8話 リラの気になる人
休日の昼下がり。
私は柔らかい石鹸を入れた小さな瓶を持って、パン屋を訪れていた。
「こんにちはー」
「あ、ノア!」
店番をしていたリラが、うれしそうに手を振る。
「今日は宿のお仕事、お休み?」
「うん ちょっと見てもらいたいものがあって」
私は瓶をそっとカウンターへ置いた。
中に入っているのは、白くとろりとした石鹸。
リラは不思議そうに瓶をのぞき込んだ。
「これ、何?」
「石鹸」
「えっ、ノアが作ったの?」
「うん 固まる予定だったんだけど、固まらなかった」
「それって、失敗じゃないの?」
「私も最初はそう思ったんだけど、ちゃんと泡が立つし、汚れも落ちるの」
リラは興味津々で瓶を持ち上げた。
「使ってみてもいい?」
「もちろん そのために持ってきたんだから」
二人で店の奥にある小さな洗い場へ向かう。
パンを作る店では粉や生地が手につくため、すぐに洗えるよう水桶が用意されていた。
私は木べらで石鹸を少しすくい、リラの手のひらへ載せる。
「これくらいでいいと思う」
「柔らかいんだね」
「うん 油断すると瓶から流れ出しそうになる」
「それは困るね」
「そこが今の問題です」
リラは水をつけ、両手をこすり合わせた。
すると、すぐに細かな泡が立ち、指の間へふわりと広がっていく。
「すごい……」
リラの表情がぱっと明るくなった。
「泡がふわふわ!」
「本当?」
「うん それに、いつもの石鹸よりすぐ泡立つ」
丁寧に泡を洗い流したリラは、両手を眺めながら何度か指を動かした。
「手もつっぱらない」
「よかったぁ」
思わず胸をなで下ろす。
自分では何度も試したし、エマや宿のお客さんにも使ってもらった。
それでも、最初に石鹸の悩みを話してくれたリラに気に入ってもらえるかどうかは、少し不安だったのだ。
「これなら、パン屋でも使えそう」
「パン屋で?」
「毎日、何度も手を洗うからね 粉も生地も手につくし」
リラはもう一度、自分の手を開いて眺めた。
「でも、このままだと瓶が必要だね」
「そうなんだよね」
「倒したら、全部こぼれそう」
「それも困ってる」
「固形になったら、もっと使いやすそうだね」
「私もそう思う」
二人して真剣な顔で瓶を見つめる。
どうすれば固まるのか。
分量を変えるべきか。
それとも、混ぜる時間が足りなかったのか。
考え始めると、すぐに頭の中が石鹸のことでいっぱいになっていく。
「次は灰汁を少し濃くしてみようかな」
「ノア、本当に石鹸のことばっかり考えてるね」
「だって楽しいんだもん」
笑って答えると、リラもつられるように笑った。
そのとき、店の扉についた鈴が軽やかに鳴った。
「こんにちは」
低く落ち着いた声が店内へ響く。
「あ……」
隣にいたリラの様子が、一瞬で変わった。
頬がほんのり赤くなり、背筋がぴんと伸びる。
さっきまで普通に笑っていたのに、急に動きまでぎこちない。
私はその様子を見て、そっと口元を押さえた。
(もしかして……)
店へ入ってきたのは、背が高く肩幅の広い青年だった。
日に焼けた肌に、たくましい腕。
仕事帰りなのか、丈夫そうな服の袖を肘までまくっている。
笑うと、人懐っこい目元がやわらかく細くなった。
「いつものライ麦パンを五つお願いします」
「は、はい!」
リラの声が、分かりやすいくらい上ずった。
いつもなら迷わず手に取れるはずのパンを、なぜか一度取り違える。
「あっ、これは違う……」
「慌てなくて大丈夫だよ」
青年が笑う。
「ご、ごめんなさい」
耳まで赤くしながら、リラはライ麦パンを袋へ入れていった。
青年は代金を払い、袋を受け取る。
「ありがとう また来るよ」
「はい お待ちしてます」
店を出ていく青年を、リラは扉が閉まるまで見送っていた。
鈴の音が消える。
しばらくの沈黙。
私はにやりと笑った。
「リラ」
「……な、なに?」
「あの人?」
「何のこと?」
「気になる人」
リラの目が泳ぐ。
「べ、別にそんな……」
「じゃあ、どうしてライ麦パンを間違えたの?」
「それは……」
「顔も赤かったよ」
「暑かったの」
「今日は涼しいけど」
「もう!」
とうとう観念したように、リラは両手で顔を覆った。
そのまま、小さくうなずく。
「……うん」
「やっぱり」
「笑わないでよ」
「笑わないよ」
私はカウンターへ頬杖をつき、少し身を乗り出した。
「どんなところが好きなの?」
リラはしばらく迷っていたけれど、やがて照れくさそうに笑った。
「困っている人を見かけると、放っておけないところ」
「優しいんだ」
「うん この前も、荷物を落としたおばあさんを手伝ってたの」
「へぇ」
「それに、仕事も真面目だし」
リラは青年が出ていった扉の方を見つめながら、さらに小さな声で続けた。
「頼れそうなところも、いいなって」
さっきの青年の姿を思い返す。
背が高くて、肩幅が広くて、腕もたくましかった。
「つまり、筋肉?」
「もう!」
リラが恥ずかしそうに私の腕を軽くたたいた。
「そこだけじゃないってば」
「でも、少しは入ってる?」
「……少しだけ」
二人で顔を見合わせ、声を立てて笑う。
ひとしきり笑ったところで、今度はリラがにやりとこちらを見た。
「そういうノアは?」
「私?」
「うん 気になる人はいないの?」
思わず目を瞬かせる。
「気になる人……」
腕を組み、真剣に考えてみる。
リラは期待するように少し身を乗り出した。
「宿のお客さんとか、街で会う人とか」
「うーん」
「顔が好みの人くらいいない?」
考えてみる。
けれど、頭に浮かんできたのは人の顔ではなかった。
白くて、柔らかくて、泡立ちのいいもの。
分量を変えれば固まるかもしれない。
香りもつけてみたい。
髪を洗っても、きしまないものにしたい。
「あ」
「誰かいた?」
リラの目が輝く。
私はカウンターの上に置いた瓶へ視線を落とした。
「石鹸かな」
「……え?」
「今、一番気になるのは石鹸」
リラが固まった。
私は瓶を大切そうに両手で包む。
「どうすれば固まるのか気になるし、もっと泡立ちもよくしたいし、髪にも使えるようにしたいし」
「人の話をしてるの」
「でも、今の私の頭の中、ほとんど石鹸だよ」
「恋愛の話」
「石鹸を作ってると、ずっと考えちゃうの 朝起きても気になるし、仕事中も会いたくなるし、失敗したら落ち込むし、うまくいったらすごくうれしい」
そこまで言って、ふと気づいた。
「これって、恋人みたいじゃない?」
「違うと思う」
即答だった。
私は少し考えてから、真顔で言った。
「今の私の恋人は石鹸です」
「そんな寂しいこと、堂々と言わないでよ」
「寂しくないよ 毎日楽しいもん」
「石鹸はノアのこと褒めてくれないでしょ」
「泡で応えてくれるよ」
「会話できてないじゃない」
「でも、正直だよ 分量を間違えたら固まらないし」
リラはしばらく私を見つめたあと、深いため息をついた。
「ノアの恋は、まだまだ先みたいね」
「そうかな?」
「そうだよ 石鹸より気になる人が現れたら教えてね」
少し考えてみたけれど、やっぱりそんな人は思い浮かばない。
「そんな人、現れるかな」
「現れるよ、きっと」
リラはそう言って笑った。
私はその言葉の意味を深く考えることもなく、再び瓶へ目を落とす。
「それより、固める方法なんだけど」
「もう石鹸の話に戻るの?」
「大事な話だよ」
「はいはい」
呆れながらも、リラは楽しそうに笑っていた。
焼きたてのパンの香りが漂う店の中に、二人の笑い声がしばらく響いていた。
泡で答えてくれるよ キリッ




