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名前を忘れた私ですが、たぶん異世界で石鹸屋をはじめます。〜いい人しかいないんですが、罠ですか?〜  作者: まの月


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13話 ルミの実の力

宿の裏庭へ出ると、ノアは外かまどの前で足を止めた。


 物置から大切そうに抱えてきたルミの実の油を、そっと作業台へ置く。


「今日こそ……」


 ここまで何度失敗しただろう。


 灰汁を変え、油を変え、混ぜる時間も変えた。そのたびに結果を手帳へ書き込み、少しずつ試しながらここまで来た。


 そして昨日も、新しい気づきがあった。


『柔らかいので、使う量が分かりにくいかもしれません』


 銀髪の青年からもらった言葉が、今も頭に残っている。


「そうなんだよねぇ」


 柔らかい石鹸は使える。それどころか、泡立ちもよく、洗い上がりも悪くない。


 けれど、初めて使う人には適量が分かりにくい。持ち運ぶにも容器が必要になる。


 やっぱり、固形石鹸も作れるようになりたい。


 ノアは手帳を開き、これまでの記録を一つずつ確認した。


 灰汁の量。油の量。混ぜる時間。


 前回までの結果と見比べ、間違いがないことを確かめてから小さくうなずく。


「よし」


 外かまどへ火を入れ、鍋にルミの実の油をゆっくりと流し込む。


 今日使える材料は、これで最後だ。


 失敗すれば、次の給金までは試せない。


 そう思うと緊張したけれど、だからといって焦ってはいけない。


 ノアは木べらを握り、鍋の中をゆっくりとかき混ぜ始めた。


 くるくると一定の速さで木べらを動かしながら、何度も手帳へ目をやる。


 今まで何度も失敗したからこそ、今日は一つひとつ丁寧に確かめていく。


 しばらくすると、木べらを通して手に伝わる感触が少しだけ変わった。


「……ん?」


 そっと持ち上げてみると、白っぽくなった液体が、とろりと鍋へ落ちていく。


 今までより、少しだけ重い。


 その様子に胸が高鳴ったけれど、ノアはすぐに期待しかけた自分を抑えた。


「まだだよ」


 ここで喜ぶのは早い。


 何度「今度こそ」と思って失敗したことか。


 深呼吸をひとつして、再び木べらを動かす。手帳に残した時間を確かめながら混ぜ続け、頃合いを見て火を止めた。


 鍋を慎重に持ち上げて物置へ運び、用意しておいた四角いバットへゆっくりと流し込む。


 とろりと広がっていく石鹸液を、木べらで端までならしていく。


「今までで一番……」


 言いかけたところで、ノアはぴたりと口を閉じた。


「だめだめ。完成するまで言わない」


 自分に言い聞かせながらも、口元にはどうしても笑みが浮かんでしまう。


 表面をきれいに整え、埃が入らないよう布をそっとかぶせると、バットを棚の上へ置いた。


「明日まで、よろしくね」


 最後に石鹸へ声をかけ、後ろ髪を引かれる思いで物置を出た。


 ちょうどその時、宿の方からエマの声が飛んでくる。


「ノアー!」

「はーい!」


 慌てて食堂へ戻ると、すでに昼時で席のほとんどが埋まっていた。


「ノアちゃん、お水もらえる?」

「はい、ただいま!」


 水差しを持って席へ向かい、空いた器へ水を注いでいく。


「お待たせしました」

「ありがとう。今日は暑いねぇ」

「そうですね。外へ出ると汗だくです」

「こんな日は冷たい酒でも飲みたいもんだ」

「あはは、本当ですね」


 客の笑顔につられてノアも笑い、そのまま次のテーブルへ向かう。


「ノア、五番さんお願い」

「はい!」


 料理を運び、空いた食器を下げ、また厨房へ戻る。


 いつもと同じ忙しい昼のはずなのに、今日はどうしても頭の片隅から石鹸が離れてくれない。


 今頃どうなっているだろう。


 もう少し固まり始めているだろうか。


 いや、さすがにまだ早い。


 そんなことを考えているうちに、ふと視線を感じて顔を上げた。


 エマが腕を組み、呆れたような顔でこちらを見ている。


「今日はずいぶん上の空だね」

「えっ、そんなこと……」

「石鹸だろ?」

「……ばれました?」

「顔に書いてあるよ」


 エマが笑うので、ノアも誤魔化すように笑った。


「見に行きたいなら行ってきな……って言いたいところだけど、今日は我慢だね」

「やっぱりだめですよねぇ」

「昨日まで何度も失敗してるんだ。今さら少しくらい待てるだろう?」

「それとこれとは別なんです」

「別じゃないよ。ほら、五番さんの皿を下げておいで」

「はーい……」


 しぶしぶ返事をしながらも、仕事が始まれば手を抜くわけにはいかない。


 結局そのまま夕方まで働き続け、客足が途切れる頃には食堂もようやく静かになっていた。


 最後の食器を片づけ終え、ほっと息をつく。


 そして気がつけば、ノアの足は自然と裏庭へ向かっていた。


 物置の前まで来ると、扉へ手を伸ばす。


 少しくらいなら。


 布をめくって見るだけなら、何も変わらないんじゃないだろうか。


「……」


 ものすごく見たい。


 ちゃんと固まり始めているのか、それとも今回も駄目なのか。今すぐ確かめたい気持ちをぐっとこらえ、ノアは扉に触れかけた手を引っ込めた。


「だめ。明日のお楽しみ」


 ここまで待ったのだから、あと一晩くらい我慢しよう。


 そう自分に言い聞かせて宿へ戻ったものの、その日の夜はなかなか寝つけなかった。


 布団へ入って目を閉じても、頭に浮かぶのは棚の上に置いてきたバットばかり。


 柔らかすぎた石鹸。


 固まったと思ったら、ぼろぼろと崩れた石鹸。


 七回分の失敗が次々と思い出される。


 けれど、今回は今までとは違う。


 油の種類を選び、灰にも気をつけた。分量も時間も記録して、これまでの失敗を一つずつ確かめながら作った。


 できることは、全部やった。


「……お願い。今度こそ、ちゃんと固まっていますように」


 祈るように両手を胸の前で組むと、ノアはゆっくりと目を閉じた。


 あとは、待つしかない。


 明日の朝。


 八回目の石鹸がどうなったのか、ようやく答えが分かる。

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