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名前を忘れた私ですが、たぶん異世界で石鹸屋をはじめます。〜いい人しかいないんですが、罠ですか?〜  作者: まの月


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3話 どうしても気になるもの

宿で暮らし始めて、一か月が過ぎた。


最初は何をするにもおろおろしていた私も、今では宿の仕事をそれなりにこなせるようになっていた。


「ノア、二階の掃除が終わったら買い物をお願い」

「はい!」

「昼の前には戻ってきておくれよ」

「分かりました!」


この宿は、エマと旦那さんが二人で切り盛りしている。


旦那さんは厨房を担当し、エマは受付や客の世話をしているのだけれど、昼になると街の人たちも食事にやってくるため一気に忙しくなる。その時間だけは近所の人にも手伝いに来てもらっていた。


私がここへ来る前にも、宿の仕事を手伝っていた女の子がいたらしい。けれど結婚を機に辞めてしまい、それからエマたちはしばらく人手が足りないまま働いていたそうだ。


「ノアが来てくれて、本当に助かってるよ」


エマは時々、そう言って笑う。


その一言がうれしくて、私はつい張り切ってしまう。


相変わらず記憶は戻っていない。


自分がどこで生まれて、どんなふうに暮らしていたのか。家族がいたのかさえ、何も分からないままだ。


それでも、この街での生活は少しずつ私にとって当たり前のものになってきていた。


顔を合わせれば声をかけてくれる街の人たちに、宿へ泊まりに来る旅人や冒険者たち。昼になれば食堂から楽しそうな笑い声が聞こえてくる。


毎日は忙しい。


それでも、穏やかだった。


 ◇


その日の仕事を終えた私は、宿の裏にある洗い場へ向かった。


木の塀に囲まれた小さな洗い場は、エマたちと時間をずらして使っている。


すでに用意されていた温かい湯で一日の汗を流すと、張りつめていた身体から少しずつ力が抜けていった。


「ふぅ……」


ひと息ついてから石鹸を手に取り、髪へこすりつける。


ごし、ごし。


白い泡がわずかに立ったものの、すぐに消えていく。


「はぁ……」


もう一度こすりつけてみるけれど、やっぱり泡は増えない。


仕方なくそのまま髪を洗い流し、指を通してみた。


「やっぱり、きしむ……」


この石鹸を使い始めて、一か月。


最初はこんなものなのだろうと思っていた。街のみんなが普通に使っているものだし、エマだって何も不満を言っていない。


もちろん、使えないわけじゃない。


汚れはちゃんと落ちる。


ただ、毎日使っているうちに少しずつ気になるところが増えてきた。


泡立ちはよくないし、洗ったあとの髪はきしむ。それに香りもほとんど残らない。


「もう少しだけ、こう……」


何が足りないのか、うまく言葉にはできない。


それなのに、なぜかもっと使いやすくできるような気がする。


そう考えるたび、頭の奥がむずむずした。


何かを知っているような。


以前にも、同じことを考えたことがあるような。


そんな妙な感覚を抱えたまま、私は髪の水気を布で拭き、洗い場を出た。


すると、ちょうどタオルを抱えたエマがこちらへ歩いてくるところだった。


「お先です」

「ああ、お疲れさん」


エマは私の顔を見るなり、首を傾げた。


「どうしたんだい ずいぶん難しい顔をして」

「そんな顔してました?」

「してたよ 今にも石鹸と喧嘩を始めそうな顔だった」


そこまで言われて、私は手に持った石鹸へ目を落とす。


「この石鹸、悪くはないんです」

「うん?」

「でも、もう少し泡立ったらいいのになって」


エマは不思議そうに私の手元を見た。


「泡立ち?」

「髪もきしむし、香りもほとんど残らないし……」


そこまで言ってから、なんだか急に恥ずかしくなった。


もしかしたら、この街では誰も気にしていないことなのかもしれない。


「やっぱり、変ですか?」

「何がだい?」

「石鹸に、そんなことを考えるのって」


エマはしばらく私の手の中にある石鹸を眺めていたけれど、やがてくすっと笑った。


「私は何十年も使ってるけど、考えたこともなかったねぇ」

「やっぱり私だけなんですね」

「でも、悪いことじゃないだろう?」


エマはそう言って、私の肩を軽く叩いた。


「気になるなら、考えてみればいいじゃないか」

「考える……」

「ああ もっとよくできると思うならね」


それだけ言うと、エマはそのまま洗い場へ入っていった。


残された私は、一人で手のひらの上にある石鹸を見つめる。


丸みのある、くすんだ色の石鹸。


何度も使ったせいで、最初よりずいぶん小さくなっていた。


「もっと、よく……」


その言葉を口にした瞬間だった。


頭の奥が、かすかにざわつく。


油。


灰。


香り。


混ぜる。


固める。


言葉になりきらない何かが、一瞬だけ頭に浮かんでは消えていった。


「……今の、何?」


思い出したわけじゃない。


けれど、何も知らないとも思えなかった。


もう一度何か浮かんでこないかと、手の中の石鹸をじっと見つめる。


もしかしたら。


「もしかして、作れる……?」


そう口にした途端、胸の奥に小さな火がともったような気がした。

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