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名前を忘れた私ですが、たぶん異世界で石鹸屋をはじめます。〜いい人しかいないんですが、罠ですか?〜  作者: まの月


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71話 ありがとうを伝えたくて

「ごちそうさまでした」


 手を合わせて顔を上げる。


「とても美味しかったです」

「ですよね! トムさんのご飯、本当においしいんです」


 食器をまとめながら、ふと思い出した。


「あっ、シリルさん。ちょっと待っててくださいね!」


「はい?」


 返事を聞くより先に立ち上がり、私は急いで部屋へ向かった。


 そうだ。


 渡そうと思ってたのに、すっかり忘れてた。


 こういう時のために準備しておいてよかったー。


 部屋に戻ると、用意しておいた袋を掴んで、そのまま急いで戻る。


「お、お待たせしました……!」


 少し息を切らしながら戻ると、シリルさんが目を丸くした。


「どうしたんですか?」

「これ、渡したくて」


 私は手に持っていた袋を差し出す。


「ご存じ中のご存じ、シャボンノア石鹸ですが、どうぞご家族でご利用ください!」


 シリルさんは一瞬きょとんとしたあと、少し笑った。


「ありがとうございます。家族も喜びます」

「よかったです」


 中には定番のシャボンノアやフィオラ、足用石鹸、それからアラボン石鹸も入れてある。


 いつも買ってくださっているものだけど、今日はお礼として渡したかった。


 シリルさんは袋を大事そうに持ち直した。


 少しして席を立ち、食堂へ戻る。


「今日はごちそうさまでした。とても美味しかったです」


 シリルさんはエマさんとトムさんにもきちんと頭を下げた。


「ありがとさん。またいつでも食べにおいで」

「はい。ありがとうございます」


 厨房の奥から顔を出したトムさんも、満足そうにうなずく。


「また来いよ。次はもっと食わせてやる」

「楽しみにしてます」


 その返事に、エマさんが笑った。


「じゃあ、シリルさん。外まで送りますね」

「ありがとうございます」


 私はシリルさんと一緒に宿の外へ出た。


 昼間より少しひんやりした空気が気持ちいい。


「今日は本当にありがとうございました」

「こちらこそ。夕食までごちそうになって、石鹸までいただいてしまいました」


 改めて向かい合うと、なんだか少しだけ変な感じがした。


 ここ数日は、朝になれば迎えに来てくれて、一緒に店へ行って、帰りも宿まで送ってもらっていた。


 それも今日で終わり。


「また来てくださいね」


 そう言うと、シリルさんが少し笑った。


「もちろんです。石鹸を買いに」

「ふふっ。ちゃんと買ってくださいね」

「もちろんです」


 また石鹸。


 でも、そう言ってくれるならいいか。


「では、おやすみなさい。ノアさん」

「おやすみなさい、シリルさん」


 シリルさんが歩き出す。


 少し離れたところで一度だけ振り返ったので、私は小さく手を振った。


 シリルさんも軽く手を上げ、そのまま歩いていく。


 護衛は、今日で終わり。


 明日からは、またいつもの毎日だ。


 ……たぶん。


◇


 今日は臨時休業。


 店先に『本日臨時休業』の札を掛け、石鹸の仕込みだけ済ませる。


 ……よし。


 まずはリディアさんのところへ行こう。


 私は服飾店へ向かった。


◇


「いらっしゃいませ」

「おはようございます。リディアさんはいらっしゃいますか?」

「リディアですか? 今、二階で作業しておりますが……お名前を伺っても?」

「ノアです。シャボンノアのノアと言います」


 頭を下げると、店員さんは少しはっとした顔をした。


「少々お待ちください」


 足早に二階へ上がっていき、しばらくすると二人分の足音が聞こえてきた。


「ノアさん。おはようございます」

「リディアさん、おはようございます」


 リディアさんは少し気まずそうにしながら、店内を見回した。


「店長。少しだけいいでしょうか」

「ええ。例の件でしょう? せっかく来てくださったのだから、応接室を使って構わないわ」

「ありがとうございます。ノアさん、こちらです」


 私は店長さんへお辞儀をして、リディアさんの後についていった。


◇


 応接室へ入り、向かい合って座る。


「リディアさん。手を見せていただいてもいいですか?」

「もちろん」


 差し出された手を見る。


 ……良かった。


 あの発疹は、もうどこにもない。


「本当にきれいな手ですね。まるでハンドモデルさんみたい」

「……ハンドモデル?」

「あっ」


 また地元の言葉を使っちゃった。


「私の地元にあったお仕事なんです。手だけを撮ったり、商品を持ったりする方がいらっしゃるんですよ」

「まあ。そんなお仕事もあるのね」

「はい。リディアさんの手を見て、思い出しちゃって」


 リディアさんは少し照れたように笑った。


「ありがとう」


 私もつられて笑う。


「今日は、そのことも含めてご報告に来ました」


 私は冒険者ギルドで聞いたことを、一つずつ話した。


 偽物を販売していた人が見つかったこと。見た目だけを真似して作っていたこと。子どもたちは事情を知らずに手伝っていたこと。父親には処分が下されること。そして、これからは正規販売店が分かりやすいよう案内を出すつもりだということ。


 リディアさんは途中で口を挟まず、最後まで静かに聞いてくれた。


「……そうだったのね」

「はい。無事に解決しました」

「本当に良かったわ」


 安心したように息をつくリディアさんを見て、私もほっとした。


「それから……あの日、お店まで知らせに来てくださって、本当にありがとうございました」


 私は頭を下げた。


「もし私だったら、知らないお店へ行って『これ違うんじゃないですか』って伝えるの、きっと勇気がいると思うんです。リディアさんが知らせてくださらなかったら、もっと被害が広がっていたかもしれません」


 リディアさんはしばらく黙っていた。


 それから、少しだけ目を潤ませて私を見る。


「あの時は、ごめんなさいね」

「え?」

「私、手があんなことになって、すごく腹が立っていて……ノアさんにもきつく言ってしまったでしょう?」


 申し訳なさそうに目を伏せる。


「それなのに、ちゃんと話を聞いてくれて、最後まで誠実に対応してくれて……本当にありがとう」

「リディアさん……」

「あなたのお店に知らせに行って、あなたが店主で本当に良かったと思ってるわ」


 一瞬、何て返そうか分からなくなった。


「……こちらこそ、来てくださってありがとうございました」


 なんだか照れくさくなって、私は横に置いていた袋を持ち上げた。


「これ、リディアさんに」

「えっ?」


 袋の中にはシャボンノアの商品を一通り入れてきた。


「こんなにいただけないわ」

「リディアさんに使ってもらいたいんです」

「でも……」

「今回はお礼なので、受け取ってください」


 そう言うと、リディアさんは袋を受け取り、嬉しそうに笑った。


「ありがとう。本当に嬉しいわ」

「ただ、もしお肌に合わなかったら、すぐに使用を中止してくださいね」

「ええ。ありがとう、ノアさん」


 ちゃんと元気になった手も見られた。


 話したかったことも、全部話せた。


 ……来てよかった。

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