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名前を忘れた私ですが、たぶん異世界で石鹸屋をはじめます。〜いい人しかいないんですが、罠ですか?〜  作者: まの月


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1話 私の名前は……

知らない匂いがする。


何かを煮込んでいるような、でも覚えのない匂い。遠くからは、人の話し声のような音も聞こえてくる。


ぼんやりと意識が浮かび上がり、ゆっくり目を開けた。


見えたのは、覚えのない木の天井だった。


(……ここ、どこ?)


起き上がろうとすると、全身がひどく重い。思うように力が入らず、私はそのまま周囲へ目を向けた。


知らないベッドに、知らない家具。窓からは明るい日差しが差し込み、遠くから誰かの話し声がかすかに聞こえている。


何ひとつ、覚えがなかった。


その時、廊下から足音が近づいてきた。


「おや やっと起きたのかい」


声とともに扉が開き、五十代くらいの女性が部屋に入ってきた。優しそうな笑顔を浮かべながら私の様子を見ると、少し驚いたように目を丸くする。


「ちょうど様子を見に来たところだったんだよ 三日も眠ってたからね」

「……三日?」


驚いて聞き返すと、女性は頷いた。


「街道の脇で倒れてるところを見つけてね このままじゃ危ないと思って連れて帰ってきたんだ」


街道の脇で倒れていた。


そう言われても、まるで覚えがない。


「ここは……?」

「リーヴェの街 そして私の宿さ」


リーヴェの街。


聞いたことのない名前だった。


どこかで聞いたことはなかっただろうかと頭の中を探る。けれど、いくら考えても何も浮かんでこない。


それどころか、思い出せないのはこの街のことだけではなかった。


家族の顔も、住んでいた場所も、自分が何者なのかさえ分からない。


何ひとつ思い出せないことに気づいた瞬間、胸の奥がすっと冷たくなった。


「あんまり考え込むんじゃないよ」


女性はそんな私を見て、少し困ったように笑った。


「昼の配膳も終わったところだからね 食べられそうなら、温かいものでも持ってこようか」

「……お願いします」


しばらくして、女性は湯気の立つ椀を持って戻ってきた。


さっき目を覚ました時に感じたものとよく似た、温かい香りが鼻をくすぐる。


「まずは食べな」


差し出された椀を受け取り、そっと口をつける。


「……おいしい」

「そうかい」


女性は安心したように笑った。


何も分からない不安は消えない。それでも、その笑顔を見ていると張りつめていたものが少しだけ緩んで、ようやく肩の力を抜くことができた。


食べ終える頃には、頭も少しずつ働き始めていた。


記憶がすべてなくなっているわけではないらしい。文字は読めるし、数も分かる。目の前にある椀が何なのかも、この女性が話している言葉の意味もちゃんと理解できる。


なのに、自分のことだけが何も分からなかった。


「そういえば」


女性が思い出したように口を開く。


「あんた 名前は?」


名前。


聞かれて、私は再び自分の記憶を探った。


けれど何もない。


焦れば焦るほど、頭の中は真っ白になっていく。


(……名前)


その時だった。


何もなかったはずの頭の中に、ふっと一つの言葉だけが浮かんだ。


ノアの方舟。


どうしてその言葉だけ思い出したのか、自分でも分からない。


自分の名前とは何の関係もないはずなのに、今の私が掴めるものはそれしかなかった。


「……ノア」

「ノア?」

「はい」


女性は少し笑って頷いた。


「いい名前じゃないか」


私は小さく笑い返した。本当の名前ではない気がしたけれど、今の私にはそれしかなかったし、不思議と嫌ではなかった。


「私はエマ この宿をやってるんだ」


そう名乗ってくれて、ようやく私は目の前の女性の名前を知った。


エマは立ち上がると窓を少し開けた。やわらかな風が部屋へ流れ込み、外の景色が目に飛び込んでくる。


石畳の道に、花を飾った店。その前を笑いながら歩いていく親子。


何もかも見覚えのない景色なのに、不思議と街の空気は穏やかだった。


「今日はまだ無理しないで、ゆっくり休みな」

「……ありがとうございます」


エマは微笑むと、空になった椀を持って部屋を出ていった。


一人になった私は、しばらく窓の外を眺めていた。


ここがどこなのかも、どうしてここにいるのかも分からない。自分が誰なのかさえ思い出せないのだから、これからどうすればいいのかなんてもっと分からなかった。


それでも、不思議と恐怖より先に浮かんだことがある。


(……生きていかなきゃ)


理由なんて分からない。


ただ、その一言だけが胸の中にはっきりと残っていた。


それにしても、三日も知らない人を宿に寝かせて、食事まで出してくれるなんて。


ありがたい。


ものすごくありがたいんだけど――。


(……本当に、こんなに甘えてて大丈夫なのかな)


今のところ、私を助けてくれたエマは驚くほどいい人だった。


それが嬉しいような、少しだけ怖いような。


何も分からない私は、もう一度窓の外へ目を向けた。

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