6話 はじめての石鹸
翌朝。
目を覚ました瞬間、真っ先に石鹸のことを思い出した。
昨夜、買ってきた灰を水に浸しておいたのだ。
灰から取った水と油を混ぜる。
記憶の中では、それが石鹸作りの始まりだった。
早く裏へ行って、灰の様子を確かめたい。
けれど、まずは宿の仕事がある。
いつもより早く着替えを済ませて食堂へ向かい、パンを並べ、食器を用意し、エマと一緒に朝食の準備を進めていく。
やがて宿泊客が食堂へ集まり始めると、料理を運び、空いた皿を下げ、食事を終えた客を見送った。
身体はちゃんと動いている。
それなのに、頭の中はずっと石鹸のことでいっぱいだった。
灰汁はちゃんとできているだろうか。
油と混ぜれば、本当に石鹸になるのだろうか。
「ノア」
「はいっ」
「その皿、さっきからずっと拭いてるよ」
「……あ」
言われて手元を見ると、同じ皿を何度も布巾で磨いていた。
エマが呆れたように笑う。
「今日は朝から落ち着かないねぇ」
「石鹸のことで頭がいっぱいなの」
「それは見れば分かるよ」
「ごめんなさい」
「まあ、朝の片付けが終わるまでは、皿のことも忘れないでおくれ」
「はい」
今度こそ皿を棚へ戻し、石鹸のことを考えないようにしながら片付けを進めた。
……考えないようにするほど、気になるんだけど。
◇
朝食の片付けを終えると、私はすぐに宿の裏へ向かった。
洗い場の近くにある、屋根付きの外かまど。
昔は果物を煮たり、大きな鍋で湯を沸かしたりするときに使っていたらしいけれど、今ではほとんど使われていない。
多少何かをこぼしても厨房ほど困らないし、水場も近い。
石鹸を作るには、ちょうどいい場所だった。
「よし」
物置から、昨日エマにもらった古い鍋を運び出す。
井戸の水できれいに洗い、布で丁寧に水気を拭き取ってから外かまどの上へ置いた。
鍋の縁を軽くたたく。
「今日からよろしくね」
もちろん返事はない。
「……うん、知ってる」
一人で答えて、小さく笑った。
続いて、昨夜から灰を浸しておいた容器を運んでくる。
上澄みを布でこすと、少し濁った水が器へ落ちていった。
「これが灰汁……で、合ってるはず」
見た目は、少し濁った水とあまり変わらない。
どれくらいの濃さが必要なのかも分からないし、記憶に残っているのは油と液体を混ぜる手元くらいだ。
使う量も、火加減も、混ぜる時間もはっきりとは思い出せない。
分からないことだらけ。
「とりあえず、やってみよう」
外かまどに薪を入れて火をつけ、鍋へ油を注ぐ。
ゆらりと揺れる油の表面を見ながら、火加減を少しずつ調整した。
「温めすぎないように……だった気がする」
問題は、どのくらいが温めすぎなのか分からないことだけど。
しばらく様子を見てから、灰汁を少しずつ鍋へ加えていく。
木べらを握り、ゆっくりとかき混ぜ始めた。
くるくる。
くるくる。
最初は分かれていた油と灰汁が、鍋の中でまだらに揺れている。
「本当に石鹸になるのかな」
不安はある。
けれど、それ以上に胸が高鳴っていた。
この世界へ来てから初めて、自分の記憶を頼りに何かを作ろうとしている。
うまくいけば、髪を洗ったあとのきしみを減らせるかもしれない。
リラにも使ってもらえるかもしれない。
そう考えていると、自然と頬が緩んできた。
「いーっヒッヒッヒッヒ……」
木べらを動かしながら、わざと低い笑い声を漏らす。
「石鹸になぁれ……」
「……ノア?」
背後から声がした。
振り返ると、エマが外かまどのそばに立っていた。
何とも言えない顔で、私と鍋を交互に見ている。
「どうしたんだい、その笑い方は」
私は木べらを持ったまま、にっこりと笑った。
「鍋をかき混ぜるための儀式です」
「……儀式?」
「はい」
真剣な顔で頷く。
「初めてなので、きっと必要です」
エマはしばらく黙って私を見つめていた。
「……そうかい」
「はい!」
「まあ、うまくいくといいねぇ」
「ありがとうございます」
エマは小さく首をかしげながら宿へ戻っていく。
その途中で一度だけ振り返り、小さくつぶやいた。
「……変わった子だねぇ」
私はそれに気づかないまま、再び鍋へ向き直った。
「いーっヒッヒッヒッヒ……」
儀式再開。
◇
くるくる。
くるくる。
どれくらい混ぜればいいのか分からない。
それでも木べらを動かし続けていると、さらさらしていた鍋の中身が少しずつ重くなってきた。
「おっ?」
木べらを持ち上げると、白っぽく濁った液体がとろりと鍋へ落ちる。
最初よりも確実に粘りが出ていた。
記憶の中で見たものに、少しだけ近づいた気がする。
「これじゃない?」
期待しながら、さらにしばらく混ぜ続けた。
木べらを動かす腕が重くなってきたところで火を止める。
本当なら、このあと平たい容器へ流し込むはずだ。
けれど今回はまだ型を用意していないし、初めて作ったものが本当に固まるのかも分からない。
「今日は鍋のままでいいか」
まずは固まるかどうか確かめたい。
鍋を外かまどから下ろし、布をかぶせる。
「明日には石鹸になっていますように」
鍋の前で両手を合わせた。
こちらは儀式ではなく、本気のお願いだった。
◇
翌朝。
朝食の片付けを終えると、私はすぐに宿の裏へ向かった。
「固まってるかな」
期待しながら、鍋にかぶせていた布を取る。
「……あれ?」
鍋の中身は、昨日より白っぽくなっていた。
けれど、記憶にある四角い石鹸とはまったく違う。
恐る恐る木べらを差し込むと、柔らかな中身がとろりと形を崩した。
「固まってない……」
肩から一気に力が抜ける。
あれだけ混ぜたのに。
儀式までしたのに。
「儀式の効果、なかったなぁ」
その場にしゃがみ込み、鍋の中をじっと見つめた。
白くて、柔らかくて、少し粘りがある。
完全な液体ではないけれど、固形とも言えない。
「失敗かぁ」
木べらの先についたものを指で少し取る。
なんとなく水をつけて指先をこすってみると、わずかに泡が立った。
「……泡?」
思わず目を瞬かせる。
もう一度、今度は少し多めに取り、両手をこすり合わせてみた。
小さな泡が広がった。
水で流すと、指についていた油汚れも落ちている。
「石鹸には、なってる?」
固まっていないだけで、ちゃんと洗うことはできる。
私は改めて鍋の中身を見つめた。
思い描いていた四角い石鹸ではない。
けれど、失敗とも言い切れない。
「柔らかい石鹸……」
使う分だけすくえばいい。
洗い場に置いておけば、そのまま使える。
形は違っても、汚れを落とせるなら立派な石鹸ではないだろうか。
「これ、これで使えるんじゃない?」
さっきまで落ち込んでいた気持ちが、一気に持ち上がっていく。
最初から思い描いていたものとは違う。
それでも、自分が初めて作ったものがちゃんと泡を立てた。
胸の奥から、じわじわとうれしさが込み上げてくる。
「できた……」
鍋を抱えるようにして笑った。
「初めての石鹸、できた!」
その声を聞きつけたのか、エマが裏口から顔を出した。
「固まったのかい?」
「固まりませんでした!」
「ずいぶんうれしそうに言うねぇ」
「でも、ちゃんと泡が立つの 汚れも落ちたよ」
得意げに両手を見せると、エマは近づいて鍋の中をのぞき込んだ。
「ずいぶん柔らかい石鹸だねぇ」
「うん でも、これはこれで便利かもしれない」
「使えるのかい?」
「使えると思う みんなで試してみようよ」
エマは柔らかな石鹸をしばらく見つめたあと、ふっと笑った。
「そこまで言うなら、試してみようかねぇ」
「ほんと?」
「ああ ただし、変な笑い声はなしだよ」
「儀式は最初だけだから大丈夫」
「……最初だけだったのかい」
エマが呆れたように笑う横で、私はもう次のことを考え始めていた。
分量を変えたら、もっと固くなるだろうか。
灰汁を濃くしたらどうなるだろう。
混ぜる時間を長くしたら。
次は平たい容器に流してみよう。
「もう一回作ってみる」
そう言うと、エマは苦笑した。
「今度は固まるといいねぇ」
「はい!」
初めての石鹸は、思っていた形にはならなかった。
それでも確かに泡を立て、汚れを落とした。
完璧じゃない。
けれど、初めて自分の手で作ったものがちゃんと石鹸になった。
その小さな成功だけで、胸はいっぱいだった。
ラブ要素が(๑¯ω¯๑)




