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名前を忘れた私ですが、たぶん異世界で石鹸屋をはじめます。〜いい人しかいないんですが、罠ですか?〜  作者: まの月


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7話 はじめてのお客さま

固まらなかった石鹸。


それでも私は、毎日少しずつ使い続けていた。


朝、顔を洗うとき。


料理のあと、油のついた手を洗うとき。


洗濯を始める前にも、指先へ少し取って試してみる。


「やっぱり、泡立ちはいいんだよねぇ」


両手をこすり合わせると、ふわふわとした泡が指の間に広がった。


水で流せば、油のぬるつきもきれいに落ちる。


洗い上がりもさっぱりしていて、これまで宿で使っていた石鹸より、手がつっぱらない気がした。


「固まってくれたら、完璧なのになぁ」


木べらですくった石鹸を小さな器へ戻し、木のふたを閉める。


柔らかく、とろりとしているため持ち運びには向いていない。けれど器に入れて置いておけば、使う分だけすくって使うことができた。


最初は失敗作だと思っていたのに、使えば使うほど便利に思えてくる。


思い描いていたものとは違っただけで、これはこれで悪くないのかもしれない。


 ◇


数日後。


昼食の片付けを終えた宿は、少し静かになっていた。


私は石鹸を入れた器を抱え、裏の洗い場へ向かう。


そこではエマが、野菜を入れていた木箱を水で洗っていた。


「エマ、もう一回これを使ってみて」

「また例の石鹸かい」

「うん 何日か使ってみたけど、やっぱり汚れはよく落ちるの」


差し出した器を、エマは半信半疑といった顔で受け取った。


指先で少しすくい、水をつけて両手をこすると、すぐに白い泡が立ち始める。


「……これは楽だねぇ」

「でしょ!」

「固い石鹸みたいに、何度もこすらなくていい」


エマは木箱の汚れがついた手を丁寧に洗い、水で流した。


それから手のひらを返したり、指先を眺めたりしながら確かめている。


「汚れもちゃんと落ちてるね」

「ほんと?」

「ああ 固まらなかったのは残念だけど、悪いものじゃないよ」


その一言に、ぱっと顔が明るくなった。


「よかったぁ」

「ただ、器を倒したら大変そうだねぇ」

「そこは考えないといけないね」


私は真剣な顔で器を見つめた。


使えることは分かった。


だったら次は、どうすればもっと使いやすくなるかだ。


固める方法を考えるのか。


それとも、この柔らかいまま使える容器を考えるのか。


どちらにしても、まだ試したいことはたくさんある。


「まずは、もう少しみんなに使ってもらいたいな」

「トムにも試してもらえばいいじゃないか」

「トムは何を渡しても『悪くない』しか言わないもん」

「確かにねぇ」


二人で顔を見合わせて笑った。


 ◇


その日の夕方。


私は食堂でテーブルを拭きながら、何気なく正面の大きな窓へ目を向けた。


食堂の中からでも、通りや入口横にある洗い場がよく見える。


街道や森を歩いてきた旅人たちは、宿へ入る前にそこで手や顔を洗い、靴についた泥を落としていく。


こうした洗い場は宿だけではなく、冒険者ギルドや大きな店にもあるらしい。外の汚れを中へ持ち込まないため、この街では珍しくないものだった。


宿の洗い場にも水桶と手桶、靴底の泥を落とすための固いブラシが置かれている。


もちろん、簡単に手を洗えるようにいつもの固い石鹸も一つ置いてあった。


そんな洗い場の前で、一人の男性が立ち止まった。


「あ、お客さん」


背負っている大きな荷物には薄く土ぼこりが積もり、外套の裾にも乾いた泥がついている。


男性は宿の看板を見上げたあと、入口横の洗い場へ向かい、荷物を木の長椅子へ下ろした。そのまま靴の裏についた泥をブラシで落とし始める。


私は洗い場に置かれた固い石鹸を見た。


それから、食堂の棚に置いてある自分の石鹸へ視線を移す。


「……使ってもらってもいいかな」


誰かに勧めるのは、少し緊張する。


自分とエマは問題なく使えた。


けれど、初めて会う人がどう感じるかは分からない。


器を手に取ったものの、なかなか一歩が踏み出せずにいると、厨房から出てきたエマが首をかしげた。


「どうしたんだい?」

「外のお客さんに、この石鹸を使ってもらおうかと思って」

「いいんじゃないかい」

「でも、いきなり声をかけたら迷惑かな」


エマは窓の外をちらりと見た。


「普通の石鹸を使う前に持っていけばいいさ 嫌なら断るだろうよ」

「そうだよね」


小さく息を吸い、器を両手に持って宿の外へ出た。


「いらっしゃいませ」


声をかけると、男性が振り返る。


「ああ 今日は泊まれるかい?」

「はい お部屋は空いています」

「それはよかった」


男性はほっとしたように笑った。


近くで見ると、外套の裾や靴にはやはり乾いた泥がついている。かなり長い距離を歩いてきたのだろう。


「手も洗われますよね?」

「ああ そのつもりだ」

「あの……よかったら、こちらを使ってみませんか?」


私は両手で器を差し出した。


中に入っているのは、白く柔らかな石鹸。


男性は興味深そうに中をのぞき込んだ。


「これは?」

「私が作った石鹸です」

「君が?」

「はい まだ試しに作ったものなんですけど、ちゃんと汚れは落ちます」


言い切ってから、少しだけ不安になった。


たぶん、ではなく、ちゃんとと言ってしまった。


けれど自分でも何度も試したし、エマも問題なく使えた。


大丈夫なはず。


男性はしばらく柔らかな石鹸を見つめていたけれど、やがて笑った。


「それなら、使わせてもらおうかな」

「ありがとうございます!」

「礼を言うのはこっちじゃないのか?」

「でも、初めてのお客さまなので」

「初めて?」

「はい 宿の人以外では」


男性は少し驚いたように眉を上げた。


「それは責任重大だな」


冗談めかして言いながら、指先で石鹸を少しすくう。


水をかけて両手をこすり合わせると、すぐに細かな泡が広がっていった。


「おお」


男性が目を丸くする。


その反応が気になって、思わず一歩近づいた。


「どうですか?」

「よく泡立つな」

「ほんとですか?」

「ああ 少し取っただけなのに、十分だ」


男性は手の甲や指の間まで丁寧に洗い、水で泡を流していく。


旅の間についた汚れが落ち、手がすっきりときれいになった。


「これはいいな」


その言葉を聞いた瞬間、胸が高鳴った。


「洗ったあと、変な感じはしませんか?」

「変な感じ?」

「手がつっぱるとか、ぬるぬるが残るとか」


男性は手を開いたり握ったりしながら確かめる。


「いや さっぱりしてる」

「よかったぁ」


肩からふっと力が抜けた。


男性はもう一度、自分の手を眺めてから言った。


「旅をしていると、手を洗っても泥や油が残ることがあるんだ これだけきれいに落ちるなら助かるよ」

「本当ですか?」

「ああ 気持ちよく洗えた ありがとう」


その一言が、胸の奥へじんわりと染み込んだ。


売ったわけではない。


立派な形をしているわけでもない。


自分ではまだ、完成した石鹸だとも思っていない。


それでも、自分が作ったものが初めて誰かの役に立った。


「こちらこそ、使ってくださってありがとうございました」


器を抱え、深く頭を下げる。


「ずいぶん丁寧だな」

「初めて褒めてもらったので」

「宿の人には?」

「それは身内みたいなものなので」


ちらりと窓を見ると、食堂の向こうでエマが、聞こえているぞと言いたげな顔をしていた。


男性はそれを見て、声を立てて笑った。


「じゃあ、俺が最初の客だ」

「はい!」

「完成したら、また使わせてくれ」

「もちろんです」


男性は荷物を持ち上げると、宿の入口へ向かった。


その背中を見送ったあと、私は手の中の器へ目を落とす。


「……喜んでもらえた」


小さくつぶやいた途端、さっきまで抑えていたうれしさが一気に込み上げてきた。


食堂へ戻ると、エマが腕を組んで待っている。


「ずいぶんうれしそうだねぇ」

「だって、いい石鹸だって!」

「そこまでは言ってなかったと思うけどね」

「でも、また使いたいって言ってくれたよ」

「それはよかったじゃないか」

「うん!」


私は器を大切に棚へ戻した。


最初はただ、自分が使いやすいものを作りたかった。


髪がきしまず、洗ったあとに気持ちよくなれるものが欲しかった。


けれど、自分だけではなく、ほかの誰かにも喜んでもらえる。


それは思っていたより、ずっと心が弾むことだった。


「もっといい石鹸を作ろう」


固まる石鹸。


香りのいい石鹸。


髪を洗っても、きしみにくい石鹸。


作りたいものが、頭の中に次々と浮かんでくる。


「まずは、ちゃんと固めないとね」


エマが笑う。


「分かってるよ」


私も笑い返した。


初めてのお客さまからもらった言葉が、胸の中で何度も繰り返される。


また使わせてくれ。


その言葉は、次の石鹸を作るための何よりの力になった。

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