12話 朝の銀髪とルミの油
空が白み始めたばかりの早朝。
ノアは宿の玄関を開けると、冷たい朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「よし、今日はルミの油」
昨日、油屋ですすめてもらったルミの実の油を使う日だ。
財布の中に残っている硬貨を思い浮かべると、胸の奥が少しだけ重くなる。次の給金までは、これが最後の試作になるかもしれない。
「大丈夫、大丈夫」
自分に言い聞かせながら扉を閉めようとしたところで、宿の前に立つ人影が目に入った。
朝日に照らされた銀色の髪が、淡く輝いている。
背の高い青年だった。旅装にはうっすらと土埃がついているものの、立ち姿にはどこか品がある。
青年はノアに気づくと、静かに頭を下げた。
「おはようございます」
「おはようございます」
「仕事の都合で早く町に着いてしまいまして そちらの洗い場をお借りしてもよろしいでしょうか」
青年が視線を向けたのは、宿の脇にある洗い場だった。
「どうぞどうぞ」
ノアは洗い場へ案内しながら、隣を歩く青年の横顔をちらりと見る。
銀色の髪に、整った顔立ち。
どこかで見たような気がする。
けれど、いつだったか思い出せない。
「水はこちらです」
「ありがとうございます」
「あっ、ちょっと待ってください」
そのまま洗い場を離れかけたノアは、ふと思い出して足を止めた。そばに置いていた小さな容器を手に取り、青年へ差し出す。
「よかったら、これも使ってみませんか」
「これは?」
「石鹸です」
「石鹸?」
「まだ固めるのがうまくいかなくて柔らかいんですけど、汚れはちゃんと落ちます」
指先で少しだけすくって見せると、青年は興味深そうに容器をのぞき込んだ。
「あなたが作ったのですか」
「はい」
「では、お借りします」
「ぜひ!」
青年が洗い場へ向かうのを見届け、ノアも裏庭へ行こうとする。
じっと見つめているのも失礼だ。
そう思って一歩進んだものの、やっぱり気になって振り返った。
泡立ちはどうだろう。量は多すぎなかっただろうか。洗ったあとの手触りは――。
もう一歩進んでは、また振り返る。
結局ほとんどその場を離れられないまま、青年が手を洗い終えるのを待つことになった。
「ありがとうございました」
戻ってきた青年から容器を受け取るなり、ノアはすぐに手帳を取り出した。
「どうでしたか? 泡立ちは悪くなかったですか?」
「十分でした」
「洗ったあと、手がつっぱる感じは?」
「特には感じません」
「匂いは変じゃなかったですか?」
「変ではありませんでしたが、ほとんど香りはしませんね」
「なるほど……香りはほとんどなし」
手帳へ夢中で書き留め、そのまま顔も上げずに次の質問をする。
「ほかに気になったところはありませんでしたか?」
青年は少し考えるように自分の手を見た。
「柔らかいので、使う量が分かりにくいかもしれません」
そこでノアの手がぴたりと止まった。
「使う量……」
これまで気にしていたのは、泡立ちや洗い上がりばかりだった。けれど、初めて使う人にとっては、どれくらい取ればいいのかも大切なのだ。
「それです!」
勢いよく顔を上げると、青年が少し驚いたように目を瞬いた。
「すごく大事なことなのに、気づいてませんでした ありがとうございます!」
「お役に立てたのなら何よりです」
青年は小さく笑うと、荷物を持ち上げた。
「それでは」
「はい、お仕事頑張ってください」
「あなたも石鹸作りを頑張ってください」
青年が町の通りへ歩いていく。
その後ろ姿を見送りながら、ノアはもう一度首をかしげた。
やっぱり、どこかで見たことがある。
朝日に照らされた銀色の髪と、穏やかな笑顔。
どこだっただろうと記憶を探った、その瞬間。
店先から転がっていく赤いりんごと、それを必死に追いかける自分の姿が頭の中に浮かんだ。
そして、りんごを拾い上げた青年の声。
『これ、君の?』
「あっ!」
思わず声が漏れた。
「りんご!」
あの時、りんごを拾ってくれた青年だ。
「そうだ……!」
すでに少し遠くなった背中を見て、ノアは一歩踏み出しかけた。
今なら、あの時のお礼をちゃんと言える。
けれど、その拍子に手にしていた手帳が目に入った。
『使う量が分かりにくい』
「あ……これ、早く書き足さなきゃ」
せっかくもらった大事な意見だ。今のうちに整理しておかないと、また忘れてしまうかもしれない。
ノアは慌てて手帳へ補足を書き込んだ。
「柔らかいなら、一回分が分かるようにした方がいいのかな……容器も工夫した方がいいかも」
ぶつぶつとつぶやきながら書き終え、ようやく顔を上げる。
けれど、青年の姿はもう人混みの中へ消えていた。
「あ……」
ほんの少しだけ残念に思いながらも、ノアはすぐに小さく笑った。
「また、お礼言いそびれちゃった」
次に会えた時に伝えればいい。
その時には、今日使ってもらった柔らかいものではなく――ちゃんと手で持てる石鹸を見せたい。
「固形石鹸、完成させてびっくりさせよう」
そうつぶやいた途端、気持ちはもう今日の試作へ向かっていた。
ノアは手帳を閉じると、大切なルミの実の油が待つ宿の裏庭へ駆け出した。
次の給金までは、これが最後の一回。
今度こそ。
そんな期待を胸に、ノアは新しい石鹸作りへ向かった。




