4話 はじめての友達
「ノア、パンを買ってきておくれ」
「はい!」
エマから買い物かごを受け取り、いつものパン屋へ向かう。
扉を開けると、焼きたてのパンの香りがふわりと広がった。
「こんにちは!」
「あ、ノアちゃん!」
店番をしていたリラが、こちらを見て笑った。
リラは私と同じくらいの年頃の女の子だ。パンを買いに通ううちに話すようになり、今では顔を合わせるたびについ話し込んでしまう。
「今日も宿のおつかい?」
「うん 食パンを二つと丸パンを四つください」
「はーい」
リラは慣れた手つきでパンを袋へ入れながら、ふと私の髪に目を留めた。
「今日は髪を編んでるんだね」
「うん 少しだけ変えてみたの」
今日は両側の髪を細く編み、後ろで一つにまとめていた。
どうしてできるのかは分からない。けれど髪を結んだり編んだりするのは、まるで手が覚えているように自然とできた。
「自分でやったの?」
「そうだよ」
「器用だねぇ 私なんて一つに結ぶだけでも曲がるのに」
「今度してあげようか?」
「ほんと?」
「うん リラの髪なら、編み込みも似合いそう」
その言葉に、リラはぱっと目を輝かせた。
「やった! 約束ね」
「もちろん」
パンを受け取ろうとすると、リラが思い出したように小さな丸パンを一つ差し出してきた。
「これ、新しく焼いてみたの」
「試食?」
「うん 感想を聞かせて」
さっそく一口かじってみると、表面は香ばしいのに、中は驚くほど柔らかい。
「おいしい!」
「ほんと?」
「外はカリッとしてるのに、中はふわふわ」
「よかったぁ」
安心したように笑うリラを見ていると、私までうれしくなった。
「これなら宿のお客さんも絶対好きだと思う」
「じゃあ、今度エマさんにも食べてもらおうかな」
「持って帰ったら、たぶん旦那さんが先に食べるよ」
「ありそう」
二人で顔を見合わせて笑った。
◇
数日後。
買い物を終えた私は、パン屋の店先にあるベンチへ腰を下ろしていた。ちょうど店も落ち着いたらしく、リラも隣へ座る。
他愛のない話をしていると、リラがふと私の顔を見た。
「ノアちゃんって、私と同じくらいだよね?」
「たぶん」
「たぶん?」
「年齢も覚えてないから」
「あ……そっか」
リラの顔が曇る。
「ごめん 嫌なこと聞いた?」
「ううん 気にしないで」
本当に嫌ではなかった。
記憶がないことを寂しいと思うことはある。けれど、周りが私に何も聞かないよう気を遣い続ける方が、少し苦しかった。
だからこうして普通に聞いてくれることが、むしろうれしい。
「見た目だけなら、二十歳くらいかなって思ってたんだけど」
「二十歳……」
その言葉を聞いた瞬間だった。
頭の中に、知らないはずの景色が浮かぶ。
大きな鏡。
鮮やかな色の着物。
その前で袖を広げ、くるりと回る私。
髪はきれいに結い上げられ、小さな飾りが揺れている。
『すごくお似合いですよ』
誰かがそう言って笑っていた。
『二十歳の記念ですから』
「あ……」
「ノアちゃん?」
消えてしまいそうな景色を追いかけるように、私は目を閉じた。
もう少し。
何か思い出せそうな気がする。
けれど、どれだけ待ってもそれ以上の景色は浮かんでこなかった。
「少しだけ、思い出したかもしれない」
「ほんと?」
「きれいな着物を着てたの 髪も結ってもらって……」
あのときの私は、鏡に映る自分をうれしそうに眺めていた。
きっと昔から、おしゃれをすることが好きだったのだと思う。
「それでね 二十歳の記念って言われた気がする」
リラは一瞬目を丸くしたあと、ぱっと笑った。
「じゃあ私と同い年!」
「リラも二十歳なの?」
「うん!」
「じゃあ、本当に同い年かもしれないね」
「まだ、かもしれないなんだ」
「二十一歳だった可能性もあるから」
「それなら私よりお姉さんだね」
「敬ってくれてもいいよ」
「急に偉そう!」
二人で声を上げて笑った。
思い出せたのは、ほんの一瞬の景色だけ。
それでも今日は、忘れていた何かを失ったような寂しさより、リラと同い年かもしれないことの方がうれしかった。
「ねえ、ノアちゃん」
「なに?」
「今度、仕事が休みの日に一緒に出かけない?」
「出かける?」
「うん 市場を見たり、お菓子を食べたり」
買い物ではなく、誰かと遊びに出かける。
この街へ来てから、そんなことは一度もなかった。
そう考えるだけで、胸の奥がくすぐったくなる。
「行きたい」
「決まりね!」
「その日は髪も可愛くしてあげる」
「やった!」
この街でできた、初めての友達。
そう思うと、胸の奥がじんわりと温かくなった。
◇
店へ戻ろうと立ち上がったリラの髪を見て、私はふと思い出した。
「ねえ、リラ」
「ん?」
「毎日使ってる石鹸なんだけど」
「石鹸?」
「髪を洗ったあと、きしむの気にならない?」
リラは自分の髪先をつまみ、少し考えるように指先で弄った。
「気になるよ くしも引っかかるし」
「やっぱり?」
「冬は手も荒れるしね」
その答えに、私は思わず身を乗り出した。
「私だけじゃなかったんだ」
「みんな、石鹸なんてそんなものだって言うけど」
「そうなんだよね」
汚れは落ちるし、使えないわけでもない。
けれど、洗うたびに指が引っかかる髪は、やっぱり好きになれなかった。せっかく髪をきれいに編んでも、きしんで広がればうまくまとまらない。
「もっと、なめらかになればいいのに」
「そんな石鹸があるなら使ってみたいな」
リラは何気なくそう言った。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が跳ねる。
「使ってみたい?」
「うん ノアちゃんもそう思ってるんでしょ?」
「……うん」
私だけが気にしているわけではなかった。
もっと気持ちよく使えるものがあれば、使ってみたいと思う人がいる。
まだ作り方すら分からない。
本当に作れるのかどうかも分からない。
それなのに、ぼんやりとしていたものが少しだけ輪郭を持ち始めたような気がした。
手の中にないはずの石鹸が、ほんの少しだけ形を持ったような気がした。




