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名前を忘れた私ですが、たぶん異世界で石鹸屋をはじめます。〜いい人しかいないんですが、罠ですか?〜  作者: まの月


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85/106

85話 新人

 コンコン


「失礼します」


 その声を聞いた瞬間、何かが引っかかった。


 聞き覚えのある声だった。まさかと思いながら扉へ視線を向けると、ゆっくり開いた扉の向こうから、見慣れた銀髪の青年が入ってくる。


 その姿を見た瞬間、頭の中が一度止まった。


「え……? シリルさん!?」


 思わず声が裏返る。


 だって、ついこの前まで冒険者だった人だ。しかもあれだけ有名で、普通に考えたら「新人」と呼ばれる側ではない。


 なのに今、目の前にいるシリルさんは、どう見てもリーベル商会の一員みたいな顔をして立っていた。


 さすがに驚いて固まっていると、向かいに座っていたライネルさんが満足そうに口元を緩めた。


 ……絶対これ、私の反応見たかっただけだ。


「お茶をお願いします」

「かしこまりました」


 控えていた従業員が一礼し、部屋を出ていく。


 その間にシリルさんは私の前まで歩いてくると、背筋を伸ばしてきれいに一礼した。


「はじめまして。新人のシリルです。よろしくお願いいたします」

「……新人?」


 思わず聞き返す。


 いや、待って。


 何がどうなったらそうなるの。


 シリルさんを見る。ライネルさんを見る。もう一度シリルさんを見る。


 どこからどう見ても本人だ。


「えぇぇ……? どゆこと?」


 考えるより先に、完全に素の声が出た。


 ライネルさんは吹き出しそうになるのをこらえながら、わざとらしく咳払いをする。


「元々、家族はシリルが冒険者になることには反対していたんです。危険と隣り合わせの仕事ですからね。ただ、何の覚醒遺伝なのか、こいつは昔から妙に身体能力が高くてですね。冒険者という仕事に向いていたものですから、最終的には本人の意思を尊重して続けてもらっていました」

「それじゃあ、どうして急に……?」


 私が聞くと、ライネルさんは一度シリルへ視線を向け、それからまた私を見る。


「まあ、その辺はいろいろありまして」

「いろいろ?」

「ええ。いろいろです」


 意味ありげに笑う。


 絶対なんか隠してる。


 そう思ってシリルさんを見ると、本人は少し困ったように笑うだけで、説明してくれる気配がない。


 ……私だけ分かってない。


 なんか悔しい。


「とりあえず、冒険者を完全に辞めたというより、今はこちらの仕事を手伝ってもらっていると思ってください。商会の仕事も昔から時々やっていましたし、全くの新人というわけではないんですが」

「いやでも、今『新人のシリルです』って……」

「そこは本人が言いたかったんでしょう」

「兄さん」


 シリルさんが少しだけ眉を寄せる。


 その反応を見て、ライネルさんがますます楽しそうに笑った。


 なんなんだ、この兄弟。


 さっきまで王都販売の話をしていたはずなのに、急に話の情報量が増えすぎて頭が追いつかない。


「それでですね」


 ライネルさんはようやく本題へ戻るように姿勢を正した。


「王都までは馬車で五時間ほどかかります。ノアさん一人で行ってもらうより、案内できる人間が一緒の方が安心でしょう。そこで、シリルに王都までの護衛兼案内役をお願いしようと思っています」

「シリルさんが?」

「はい。王都にも何度も行っていますし、道も分かっています。護衛としての腕については、今さら説明するまでもないでしょう」


 それは確かにそうだ。


 むしろ護衛だけで考えたら、これ以上ないくらい安心できる。


 ただ。


 私はもう一度シリルさんを見る。


 冒険者の時とは違って、今日は商会の人らしいきちんとした服装をしている。見慣れているはずなのに、なんだか少しだけ違って見えた。


 そういえば、この人が護衛として毎日店に来ていた時も、気づけば普通に店員みたいになっていたっけ。


 ……いや。


 馴染むの早すぎるんだよな、この人。


「ノアさんが嫌でなければ、ですが」


 シリルさんが少しだけ遠慮がちに言う。


 その言い方に、逆にこっちが戸惑った。


「嫌なわけないじゃないですか。むしろシリルさんなら安心です」

「本当ですか?」

「はい。よろしくお願いします」


 そう答えると、シリルさんの表情がぱっと明るくなった。


 さっきまで少し緊張していたのかもしれない。


 そんなふうに見えるくらい、分かりやすく嬉しそうな顔をする。


「こちらこそ、よろしくお願いします」


 照れくさそうに笑って、小さく頭を下げる。


 その横でライネルさんが、何かを知っている人の顔でこちらを見ていた。


 ……なんなんだろう。


 やっぱり私だけ、何か知らない気がする。

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