2話 転がるりんご
目を覚ましてから、一週間が過ぎた。
三日も眠っていたせいか、最初の数日は起き上がるだけでも身体が重く、少し歩くだけですぐに疲れてしまった。
エマは「焦らなくていい」と言ってくれたけれど、住む場所も食事も全部お世話になっている。このまま何もしないでいるのも落ち着かなくて、少し動けるようになってからは宿の仕事を手伝うようになった。
(働かざる者食うべからず……)
どこかで聞いたことのある言葉が、ふと頭に浮かぶ。どこで聞いたのかは思い出せないけれど、今の私には妙にしっくりくる言葉だった。
「ノアー! 三番のテーブルお願い!」
「はーい!」
昼時の食堂は、たくさんの客でにぎわっていた。
この宿では宿泊客に食事を出すだけでなく、昼には街の人たちにも料理を提供しているらしい。おかげでこの時間になると一気に忙しくなり、エマの声があちこちから飛んでくる。
私は厨房で受け取った皿を両手に持ち、こぼさないよう慎重に食堂へ運んだ。
「お待たせしました!」
「おっ 今日も元気だね」
「はい! もうすっかり元気です!」
三番のテーブルに座っていた男性が、笑いながら皿を受け取る。
初めの頃は水差し一つ運ぶだけでも腕が震えていたけれど、今では料理の皿を二枚持って歩けるようになった。ちなみに三枚に挑戦しようとした時は、エマに止められた。
まだ信用されていないらしい。
「ノア! こっちの皿を下げておくれ!」
「はい!」
空いた皿を重ねて厨房へ戻り、次は水差しを持って食堂へ向かう。その途中で、今度は客に呼び止められた。
「お嬢ちゃん、パンをもう一つもらえるかい?」
「パンですね! 少々お待ちください!」
忘れないように、頭の中で何度も繰り返す。
(パン、パン、パン……)
「ノア! こっちのテーブルも拭いておくれ!」
「はい!」
呼ばれてすぐに布巾を手に取り、空いたテーブルをきれいに拭いた。
よし、終わった。
そのまま厨房へ戻り、エマの前で立ち止まる。
「エマさん」
「なんだい?」
「私、何を取りに来たんでしたっけ?」
「私が知るわけないだろう」
「ですよねぇ」
食堂でそのやり取りを聞いていた客たちから、どっと笑い声が上がった。
「頑張れよ、お嬢ちゃん!」
「頑張ります!」
元気よく返事をしたところで、先ほどの男性が自分の皿を指さした。
「パンじゃなかったか?」
「あっ! パン!」
また食堂に笑い声が広がる。
恥ずかしくなって顔が熱くなったけれど、不思議と嫌な感じはしなかった。この宿に食べに来る人たちは、失敗ばかりの私を面白がりながらも温かく見守ってくれている。
「焦らなくていいよ 一つずつ覚えな」
「はい!」
「返事だけは一人前だねぇ」
「もうすぐ仕事も一人前になります!」
「そりゃ楽しみだ」
エマは笑いながら厨房へ戻っていった。
昼の忙しい時間が過ぎる頃には、あれほどにぎやかだった食堂も少しずつ静かになっていた。
「ノア、店先の籠を中に入れておくれ」
「分かりました!」
宿の入り口には、料理に使う野菜や果物が入った籠が置かれている。私は両手で持ち上げようとしたけれど、思ったよりも重かった。
「うっ……!」
腕に力を入れ、なんとか持ち上げた――その瞬間、籠の上に積まれていたりんごが一つ、ころりと転がり落ちた。
「あっ!」
赤いりんごは石畳の上を転がり、そのまま通りへ向かっていく。
「待って!」
りんごに待ってと言っても止まるはずはない。分かっているのに、思わず声が出た。
私は籠をその場に置くと、慌ててりんごを追いかけた。
ころころと転がるりんごは、人の足を器用に避けながら通りを進んでいく。
「すみません! 通ります!」
買い物客の間を抜け、ようやく追いつけそうになった、その時だった。
りんごの前に一人の青年が現れた。
青年は足元へ転がってきたりんごに気づくと、片足でそっと止め、そのまま腰をかがめて拾い上げた。
「あ……」
さらりとした銀色の髪に、整った顔立ち。
「わぁ……ファンタジー」
思わず口からこぼれた。
青年が、りんごを持ったままきょとんとする。
「……何?」
「いえ、なんでもないです!」
慌てて首を振る。
我ながら何を言っているんだろう。
「これ、君の?」
「はい! ありがとうございます!」
差し出されたりんごを受け取り、私は深く頭を下げた。
「ずいぶん必死だったね」
「大事なりんごなので!」
「そうなんだ」
「私のではありませんけど」
青年は一瞬きょとんとしたあと、吹き出した。
「自分のじゃないから必死なのか」
「なくしたらエマさんに怒られますから」
「それは大変だ」
笑われている気がするけれど、馬鹿にされているようには感じなかった。
「本当にありがとうございました!」
「どういたしまして」
もう一度頭を下げ、私は宿へ戻ろうと歩き出した。
ところが数歩進んだところで、青年の声が背中に飛んでくる。
「そっちは反対じゃない?」
「え?」
振り返ると、彼は私が走ってきた方向を指さしていた。その先にあるのは――宿。
「あっ……」
りんごを追いかけることに夢中で、戻る方向を間違えていた。
「ありがとうございます……」
「今度はりんごを落とさないようにね」
「気をつけます!」
私は恥ずかしさをごまかすように勢いよく答え、今度こそ宿へ戻った。
店先では、エマが腕を組んで待っていた。
「ずいぶん遠くまで行ってたね」
「りんごが思ったより元気で……」
「りんごのせいにするんじゃないよ」
「ちゃんと連れて帰ってきました!」
私は拾ってもらったりんごを、自慢げにエマへ差し出した。
エマはそれを受け取ると、表面をくるりと眺める。
「ずいぶん傷だらけになったねぇ」
「いっぱい転がりましたから……」
「で、籠は?」
「……あ」
その一言で、玄関先に置きっぱなしにした籠を思い出した。
「すぐ取ってきます!」
「りんご一個に夢中になって、籠を忘れるんじゃないよ」
「はい……」
慌てて外へ戻ると、籠は置いた時と同じ場所にぽつんと残っていた。今度こそ両手でしっかり抱えて中へ運ぶと、エマは呆れたように笑いながら、傷だらけになったりんごの皮をむいてくれた。
「売り物にはならないから、あんたが食べな」
「いいんですか?」
「そのためにあんな遠くまで追いかけたんだろう?」
「そういうつもりでは……」
言いながら受け取って、食堂の隅に腰を下ろす。
皮をむかれたりんごをひと口かじると、しゃくっと軽い音がした。少し傷はついていたけれど、味はちゃんと甘い。
名前も過去も思い出せないままだけれど、こうして働いて、失敗して、笑われて、それでも一緒に笑える時間は嫌いではなかった。
もう一口りんごをかじりながら、ふとさっきの青年を思い出す。
さらりとした銀色の髪に、整った顔立ち。
(それにしても……)
とんでもないイケメンだったな。




