5話 はじめの一歩
リラと話をしてから、石鹸のことが頭から離れなくなった。
気になっていたのは、私だけではない。
リラも髪のきしみや手荒れが気になると言っていたし、もっと気持ちよく使える石鹸があれば使ってみたいとも言っていた。
その言葉を聞いてから、胸の奥に小さく芽生えた気持ちが日に日に大きくなっている。
自分で作ってみたい。
もっと泡立って、髪がきしみにくい石鹸を。
けれど、私は石鹸を作ったことがない。作り方をはっきり覚えているわけでもなかった。
それなのに必要なものを考えると、頭の中にはいくつかの言葉が自然と浮かんでくる。
油。
灰から取った水。
香りをつけるもの。
温めるための鍋に、混ぜるための道具。
どこで知ったのかは分からない。
ただ、昔の私は石鹸の作り方をどこかで見たことがある。
そんな気がしてならなかった。
◇
その夜、寝台に横になって目を閉じると、暗闇の中にぼんやりとした景色が浮かんできた。
木の机の上に並べられた、いくつもの容器。
透明な油に、白い粉。
ゆっくりと鍋の中を混ぜる手。
やがて、とろりとした液体が四角い型へ流し込まれていく。
『初めての方でも作れる、手作り石鹸です』
明るい声が聞こえた。
目の前にあるのは、窓のような四角いもの。その中で、知らない誰かが石鹸を作っている。
場面が切り替わると、今度は真っ白な石鹸がいくつも並んでいた。
『しっかり乾燥させてから使いましょう』
「……あ」
そこで景色が途切れた。
私は勢いよく身体を起こす。
今までよりも、ずっとはっきり見えた。
あれは自分が石鹸を作っていた記憶ではない。誰かが作っているところを、四角い画面越しに見ていたのだ。
「動画……?」
口から自然に出た言葉に、自分でも首を傾げる。
意味は分かる。
けれど、この街では一度も見たことがないものだった。
「私、作ったことはないんだ」
そう気づくと、少しだけ肩の力が抜けた。
なぜか作れるような気がしていたけれど、実際に作った経験があるわけではないらしい。
それでも、何度か見たことはある。
材料も、だいたいの流れも覚えている。
「手探りになるけど……」
何もしなければ、これからも今の石鹸を使い続けるだけだ。
それなら、試してみてもいいんじゃないだろうか。
私は膝の上で拳を握った。
「やってみよう」
◇
翌朝。
朝食の片付けが終わるのを待って、帳簿を見ていたエマへ声をかけた。
「エマ、お願いがあるの」
「なんだい?」
「石鹸を作ってみたい」
その一言に、エマの手がぴたりと止まった。
「石鹸を?」
「うん」
「作ったことがあるのかい?」
「ない」
「ないのかい」
エマが少し呆れたように私を見る。
「でも、作り方を見たことはあるみたいなの」
「みたい?」
「記憶の中で、誰かが石鹸を作ってた 私はそれを見てたの」
エマは手にしていた帳簿を閉じた。
「それも、戻ってきた記憶なのかい?」
「たぶん 全部は思い出せないけど、必要なものはいくつか分かるの」
「危なくはないのかい?」
「危ないものは使わない だから、少しずつ試す 絶対に厨房ではやらないし、料理の道具も使わない」
そこまで一気に話すと、エマは腕を組んだまま私の顔をじっと見た。
「本当にやりたいんだね?」
「うん」
迷わず答える。
エマは小さく息をついた。
「材料はどうするんだい?」
「貯めていたお給金を使う」
「住む場所も食事もあるからって、ほとんど使ってなかったものねぇ」
「うん 自分で使う分だから、自分で払う」
しばらく考えていたエマだったけれど、やがて仕方なさそうに笑った。
「そこまで考えてるなら、反対はしないよ」
「ほんと?」
「ああ ただし、無茶はしないこと」
「分かった!」
「それから宿を燃やさないこと」
「燃やさないよ!」
「ノアなら、夢中になって鍋を焦がしそうだからねぇ」
「失礼な」
思わず口を尖らせると、エマが楽しそうに笑った。
「それで、他には何が必要なんだい?」
「鍋を一つ借りたいの」
「宿の鍋は料理用だよ」
「やっぱり駄目?」
「当たり前だろう 石鹸を作った鍋でスープを煮る気かい?」
「それは私も嫌」
二人で顔を見合わせる。
すると、エマは何かを思い出したように立ち上がった。
「そういえば、宿の裏に使っていない外かまどがあったね」
「外かまど?」
「ああ 昔はジャムを煮たりするのに使ってたけど、今はほとんど使ってない」
「それ、使っていいの?」
「汚れても構わない場所だしね そこでやるなら好きにしな」
「やる!」
思わず身を乗り出すと、エマは苦笑しながら頷き、奥の倉庫へ向かった。
しばらくして戻ってきたエマの手には、少し黒ずんだ古い鍋があった。底には長年使われてきたことが分かる焦げ跡が残っている。
「これ、昔ジャムを煮てた鍋だよ もう使ってないから好きに使いな」
「いいの?」
「新品みたいに扱う必要はないだろう?」
差し出された鍋を受け取ると、ずしりとした重みが両手に伝わった。
古くて、焦げ跡までついている。
それなのに不思議と嫌な感じはしなかった。
むしろ、これから何かを始めるための大切な道具を手に入れたような気がする。
「ありがとう、エマ」
「無茶はするんじゃないよ」
「うん!」
◇
仕事を終えると、私は必要なものを書き出した紙を手に街へ出た。
油は市場で買える。
灰も、燃料を扱う店へ行けば分けてもらえるかもしれない。
香りについては、まだ後でいい。
最初から欲張って失敗するより、まずは石鹸らしいものを作ることが先だ。
「油と、灰と……」
紙を見ながら指を折る。
「混ぜる棒も欲しいな」
記憶の中では、もっと透明でつるりとした容器を使っていた気がする。けれど、この街に同じものがあるとは限らない。
道具も材料も、記憶の中とまったく同じにはできないだろう。
だったら、この世界にあるもので代わりを探すしかない。
まずは市場で小さな瓶に入った油を買い、次に灰を扱っていそうな店を探した。
何軒か尋ねて回り、ようやく薪を売る店で灰を分けてもらうことができた。
油の瓶と灰の入った袋を買い物かごへ入れる。
これだけでは、まだ石鹸にはならない。
記憶だって曖昧だし、本当にうまくいくのかも分からない。
それでも。
「そろった……」
買い物かごの中を見つめていると、思わず頬が緩んだ。
宿へ戻ると、私はそのまま外かまどの前へしゃがみ込んだ。
エマからもらった古い鍋をそっと置き、その横に買ってきた油と灰を並べていく。
頭の中にあるのは、途切れ途切れの動画の記憶だけ。
何回混ぜるのか。
どのくらい温めるのか。
いつまで待てばいいのか。
分からないことばかりだった。
それでも、不思議とやめようとは思わなかった。
「失敗したら、また考えよう」
最初から完璧にできるとは思っていない。
失敗したら、何が駄目だったのか考えて、また試せばいい。
始めなければ、何も変わらないのだから。
私は古い鍋の縁をそっと撫でた。
「まずは一回、作ってみよう」
それが、私のはじめの一歩だった。




