で何かが引っかかる。
透明な容器に注がれる、黄金色の油。
その向こうには四角い画面があり、誰かの声が聞こえていた。
『オリーブオイルは、石鹸にすると――』
そこまで聞こえたところで、映像がふっと途切れた。
「またそこぉ……」
思わず小さくうめく。
あと少しだった。
もう少しで、何か大事なことを思い出せそうだったのに。
「どうした?」
「あと少しで思い出せそうだったんです」
「何をだ?」
「石鹸の大事なことを」
「思い出せなかったのか」
「一番大事そうなところだけ、きれいに消えました」
「便利な記憶だな」
「不便です!」
思わず頬を膨らませたものの、消えてしまったものは仕方がない。
私は気を取り直して、手にしていたルミの実の油へ目を戻した。
前世で使われていた油と同じものかは分からない。
でも、この世界では石鹸職人がよく使っている。
それなら、試してみる価値はありそうだった。
「この油、いくらですか?」
おじさんから値段を聞き、私は財布を開いた。
中に入っている硬貨を、一枚ずつ数えていく。
宿の買い出し代には、もちろん手をつけられない。石鹸作りに必要なものは、すべて自分のお給金から出していた。
「一、二、三……」
最後の一枚まで数え終え、財布の中と油の瓶を交互に見る。
「……買えます」
「ずいぶん悩んだな」
「これを買ったら、ほとんどなくなるんです」
「なら、やめておくか?」
すぐには答えられなかった。
七回作って、まだ一度も思い描いていた石鹸にはなっていない。
それに、必要なのは油だけではなかった。紙も木炭も使うし、石鹸作りを始めてから少しずつ道具も増えた。
ここでこの油を買えば、次のお給金をもらうまでは新しい材料を買えなくなる。
つまり、もう一度失敗すれば、しばらく石鹸作りはお休みだ。
私は財布を握ったまま、もう一度値段を確かめた。
やっぱり、残るお金はほとんどない。
「……これで、あと一回」
「一回?」
「次のお給料までに試せるのが、あと一回なんです」
おじさんは何も言わず、私の顔を見た。
「それでも買うのか?」
ほんの少し迷った。
ここまで失敗が続いている。
次も崩れるかもしれないし、今度は固まりさえしないかもしれない。
でも、最初の頃とは違う。
あの頃は前世の曖昧な記憶だけを頼りに、油も灰汁も『これくらい』で作っていた。
今は記録がある。
量もきちんと測っている。
灰の違いにも気づいた。
そして、この世界で石鹸作りに向いているとされる油も分かった。
何も知らずに作っていた七回ではない。
だったら、もう一度だけ試したい。
私は顔を上げた。
「買います」
「いいのか?」
「ここまで来て、石鹸に振られたまま終われません」
「石鹸に振られたのか?」
「今のところ、七回連続で」
おじさんは一瞬ぽかんとしたあと、とうとう吹き出した。
「ずいぶん手強い相手だな」
「でも、私の恋人なので」
「……石鹸が?」
「はい」
「変わった娘だなぁ」
「よく言われます」
硬貨を差し出すと、おじさんはまだ笑いながらそれを受け取り、ルミの実の油を丁寧に布で包んでくれた。
「今度はうまくいくといいな」
「はい!」
宿で使う分の油と、大事な石鹸用の油を受け取り、店をあとにする。
市場の人混みを抜けたところで、私は足を止めてもう一度財布を開いた。
ちゃり、と小さな音を立てた硬貨は、ほんのわずかしか残っていない。
「……本当に、あとがない」
思わずため息が漏れた。
これで失敗すれば、次のお給金までは石鹸を作れない。
そう考えると少し不安になったけれど、買わなければよかったとは思わなかった。
財布をしまい、代わりに布へ包まれた瓶を抱え直す。
今までの私は、前世の記憶にある石鹸を追いかけることばかり考えていた。
けれど、これからは違う。
この世界にはどんな油があって、どんな特徴があるのか。どの灰と組み合わせれば、どんな石鹸になるのか。
知らないのなら、一つずつ知っていけばいい。
「今度は、この世界の油をちゃんと知るところから始めよう」
抱えていた瓶を少し持ち上げ、こっそり話しかける。
「頼むよ、ルミの油さん」
もちろん返事はない。
それでも私は瓶を見つめたまま、ふっと笑った。
「大丈夫 泡で応えてくれればいいから」
次の挑戦で成功しなければ、給料日まで石鹸作りはお預けになる。
これが、最後の一回。
そう思うと、腕の中の小さな瓶がいつもより少しだけ重く感じられた。




